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涼香。それが彼女の名前だ。
まだ僕は彼女の名前しか知らないが、今はそれで十分だった。人生生きてくうちに何度か見かけるであろう、人生の転機スイッチを、僕は見つける事が出来たのだ。少なからず涼香は、僕の人生を変えていくのではないのだろうか。直感だがそんな気がして止まなかった。それはつまり、恋愛感情を彼女に抱いたという事か。と、言われても今の段階では何とも言えない。ただ、彼女が僕の人生においてのキーポイントである事は確かなのだと思った。
彼女と出会った次の日、僕は何となくいつもより少し早く起き、そして何となく少し散歩をしてから図書館に向かおうと思っていた。ドアを開けた途端、蝉の大合唱と、日光のギラギラとした光が、僕を迎えてくれる。夏がもう本番だという合図だ。サビで少し赤茶色に変色した階段を降りると、いきなり目に入ってきたのはノダさんだ。水色の長いホースを使い、アパート脇の向日葵に向かって、勢い良く水をぶちまけている。麦藁帽子にド派手なアロハ柄のワンピース。ここまでくると、ド派手アイテムがしっくりきているようにも思えてくるものだ。
ノダさんは、僕の存在に気付くやいなや、ホースをこれでもかといわんばかりに振り回し、振り返ってきた。
「あらっ。真ちゃん!今日は早起きさんじゃないの!」
「あ…はい。図書館に行く前に少し散歩しようかと。」
「ん!そうよね!たまには、朝から体にお日様当てないと…ホント…モヤシみたいにな っちゃうものねえ!」
モヤシとは僕の事だろうか…まあ確かに季節相応の肌色はしていないけども。それは置いといて…水が。僕の足元にかかっていた。
「あらららら!ごめんなさいね!」
気付いてくれたのか、ノダさんはまたまたホースを振り回して、既にビショビショの向日葵に更にかけ始めた。ミカンは最近全く見ていない。小さな旅にでも出ているんだろうか。それともフィアンセ探しかな。向日葵に水をやり終え、次の標的を前の道の乾いたコンクリートへと変えたノダさんをよそ目に、僕はのんびりと散歩へと向かった。
それにしても、夏ってのは本当に気持ちの良い雰囲気を出してくれている。ある家からは風鈴の音が奏でられている。ある家の前では子供達が簡易式プールで水をかけあっている。どこを見てもそこは、淡い白を帯びた夏の風景画のようだった。なによりもここら辺は東京の渋谷などとは違い、そこら中に山々がある。時々、そこから吹き降りてくるクーラーのように冷たい風が、なによりも僕は好きだった。こんな田舎だからこそ持っている特権。と、いう感じだろうか。この風に加え、もう少しこのジメジメ感が無ければ言う事なしなのに。と、つくづく思う。
僕の実家は東北だったので夏でもカラッとした空気を漂わせていた。夏の空気について脳内議論を繰り広げながらも、夏の雰囲気を十分に満喫した僕は、そこから10分もかからない、涼香と出会えるであろう図書館へと、多少の期待を持ちながら足を進ませた。
相変わらずの涼しい雰囲気の中、一番奥の窓際に涼香は居た。
オフホワイトのワンピースに水色の薄いカーディガン。彼女が服に合わせているのか、それとも服が彼女に合わせているのか、涼香の服装は涼香のイメージそのものを映し出しているかのように淡く、優しいオーラを出していた。
僕は、静かに彼女の隣に座り、彼女もまた僕の存在に気付き、ゆっくりと本にしおりを挟み、本を閉じた。