第三歩 私の意味
榊原・颯来の人生は、他と比べれば暗かった。
家庭環境自体は悪くない。父親のみの片親ではあるが、甘えることも癇癪を起こすことも許してくれた。
父親は一介の会社員で、給料自体は多くない。家賃五万円の安アパートで、家具も中古で少し古臭く、買えた衣服もお洒落とは無縁だった。
携帯も何世代も前のセール品だ。父親もそこは一緒で、けれど二人の生活に榊原は苦しく感じていなかった。
あの家には愛がある。
母親とは榊原が生まれてすぐに離婚となったが、父親はその女性の悪口を言ったことがない。別れたのも親同士の都合ではなく親戚の圧力の結果であり、母親側の祖父母は自分の子供を心配して離婚になった。
父親が唯一吐く弱音は、自分がもっと稼いでいたらだ。
毎日必死になって働く父親が稼げていない理由は幼い榊原には分からなかった。ただ、頑張る父親の背中に無邪気にエールを送っては撫でられ、時折抱き着けば震える声で感謝を告げられていたのを彼女は覚えている。
過度に説得を繰り返す祖父母に最初は母親と父親は拒絶していて、実際に絶縁一歩手前だったそうだ。
当時は荒れに荒れ、大した関わりの無い従弟まで姿を現しての家族会議を連日に渡って行い、両親は揃って疲弊してしまった。
母親は父親に申し訳ないと謝り、父親は父親で君の所為ではないと慰める。
けれど時間が経過していけば、どうしたって二人の仲はぎくしゃくとしてしまう。このままでは喧嘩に発展して最悪の事態に陥る可能性があると二人は危機感を覚え、子供の将来の為にもと別れる道を選んだ。
親権は父親に渡した。母親が子供と一緒に実家に戻れば、祖父母や他の親族が何を言うか分かったものではない。
離婚の条件として莫大な養育費を請求することとし、その支払いは祖父母に行わせ――これは榊原が高校を卒業するまで継続された。
本当であれば母親は子供に会う権利がある。父親もそれは認めていて、何もなければ榊原が母親を知らないことは有り得なかった。
けれど現実、榊原は母親に会えていない。その理由は母親の実家が海外にあり、祖父母が彼女を日本に行かせないようにしていたからだ。
養育費を条件に別れたのに、祖父母は養育費を人質として会うことを止めた。
当時の母親はまだ若く、そして美しい。祖父母としてはもっと素晴らしい男性と家庭を築いてほしいと願っていて、だから父親にも子供にも会わせたくなかったのだ。
故に榊原は片親との生活しか知らず、しかし父親の努力によって曲がらず真っ直ぐに成長した。
ただそれでも、何も問題が無かった訳ではない。
小学生の頃に虐めを受けた。理由は金髪がその学校では珍しかったから。
中学でも虐めを受けた。理由は金髪の彼女が、母親譲りの美貌を持っていたから。
高校では丸縁眼鏡を掛けて髪を黒に染めていた。なるべく大人しい性格でいたお蔭で虐められることはなかったが、誰かと関係を作るのが怖くて知人止まりの関係ばかりの高校生活になってしまった。
大学には自分の強い意思で遠い場所を選択した。バイトを二つ掛け持ちして安いアパートで一人暮らしを行い、病気に掛かりたくなかったから運動してばかりだった。
大学では髪を染めている人間も多く、そのお蔭で金髪になっても大して反応は無い。これなら自分らしくいられるかもと伊達眼鏡も取って、暫くした後に複数の男子学生から告白された。
彼等とは友達ではない。かといって何か付き合いがあった訳でもなくて、言ってしまえばまったくの初見。
その告白を受ける気は無く、されど断っても断っても次が来る。
それが他の女生徒の嫉妬を買うのは間違いなかった。教室に忘れ物を取りに行った際に他の女子大生達が自分の陰口を話しているのを偶然聞いてしまい、ここでもそうなるのかと絶望した彼女は人との付き合いを可能な限り避けた。
次第に彼女は、これまでの日課だった運動にのめり込んだ。自分一人で己を鍛えていく過程が楽しくなっていき、これが切っ掛けである日に大学駅伝に参加する陸上競技部に入部した。
その結果は二位であり、一位ではなかったが目覚ましい成果だったのは間違いない。この時ばかりは彼女も羽目を外して酒を飲んだもので、意識が飛んで次に覚醒した時には自分の家の玄関扉の前だった。
大学で大きな成果を出した彼女は、その時点で半ば人生の目標を達成したような気分を味わってしまっている。
もうここで終わっても良いのかもしれない。別に誰かと付き合いたい男が居る訳でもないし、就きたい職もまったく思い浮かばないのだから。
夢らしい夢が彼女には無かった。だから、何となくで目についた自衛隊の入隊ポスターを見て入ってしまった。
父親には相談していない。電話が来ても大丈夫だと言うばかりで、もう抜け殻みたいな状態であることを親に覚らせまいとしていた。
そして実際に入って、辛い日々は抜け殻状態の彼女には丁度良かった。
考えることが明確で、自分に足りないものを上官が厳しく教えてくれる。その不足分を解消することが出来れば優秀な人間として評価されたかもしれないが、彼女は運動をすることは好きでも自衛隊員として優れていた訳ではない。
限界は数年で訪れた。ある時点から彼女の感覚では停滞して、他所では平凡な隊員というレッテルを貼られてしまったのである。
彼女なりに足掻いてはみた。運動量を増やしてみたり、別の科の話を上官に聞いてみたりと、可能な範囲で抜け殻に中身を入れていこうとしたのだ。
しかし結局、彼女の中身は一度外に出て行ったのである。それを満たす新たな要素を彼女は見つけられず――そしてあの日を迎えた。
榊原は覚えている。
現場で新人として装備を抱えて見た、あの群れを。
多くが死んだ。上官も、先輩も、後輩も、揃って全てが暴虐の嵐に飲まれて消えた。
首を手に持つ角で貫く小鬼。死体に群がって貪る小動物。哀れな子供のフリをした悪魔。そして、戦車の砲弾すらも碌に効かない歩く樹木。
現実を無視した化物の行進は、近付けば残らず彼等の餌にされてしまう。
逃げるべきだった。逃げなければならなかった。でも彼女は日本国民を守る自衛隊員だ。彼女は銃の狙いを付けて暴れる小鬼を数体撃ち抜き、その死体を見ることもなく飛んで来た瓦礫の一部に頭をぶつけて気絶した。
死んだ。
その瞬間に彼女は思ったものの、しかし今も彼女は生きている。
そしてあの時に殺した小鬼の経験値を図らずも入手し、冒険者として覚醒した。
最初に病院で青い画面が出た際には驚いたが、やがてこれを自衛隊内で調べられて肉体を強化されている事実が判明した。
彼女は覚醒した他の隊員達と一纏めにされた部屋で隔離され、一般的には過酷とされる実験に何でもないような表情で参加しては研究者が驚くような結果を出す。
肉体は鋼の如く硬くなり、握力は果物程度なら簡単に握り潰せる。五十mを四秒で走り過ぎ、人間の五感は全て軒並み普通よりも鋭くなっていた。
正に超人。彼女等こそ黒い穴を止めてくれた、あの英雄のような存在なのかもしれない。
必然、彼女達の重要度は増した。ダンジョンとして定義された空間にも赴き、用意された武器で無数のモンスターを討伐している。
倒せば倒す程、彼等の力は増した。
まるでゲームの如き現象に研究者は解り易くレベルアップと名付け、さらには政府も注目することで大量の予算が自衛隊に流れ込むようになる。
世間の名付けに合わせて彼女達は冒険者と言われ、そして畏怖を集めた。階級の上下や一般人であることも関係無しに彼等には私的な誰かとの接触が控えられ、その能力を国益に使うことを命令された。
給料も格段に増えた。特別扱いされる状況は他の冒険者にとっては満足するようなものだったが、榊原はこの結果に眉を寄せている。
餌を用意して、一時の快楽を与える行為は悪いことの前兆だ。
間違いなく逃げを封じて、必要とあらばいくらでも人質を用意するだろう。冒険者を拘束する方法が現段階で見つかっていないのであれば、他の方法で縛るしかないのだから。
奴隷が如くに酷使されるかもしれない。そんな可能性の高いもしもに、榊原は此処に入ったことを後悔した。
特に夢も目標も無い。けれど死にたいとまでは考えていない。
普遍的人間な榊原は、その時初めて本当の理不尽を知った。そして、この理不尽を打破したいと思うようになった。
その思いは突如現れた杖をつく老人によって唐突に叶えられたが、別の場所で本人の意思とは無関係に新しい組織に出向することになった事実に戸惑った。
戸惑って、測定や組織の事務員からの質問に流されるように答え、そしてある日に運命に出会った。
彼がそう思っていないことを榊原は理解している。理解して、それでも彼の黒々とした瞳に心の高鳴りを覚えた。
「初めまして。私は皆様と同じ冒険者です」




