CASE1 品野・咲
――――自分が最低な振舞いをしていたのだと気付いたのは、全てが終わってからだった。
中学三年の最後。卒業式となるその日は、今後の未来を祝福するかの如くに晴れ渡っていた。
普段の授業で使われる体育館の壁は紅白の色に染まり、卒業証書を渡す壇上の更に上には和紙に達筆な卒業式の文字が入った額縁が飾られている。
床には全校生徒と卒業生の家族が座るパイプ椅子。
家族は次々と息子や娘の晴れ姿を見んと来賓し、教師達の忙しさもますます増していく。
そして、卒業生達が居る三年の教室は普段の騒がしさとは異なるものが辺りに広がっていた。
しんみりとした別れの雰囲気。これが人生で最後になる訳でもないのに既に涙目の生徒も居て、当然ながら人気者だった咲にも人が集まっている。
されど、その全てが咲にとっては何処か遠いもののように感じていた。
友達との会話は話した直後から忘れていき、男子達の気合の籠った眼差しには妙に冷めてしまう。
会話が途切れた瞬間には視線は立花・翔の背中に向けられ、彼本人は別の友人とにこやかな会話を楽しんでいるように見える。
先日の話だった。咲は約三年間付き合っていた翔に浮気の事実を伝えられ、別れを告げられた。
証拠は無い。画像を見せられた訳でも、録音がある訳でもなく、ただ淡々と事実だけが咲に伝えられたのである。
事実無根であると彼女が騒げば彼は引き下がったかもしれない――――いいや、そんなものは希望的な話に過ぎない。
咲は初めて、終わりを知った。
でもその終わりは、彼女の想像していたよりも酷く穏やかなものだった。
優しく、突き放すように。あくまでも咲自身の幸せを望むような言動は、普通の男女の別れにも似ていた。
咲が知る男女の終りは、その全てが漫画や友達の噂話だ。
それに合わせれば男女の別れにはほぼ全てに程度は違えど喧嘩が存在し、最後には泣くように終わるとされている。
ならばあの終わりは、きっと普通のものではなかった。裏切りを働いた彼女を極端に責めず、寧ろ浮気相手と幸せになることを望む姿勢は、何処か納得も含まれていて。
「……ッ」
はたして、彼はそんな性格だったろうか。
何時も快活で、人助けにも精を出して、咲自身がアクションを起こすと途端に赤面する。
だがその顔は裏表無しに嬉しそうで、彼女の一挙一動を喜んでいた。
プレゼントだって貰ったことがある。最初はどんな物が良いのか解らなかったと女生徒の噂話を搔き集めて人気のキーホルダーを贈られ、そんな姿に胸が暖かくなった。
デートだって荷物は全部持ってくれて、当たり前のように道路の側には立たせないようにして、彼女の言動を察することに神経を集中しているようだった。
尽くしてくれていると一目で解る姿に、咲は間違いなく深く惹かれていた筈だ。そもそも彼女が彼を好きになったのは誰かの為に行動する姿を見たからであり、自分を優先的に助けてくれる様子に小さな優越感も覚えていた。
デートの回数はもう数えきれない。
今では相手の家族も此方の家族も二人が付き合っていることを知っている。
このまま卒業して、高校生になっても一緒で、それで大学あたりで婚約を結んで結婚するんじゃないかと仄かに考えるくらいには、彼のことを好意的に見ていた。
だが、そんな時だった。
『咲』
記憶が呼び起こされる。
あの日も学校があって、翔は風邪を引いて来てはいなかった。
放課後にジュースやゼリーを買ってお見舞いに行こうかと考えていた彼女は、駅に向かう途中で突然腕を掴まれたのだ。
驚いて後ろを振り向けば、そこには学校で有名な幼馴染の少年。
小さな頃に結婚の約束をして、でも結局は付き合わなかった我妻・玲と呼ばれる男の子。
彼は険しい表情で彼女を見ていた。掴む腕の力も強く、彼女は思わず眉を寄せる。
『ど、どうしたの玲君。 腕、離して……ッ』
『あ……悪い』
本当に悪いと思っていたのだろう。
険しい表情を瞬時に申し訳ないものに変え、彼はゆっくりと咲を掴む腕を解いた。
突然の暴挙に彼女は腕を擦る。彼と彼女は幼馴染であるが、翔と付き合いを始めてからは意識的に関わることを止めていた。
それは周囲に余計な勘繰りをされたくない為であるし、何よりも翔に勘違いさせたくないからだ。
玲にもそれは伝えていた。当の本人は苦い顔をしながら承諾していたので完全な納得はしていないようだったが、それでも当時の彼女は幸せいっぱいで確りと確認をしなかったのである。
何故、玲は完全には納得していないのか。
何故、咲が知る中で玲は彼女を作っていないのか。
彼が女生徒に人気なことは誰もが知る事実だ。成績が良く、運動も出来て、家も裕福でルックスも問題無い。
絵に描いたような美形は、されどその事実に反して恋人を作ることをしなかった。
『本当に突然どうしたの? こんなことされるなんて、初めてだよ』
思わず厳しい言葉が出るのは致し方ない。玲もそれは解っているので再度謝罪を口にするが、どうにもぎこちない雰囲気は消えてくれなかった。
一体、彼は自分にどんな用があるのだろう。じっと視線を彼に向け続けると、玲は幾度か呼吸を繰り返して一歩を踏み出した。
『この後、少し時間を貰っていいか?』
『え?』
『頼む。 直ぐに終わることなんだ』
真剣な顔の玲は、美貌も合わさり妙な迫力があった。
断ることを許さないような気分に陥り、咲は無意識にちょっとだけだよと口にする。
その時点で彼女の頭から翔の見舞いは忘却されていた。踏み出してはならない道を進んでしまったことに気付かず、彼女達は近くの公園のベンチで隣同士で座ってしまったのだ。
『なぁ、あいつとはどうなんだ』
『翔君のこと?』
『ああ、そいつ』
硬質な言葉に、咲は首を傾げながらも日々の付き合いを語った。
とても楽しそうに、とても嬉しそうに、とても恋しいように。
惹かれたことは間違ってはいなかった。自分は今、本当に幸せな時間を過ごせている。
彼女の想いに揺るぎはなかった。酷く安定していた流れは――――しかしこの男にとって容認出来るものではない。
『咲、昔のことを覚えているか』
唐突な問い掛け。しかし彼女は、それが結婚の約束であることを覚えている。
気まずい表情をしながら彼から目を逸らし、ただ勿論とだけ告げた。
小さい頃の思い出は色褪せて消えていくというが、玲は幼い時分から周りの注目を集めるような人間だ。
当時の彼は幼い勢いに任せて無謀な行動をしがちで、咲がそれを止めることも日常的だった。
何時しか他の子達からは恋人だとか夫婦だとか揶揄われ、互いに妙に気になり出したのである。
ただそれは、咲にとって初恋と呼ぶには曖昧なものだ。周りにそう言われたから気になっただけで、実際に好きになった訳ではない。
でも彼は。玲だけは本気だった。本気で好きになって、そして今も彼は幼い頃の約束を強く思い出すくらいには咲を好いている。
『俺は、まだお前を諦めてない』
『……私はもう付き合ってるよ』
『解ってる。 ……解ってるけど、捨てたくないんだ』
咲の両肩に両手が乗せられる。
思わず逸らしていた顔を戻すと、何時の間に立っていた玲と視線を交わす。
彼の目は情熱的だった。強い意思が籠った眼差しは確かに咲を求めていて、そんな瞳に咲の胸は強く鼓動を刻む。
そして、いや彼にとっては自然流れで彼女に顔を近付いて行く。
その行為の意味を彼女は知っている。それを許してはならないと理性は訴え、だけれど彼の強い言葉と瞳が避けることを許さない。
夕暮れの空の下、二つの影は一つになった。
それが許されない関係への呼び水となり、二人は翔に露見しない程度に会った。
一回一回の時間は大して長くはない。デートをすることも、告白を受けることも咲はせず、ただずるずると流されるように情熱の海を揺蕩った。
これは裏切りではない。卒業して別れるまでの、約束を破ったことへの罪滅ぼし。
そんな大義名分を掲げて口を重ね合うだけの日々は、やはり情に塗れているとしか言えない。
だから終わった。だから捨てられることになった。この先どんなに咲がアプローチをかけたとしても、翔は絶対に振り返ることはない。
春とは別れの季節である。翔と咲は高校まで同じ場所に居るが、両者の関係が断絶したのは言うまでもなかった。




