CASE6-3 品野・亮ニ
中学生になり、入学当初から我妻は人気だった。
中学生らしくない細身で高身長な体型。モデルにも匹敵する顔の良さ。
性格も謙虚堅実で、ワイルドさはないものの王子様を彷彿とさせる姿は女の理想のようだった。
加えて内情を含まなければ家の資産状況も悪くなく、彼に与えられる小遣いの額も一般学生と比較すれば天と地ほどの差が生まれている。
だからこそ彼を狙う女は多く、そんな存在が咲を目の敵にするかもしれない事実に警戒感を覚えた。
そして、だからこそだろう。慎重な行動をした結果として咲と翔は出会ってしまったのだ。
『翔! 今日も勉強教えてくれー!』
『翔。 ちょっと相談したいことがあるんだけど……』
『立花君。 これ、この前のお礼』
翔は常に誰かを助けていた。
その範囲には限界があったものの、誰かの為にと奔走する様子は周囲を惹き付けた。
何故、翔がここまで人助けに精を出していたのかは我妻にも咲にも解らない。それが性分だったのか、しなければならない理由があったのか。
今ではもう聞けないが、嘗ての明るく前向きな翔の暖かな姿勢に咲は徐々に引き寄せられた。
その後は言うまでもない。告白し、付き合い、そして今に繋がった。
「後悔をしています。 あの時、僕は選択を間違えました」
周りなんて気にしなければ良かったのだ。
自分は自分の心のままに、彼女にもっと真剣な想いを伝えていたら、今頃は我妻の隣に咲が居たかもしれない。
全ては遅過ぎた。敗北者は我妻で、勝者は翔だ。
彼は自分の生きる意味を失い、暫くは演技をするだけの屍に成り果てた。
反射が如く相手の言葉に適当な返事を送り、表面上は何でもない時間を過ごす。
家族はずっと変わらなかった。
放置していた親では我妻の心を見透かすことは出来なかったのだ。
それが何故だか腹立たしくて、けれどいきなり怒声を浴びせるのは己らしくない。
結局、蓄積された鬱憤は爆発せず、故に煮詰められた。
我妻の耳には常に衝動的な提案を囁く悪魔が現れ、ついに一人になった咲に手を出したのである。
全ての話を終え、我妻は黙った。
辺りは重苦しい空気に包まれ、咲達家族は己の肩に岩が乗せられた錯覚を覚える。
我妻の想いは重かった。そして必死で、これまでの我妻の行動の全てが嘘ではないことを証明している。
ただ、彼は愛を欲したのだ。
親がくれなかったものを、幼少の咲が何の気兼ねも無しにくれたものを、我妻は餓鬼を思わせる貪欲さで求めた。
これを否定するのは簡単だ。
どのような過去を持っているにせよ、悪は悪なのだから。
だが、咲の父親はそれを口にすることを避けた。避けることを選んだ。
「……君のことは解った。 何故このような真似をしたのかも、今なら理解を示そう」
「ありがとうございます」
我妻の気持ちを完全に理解することは出来ない。
だが、咲の父親である亮二とて、母親の玉春を愛しているから結婚したのだ。
愛し合って共に生きていきたいから結婚したのだ。
根底にあるのは愛であり、咲の母親も瞳を揺らしている様子から我妻を拒絶しきれない。
これが悪意に塗れていたら逆に良かったのかもしれない。
我妻の性根が悪逆そのもので、咲を手に入れる為に翔を潰そうと目論んだのであれば、徹底的に裁けた。
だが、あの当時、彼等は皆中学生だ。
悪意にせよ善意にせよ、その心根はまだ純粋そのもの。
やるべきは裁きではない。いや、ある意味では裁きだろう。
我妻の想いを成就させては、不幸になる人間が必ず出るのだから。
咲は我妻の想いの深さに衝撃を受けた。
幼い時分、もう朧気になった記憶の中で、咲は無邪気に我妻と遊んでいた。
それが彼にとってここまで重い意味になるなど思えず、敵意が自然と薄れてしまう。
愛してほしい。
それは今の咲には痛いほどに解る。
彼女とて翔にそうしてほしくて、でももうしてもらえない事実に心臓を掴まれた苦しさを覚えていた。
咲はこの件があって初めて、我妻の気持ちを理解してしまった。
故にもう、純粋な敵として考えるのは難しい。
「私は今回の件を重く考えている。 他が聞いたら若くて未熟な者達の失敗と捉えられるだろうこの件を、大人の失敗と同列に思っている。 それは何故だと君なら思う?」
「……どんな年齢であれ、人の恋人を奪ったからですか」
「それもあるが、本質はそうではない」
激昂は無い。最初の苛立ちも今は無い。
時間が経過し、咲の父親も己の思考を纏め終えている。
母親とも意見合わせをしたのだろう。
反対の意思を母親は示さず、同意として咲と我妻を見つめるだけに留めている。
出された茶を一口飲み、父親は己の考えを迷わず断じた。
それが世の道理だと信じているが故に。
「これはもっと単純な話だ。 君は好き合った両者の仲を引き裂き、咲は翔君の信頼を裏切った。 ――――それはどちらも悪いことだ」
浮気、裏切りがやってはいけないことであるのは世の常識。
恩を仇で返してはいけないし、物を盗んで良い筈もない。
これらは最も単純な話で、幼い頃から親が教える教訓だ。
『悪いことをやってはいけない』
なんだそんなことかと思ってしまう内容こそが、咲の両親が憤っていた理由だ。
単純明快の道理。悪を是とする現実を、人は許容してはならない。
悪事を働いて得をするとしても、それが何処かの誰かの恨みを買う。
一度でも恨まれるような真似をした時点で、順風満帆な生活を続けることは不可能になるのだ。
何も考えていない頭の緩い男を見ろ。
その人物は気楽に悪事を働いて、何も報いを受けなかったのか?
裏切ってばかりの女を見ろ。
その人物は金や物欲しさに近付いて、奪ってばかりの人生に潤いが生まれるとでも言えるのか?
今の時代、誰が何処で何を見ているのか解らない。
見つからないと思っていても、実は見ている誰かは居て、なんだかんだで糾弾されるものだ。
「今回の被害者はただ一人。 そして君達の望みは叶わない。 そこにどんな理由があっても、私は大人として悪には厳しく対処する」
父親の判断は変わらない。
咲に下した罰は状況が状況なので変えざるを得ない部分もあるが、翔に関わらせないことについては維持される。
それは咲も解っていることだ。一分の文句もありはしない。
そして、この場に来たからこそ我妻もまた裁かれなければならない。
咲との別れは避けられず、お前はお前の行為を恥じて生きていけと父親は告げた。
我妻はそれに対して明確に応とは言わない。
静かに顔を俯かせ、長い長い長考の果てに短く「はい」と答える。
未練はあるだろう。
吹っ切れるには、我妻の人生設計に咲の要素が多過ぎた。
これから高校を卒業して大人になっていく中で、我妻は割り切っていくしかない。
その道が苦しみばかりでも、悪に対する罰として受け入れるしかないのだから。
この話はこれで終わった。
我妻は両親と咲に頭を下げ、一度も振り返ることなく歩き去る。
その後ろ姿は、咲がこれまで見た中で一番小さく、頼りなさを感じさせた。
次の週から、チャットに我妻が文章を書くこともなくなった。
受信しなくなった彼のアカウントは別のアカウントの新着に埋もれていき、最後には一番下で潰されるだろう。
誰もが満足に終わる結果など無い。
複雑な心を持ちながら、咲もまた歩みを進める。
――――ならば、次はいよいよ世界の脅威が日本を襲う。
この時の話など歴史の中の塵でしかなく、吹けば飛ぶような情報として過去になっていった。
時が過ぎる。時が過ぎ去ってしまう。
立花・翔が大学に入学する四月七日。
その日、一つのアカウントが消えて全てが始まった。




