CASE6-2 我妻・玲
足が止まる音で、相手は咲を見る。
その男は目を見開き、次の瞬間には顔を綻ばせた。
瞳には愛しさが宿り、心はきっと歓喜に満たされている。
彼は身体ごと咲の方に向け、歩み寄らずに口を開けた。
「久しぶり、咲」
「――嘘」
咲は信じられなかった。
どうしてこの男が目の前に居る。どうして何度も断りを入れたのに会いに来た。
この数年、いつでも会いに来れた筈なのに、咲のチャットの言葉を律儀に守っていた筈だ。もういい加減、諦めた方が吉だと理解もしていただろう。
にも関わらず、彼は会いに来た。我妻・玲は初めて、彼女の言葉を無視して行動を起こしたのだ。
「……な、んで」
「来たのかって?」
震える問い掛けを我妻は拾う。
笑みを消し、真剣な表情で彼女を見据えた彼は、成長したことで凛々しさをこれでもかと感じさせる。
「ちゃんと話をしたかった。俺がやったことを、そしてこれからやろうとしていることを」
「やろうとしていること?」
我妻は具体的な言葉を送らない。
どこか意味深な発言のまま、腕だけ伸ばしてインターホンのボタンを押す。
来客を知らせる音はすぐに両親の耳に入り、誰が来たのかを確認することだろう。それが咲にとって良いものになる筈がない。
『はい、どちら様でしょうか?』
やがてインターホンから咲の母親の声が出てくる。
相手のモニターには我妻の姿だけが映り、今だけは咲の帰宅を隠してくれるだろう。
「突然のご訪問、誠に申し訳ございません。私、かつて咲さんとお付き合いをしていた我妻・玲と申します」
「玲君!」
我妻は一切の隠し事をせず、己の関係性を語った。
あまりの単純明快な言葉に咲は叫び、その声は間違いなくインターホンにも届く。
母親は暫く言葉を発することなく、その場は一時の沈黙が支配した。
例の件について話はついている。それを我妻に伝えてはいないものの、まさか直接赴いて伝えに来ると誰が想像しただろう。
逃げ切れるなら逃げ切りたい筈だ。今も真剣に彼女を想えたのなら、望むように引くのが正しい。
咲も二度も家を荒らす気はなかった。時間の経過と共に彼等の怒りのマグマはゆっくり固まり、今は無事に冷え切っている。
厳しい対応も若干だが緩んだ。そこには日本滅亡が多分に絡んでいるのだろうが、この際理由などどうだって構わない。
重要なのは、もうあの話を繰り返したくない。ただそれだけ。
『どうぞ、お入りください』
「……ありがとうございます」
母は我妻の来訪を許した。
鍵の開く音が鳴り、ゆっくりと咲の母親が姿を見せる。
僅かに痩せているものの、その美貌は健在だ。艶やかな黒髪は短く、化粧をしていないのに二十代の後半にも見えた。
室内用のラフな格好をしている咲の母親は無の表情だ。なるべく感情を表に出したくないのか、再度どうぞとだけ放って室内に戻っていった。
我妻はその反応を当然と捉え、失礼しますと咲より先に入る。
最後に咲がゆっくりと扉を開き、玄関口で立つ父親の姿を視界に収めた。
彼は我妻と無言で視線を交わす。手は拳で固められ、表情には僅かな苛立ちも含まれている。
歓迎されていないのは明らか。経緯が経緯なだけに文句を言われても我妻には何も返せない。
だから、我妻は最初に向かい合った時に腰を九十度に曲げた。
それは綺麗で、全力で、遊びだとは思わせない妙な勢いがある。
「この度は、大変申し訳ございませんでした」
真摯な声だった。およそ高校生の男から出たとは思えない程、真っ当な謝罪だった。
だからこそ、父親は顔を上げろと告げる。
「座って話そう。君の言い分も聞いておかねばなるまい」
「はい」
「咲。お前もだ」
「……分かりました」
膨らむ緊張感をそのままに、三人はリビングに向かう。
キッチンでは母親が茶の準備をしている。三人は静かに四人分の椅子に座っていき、咲と我妻は隣同士になった。
そして茶を並べた母親と父親は向き合う形で座り、さてと父親の方が口を開ける。
「経緯は既に聞いている。君の行動によって咲と翔君は別れてしまった訳だが、その事実に何か相違する部分はあるかい?」
「何もありません。僕が付き合ってる最中の咲に迫り、結果的に浮気の形になりました」
「そうか。……であれば、君は何の用があって此処に来たんだ?」
父親は穏やかな声だった。
とてもあの件で怒りを露にしていたとは思えず、その差異が不穏だ。
だが咲も父親の疑問に同意だ。此処に来ることが何のメリットも呼び込まないと知りつつ、どうして我妻は会話を選択したのか。
謝罪をしたい? 何か詫びでもしようと考えている?
「まず、僕は誰が事の元凶であったかを正しくお二方にお伝えしたいと思いました。これまでは僕の存在は話の中でしか出てはきませんでしたよね?」
「確かに実際の姿は見ていなかったな」
「話のみでの僕の印象はよろしくないでしょう。実際にしてしまった事が事だけに、今の僕を見ても大して何も変わらないと思っています」
我妻の言葉は事実だ。
彼等は確かに我妻を呼び出して会ってはいない。咲と翔の話の中での印象しか両親は持っておらず、我妻本人には悪いものしか持ってはいなかった。
実際に会ってもそれは大して変わっていない。いかなる言葉を募られても、やったことはやったこと。
それが事実である限り、厳しい対応を変えることは出来ないだろう。
「その上で、僕の本気もどうか聞いてくれませんか。悪だとしても、彼女を欲した理由を」
本気。
これが間違いだとしても、咲を求めた理由。
それは成程、確かに聞きたい部分ではある。多くを犠牲にする覚悟で挑んだ恋愛の土台を知れば、まだこの話にも救いがあるかもしれない。
聞こう、と父親は呟いた。母親も否を言わずに我妻の言葉を待つ。
咲は拒絶したかった。自分が求めているのは我妻ではないのに、どうして彼の真実を聞かねばならないのか。
けれど聞きたくないと言える空気ではない。場は完全に我妻の一人舞台として整い、退出する道が封鎖されてしまった。――――そして、彼女の思いも他所に我妻は話を始める。
彼の家族は、端的に言えば既に終わっていた。
金だけを落として後を妻に押し付ける夫。金を子である我妻に幾分か渡して遊びに出掛ける妻。
夫は妻の行動を知らない。浮気三昧で、どれだけ遊んでも夫は怪しいと考えすらしなかった。
一人取り残された我妻にとっての幸せは小学生に上るまでで、その幸せの大部分は咲と遊んだ日々だ。
ままごと遊びで夫婦ごっこをした。駆けっこで手加減を無視して咲を追い越していた。
咲と誰かが喧嘩をして泣いていた際には慰めて、他の女の子が遊びに誘っても我妻は何より咲を優先していた。
家には何もない。真実、我妻が欲しいものは一切ない。
愛情は咲から学んだ。バレンタインデーとして渡されたチロルチョコと共に、大人の真似事で愛していると言われた時は、これが幸せなんだと漠然と理解した。
好きだ。僕だって好きだ。彼女と結婚だってしたい。
だから幼稚園で約束した。大きくなったら告白するから、付き合って絶対に結婚をしようと。
それが大人にとっては微笑ましくとも、彼にとって本気だった。
夢は咲の旦那で、子供などいらない。二人揃ってただ静かに家庭を築いていけたのなら、きっとこれ以上の幸福は不要だ。
故に、彼にとって血の繋がった家族は邪魔者である。
余計な干渉などされたくもない。勉学でもって何も言わせず、健康体であり続けることで心配もさせず、良き人であろうとすることで誰にも悪い噂を流させない。
優しく、力強く、そして愛想よく。
誰であっても好感を覚える人間であることは、彼の人生で最も重要な部分だ。成長すればする程にそれが人間関係で有利に働くのは間違いない。
あの夫と妻は手の掛からない子供に大層喜んだ。喜んで、やはり放置した。
勝手に成長したのならこのままの方が良いと思ったのだろう。それは我妻にとって有難く、ならば結婚をする時になっても口を挟むことはない筈だ。
今更関与されても不愉快以外ない。全ては都合良く動き、ならば残るは咲本人のみ。
「僕は本気でした。本気で、彼女を幸せにする気でした。その為に更なる努力が必要だったのなら、また努力を重ねたでしょう」
咲の為に。咲だけの為に。我妻は努力を積んだ。
――しかし現実は、彼の思うようにはいかなかった。




