THIRD CASE2 伊月・桜
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
翔が去り、暫く桜は何も言えなかった。
胸中を占有するのは恐怖。息は荒く、運動らしい運動が出来ない彼女には肺を痛める行為だ。
抑えなければならないと無心で呼吸を落ち着かせる。
そうして更に時間を掛けて彼女は自身を元通りにしていき、そこで漸く彼の姿を思い返す。
翔は激怒していた。桜の本気の訴えを否定し、その上で彼女を何も知らない小娘だと断じた。
それは嘘ではない。確かに桜は未来を知らず、向こうの状況を父の話で知るばかりだ。
父親は桜がこの件に関わることを避けていた。出来れば何も知らないままでいてほしいと願い、しかし当の本人はもう今更じゃないかと突き進んだ。
相手の秘密を勝手に暴いてしまった。しかもそれが父が頭を悩ます件に関係していて、解決するには翔自身に譲歩してもらう他ない。
この学校で顔を合わせた時、あの行為をもっと深く謝罪する気だった。
個人情報は秘匿されるべきものだ。犯罪者でもないのに探すのは普通ではない。
この行為は保護法に抵触し、然るべき機関に証拠と共に提示されれば罰されることは大いに有り得た。
故に、謝ることと賠償に動くのは決して間違いではない。
だが、桜は翔の姿に絶句した。
だって彼は何も変わっていない。中国の件があって心を痛めるでも、予定通りと表情を緩めることもなかった。
常と変わらぬ無の笑顔。桜に向けられる優しげな相貌は、その言葉の本来の意味と違って無機質そのものだ。
これがあの預言者かと一瞬疑い、されど何の雑談も無しに本題を告げられたことで強く理解した。
これからあそこで誰が何人死んだとて、彼は一切心動かさずに右から左に受け流す。
だって理由が無い、メリットが無い、そもそもの意味が無い。
徹頭徹尾、あるのは冷たい理性。結果を聞いても大したものじゃなければ揺れることもない。
酷い話だ。他とは違って何も手がない訳じゃないだろうに、翔は取捨選択で社員を死なせることにした。
未だ高校生になったばかりの桜に、それは断じて認められることではなかったのだ。
だから語気も荒く詰め寄り、彼女は本気の殺意を体感することになった。
「お嬢様」
声も無しに用務員の格好をした中年の男性が彼女の前に現れた。
その声に彼女は顔を向け、自身の恐怖を尋ねる。
「……あれは、何だったんだ」
用務員の男は答えるべきかを躊躇った。
彼は彼女を守る為に派遣された護衛だ。学校とは既に話をつけていて、教員免許を持った者も含めて数名が彼女の近くに潜り込んでいる。
彼等の目的は、勿論桜の身の安全だ。それが最重要であり、翔についてはついででしかない。
「お嬢様、あまりお気になさらず」
「教えろ。 お前達なら知っている筈だ」
鋭い眼光が用務員に突き刺さる。
用務員は内心で溜め息を吐き、あの瞬間を実際に見ていた者としての感想を口にした。
「殺意です。 あの者は時と場合によっては、お嬢様を殺すことに何の抵抗もないのです」
用務員は知っている。誰かを殺す、その覚悟を持った人間の恐ろしさを。
翔が学生であることは幾度もの調査で解っている。両親も普通で、彼自身に大したバックボーンが無いことも。
違いは未来を知っているか否か。そして、その未来が善人ではいられなくさせている。
未曾有の事態。倫理観を無視しなければ解決の糸口を見つけ出せないと災厄は、これまでサンライフにやってきた情報の数々によって判明している。
あれが日本で起きれば、一体何人の人間が死ぬのか。それを考えた時、彼が家族を最優先に動くのはなんら不思議な話ではない。
「此度のお嬢様の言葉は、彼には地雷以外のなにものでもありませんでした。 この件で余計にお嬢様に反感を持つことでしょう」
「もう大人しくしておけと言いたいのか?」
「探るのは我々の役目です」
護衛は静かに語る。侮り無く全てを果たしてみせると。
最早友好関係を築くのは論外だ。会社同士の交渉であれば決裂となり、それどころか敵に回ってしまった。
まだ高校生になったばかりの少女が未来を知る人間の相手をすべきではなかったのだ。相手が若いからとその感性が死んでいないことを願って、感情論をぶつけるのは悪手も悪手だった。
後は大人の役目。桜の失敗を護衛が拭い、少なくとも何も無しにはしないことで役立たずの烙印を回避する。
護衛達はこの件には関わる必要は無い。雇われなのだから何もせずに期限を守って撤退するのも選択としては有りだ。
そうしなかったのは、情もあるが今後を見据えてのことでもある。
客は多いに越したことはない。無闇に顧客を減らすよりも、彼女が学校に通っている間にやれる限りの情報収集をしておけば雇い主の覚えも良い。
忘れてはならないが、彼等もビジネスの世界で生きている。その中で翔の存在を知ることが出来る現状は有益であり、故に協力しているのだ。
桜とてその事を解っていない訳ではない。彼等は家族ではないし、仲間でもないのだ。
互いが互いに違う場所に身を置いているからこそ、この繋がりは強固でもなんでもない。
学生は学生として過ごせと語る護衛の言葉は事実であり、探るのも彼等に任せておけばよっぽど良い結果を引き出すかもしれない。
だがこれは、桜が今後所属するであろうサンライフの問題である。余計な介入は望むべくもなく、何より自分のケツを自分で拭けないなんて人間になりたくもない。
「まだあの男は卒業していない。 卒業するまでは、私にやらせろ」
「しかし」
「懸念は解っている。 ……だがこれは、私の問題だ」
車椅子を動かして桜は用務員から離れる。
用務員は彼女を見送り、腰から小型の無線を取り出して別の護衛に綺麗な車椅子を要請した。
まもなく彼女が翔と出て行った入り口で女の教師が待ち受けており、傍には同型の車椅子が準備されている。
女の手を借りながら乗り換えた桜は、教室まで自分の手で向かいながら一人考えた。
結局、彼が協力しないのは他者を信じていないからだ。翔が信じているのは家族だけで、追加情報で探ってもらった際には好意のある女性にも冷たい対応をしているらしい。
今更であるが、感情で彼の気を引くのは止めておけばよかったということだ。それを再認識して、じゃあ彼女は彼に何をしてあげられるかを脳内に挙げていく。
家族を保護する――――出来ない訳ではないものの、翔の両親は困惑するだろう。
将来の就職先としてサンライフに枠を用意させる――――翔が魅力に感じていないし、そんな縁故採用で入ったような人間は別社員に探られる。
金や物で釣る――――既に自力である程度整えていそうである。
なら、なら、なら、なら。
授業を受けながらも思考は回る。自分に何が出来るのか、父に何が出来るのか、会社に何が出来るのか。
あれやこれやと情報の海を泳ぎ、ふと家族の文字に意識が向いた。
「家族なら、守る……」
ぼそりと呟いた声は小さく、隣の人間が一度顔を向けるも直ぐに戻された。
翔は家族なら守るという。なら、家族の範疇に入ってしまえば桜であろうと守護対象になる。
会社の社長の令嬢となれば、他社との繋がりを結ぶ為に政略結婚も普通に存在している。本来は桜もそうなる場合があったが、旦那を翔にするのはどうだろう。
厳しい話なのは解っている。解っているが、それが桜には蜘蛛の糸に思えた。
予言を甘いものだと語る彼は、それを必要以上に利用することを避けている。それを使いたいなら、桜は覚悟を決めねばならない。
「……」
これが最後だ。価値ある品を桜は全て翔に渡す。
それで会社の未来を守り、人を守ろう。無慈悲に死んでいく人間など、本当はあってならないのだから。




