CASE5 品野・咲
「馬鹿娘がッ!!」
三人暮らしをするには広い戸建ての家に怒声が轟いた。
壁を僅かに揺らし、近所迷惑を全く考慮しない声に咲は無意識に目を閉じ、一気に静まり返った中で恐る恐る瞼を開ける。
普段夕食に使うテーブルの上には今は何も無い。
咲の座る対面には彼女の両親が居て、彼等の表情は怒り一色に染まっている。
怒声を発した時点で解っていたことだが、父親の腕は興奮で震えていた。もしも咲が何か失言をすれば、今度は張り手の一つでも飛んでくるかもしれない。
「お前は何をしている! あんなにお前に良くしてくれた彼を裏切るなんてッ……」
最後の言葉は怒りのあまり出てこない。
顔は赤く、全身は赫怒で震え、最後の理性を何とか瀬戸際で維持する姿はこれまで咲が見たこともない姿だ。
同時に、咲の父の隣に座る母もこれまでとはまったく異なる目を彼女に向けている。
失望と軽蔑の混ざる瞳。極寒そのものの心中に疑念の二字は存在せず、翔の家で過ごした出来事全てを真実であると確信している。
咲自身、そこは別に疑ってほしくはなかったから別に構わない。あの時の出来事に嘘は一部も含まれていなかったし、嘘だと言われては彼女も黙っていられなかった。
二種類の責める目を見つつ、咲は静かに思考を回す。
そもそも咲がこの話をしようと思ったのは、第一に翔の身内に隠し事をしたくなかったからである。
翔の家族は咲の家族同様、子供を確り愛してくれる優しいものだ。したいことを否定することは無く、あったとしてもそれは危険に直結するから。
遊びに出掛けること自体もやり過ぎでなければきっと止めなかっただろう。その辺は二人揃って成績やら危険な事態に遭遇することもあったから上限を決め、それ以上にならないよう調整をしていた。
危険な真似は、己の人生を縮める結果に繋がる。
まだ幼いとも言える時分からそれを何となくであれど理解していた二人は、だからこそ失敗に少々過敏だ。
にも関わらず咲は失敗した。浮気に走り、こうして責められている。
きっと隠すことは簡単だったろう。翔が口を噤んでくれたのだから、己も口を閉じれば表面上は上手く回ってくれる。
別れたとしても翔はやり過ぎなければ自分の所為にすることも了承していた。間違いなく咲にダメージが及ばないように言葉を選んでいて、そんな真似を咲が許容する筈もない。
決心するまでには時間を要した。しかし、決心してしまえばなんということもなかった。
裏切りは明かさねばならない。新たな始まりを告げる為にも、浮気を表に出すことを躊躇ってはいけない。
罪に向き合い続けること。
悪を悪だと断じること。
そして、崩れる道を未練がましく掴む手を離すこと。
「――――馬鹿な真似をしました。 本当に、ごめんなさい」
意識を強く持てと己の胸に言葉を放つ。
そして、咲は真っ直ぐに頭を下げる。
怒りを真向から受け止める姿勢に父の理性は僅かに瀬戸際から戻された。母の目は今も冷え冷えとしているが、だからといって何の話もしないと決めている様子もない。
この状態は最初に話した時から変わっていなかった。
激怒する二人に、謝り続ける一人。
具体的な償い方を言う前の状況は何も進んでいないように見えるが、しかし時間の経過は否応無しに両者の体力を削っている。
特に負の感情は一番エネルギーを消耗する。長く維持するにはそれだけ深い悪感情が必要であり、父も母もそれをずっと続けていけるまでにはまだ至っていない。
少なくとも、咲はこの事態で下手な言い訳を述べなかった。静かに謝罪を繰り返すことで、彼等の燃焼を最速で進ませた。
「……お前がやったことは今後も許されることはない。 退学を促されなかった結果に感謝しろ」
熱い息を吐いて、父は真っ直ぐに咲に告げる。
慰謝料の支払いは有り。今後の接近も間違いなく規制され、破れば退学を促されるだろう。
高校で咲の浮気話が広まっていないことで学生生活は続けられる。退学そのものを回避出来れば、彼女は世間的には無事に卒業可能だ。
これが温い裁定なのは誰の目から見ても明らか。数百万の慰謝料が請求され、退学や引っ越しを強制される可能性は勿論あった。
それを限りなく低く抑えてくれたのは、翔が優しかったから――だけではない。
「翔君はもう二度と寄りを戻してはくれないだろう。 あの表情を見ればそれは明らかだ」
翔は既に咲を過去の人物にしている。
過ぎ去った風景の一つとして定め、感情の整理も終わらせてしまっていた。
もう咲に対する恋愛感情も過去に置いて行ってしまい、それが現在に戻ることもない。一学生がするにはあまりに大人らしい冷静な瞳は、過去の彼を知る両親からすれば胸が痛くなる思いだ。
明るい彼は居ない。居るのはただ、前を見据えて次に行動を起こす大人としての姿。
騒ぎにすることを翔はしなかった。同時に、過度に咲を責め立てる真似もしなかった。
ただただ、恋愛関係を終わらせる別れの言葉だけで済ませた彼の行動は、いっそ冷めてしまったと表現するのが正しい。
故に咲の親達は解ってしまった。もうあの優しい家族と仲良くすることは出来ないのだと。
「咲」
ここで初めて咲の母が口を開ける。
娘の名を呼ぶには感情の無い言葉は、さながら裁判官が如く。重罪を犯す犯罪者に向けるに等しい声音に今後の未来への希望は一ミリも感じ取ることは出来なかった。
「貴方はまだ高校生です。 そして私達の望みとして、大学に入学して将来的には確りとした職に就いてもらいたいと考えていました」
静かに、けれど他人に対するような丁寧語は何処までも無慈悲だ。
「ですがこのような事を起こしてしまった以上、貴方には路線を外れてもらいます」
親側からのレール外し。
決められた道筋からの脱却は、即ち困難を基軸とする新たな人生の構築である。
高校を成績優秀者として卒業することは当然。大学は親側が指定した女子大に進み、一人暮らしをしてもらう。
家賃の支払いは親が負担するものの、それ以外の全ては自分で賄う形になる。これで発生するのは、咲がこれまで経験したことのないバイト生活だ。
大学の成績も落としてはならない。無事に卒業した後にはどんな形であれ就職してもらい、得た給料の一部を親が今後立て替える慰謝料の支払いに充てる。
この間に翔への接触は厳禁だ。真偽を探ることは敢えてしないが、もしも翔達の家族から抗議の電話が来たのであれば即引っ越しを行って此処から消えることとする。
母の道筋は簡単なものではない。
成績の維持は勿論、バイトの経験が皆無な咲はまず探すところからスタートだ。大学の成績も優秀であらねばならないのなら、仕事との両立で寝る時間も削ることになる。
一人暮らしもするなら環境も激変だ。更に翔への接触も禁止なら、これからは揃って一緒の昼食を摂る真似も許されない。
これらは全て翔への偶発的接触も封じる手段だ。両親なりに咲の行動を抑制し、二度と彼に迷惑を掛けないと態度で示さんとしているのである。
「あなた、悪いけれど私は暫く食事は分けて取るわ」
「……仕方ないな」
母は咲との食事も断った。同じ女として男よりも許せない部分があったのだろうと父は溜息と共に承諾して、部屋に戻りなさいと咲に告げる。
言われた咲は俯いたまま席を立ち、静かに再度謝罪して自室に向かった。
廊下を歩む彼女はふらついている。表情は無で、ハイライトに光は無い。
この一件で咲の将来はより強固に縛られた。脇道に逸れれば翔の両親に加えて自身の両親からも制裁を受けることになるだろう。
母のレールは受け入れなければならない。そして、咲としては拒絶する気は無かった。
室内に入った彼女は着替えることもせずにベッドで横になり、天井に目を向ける。
彼女の未来は暗い。一般的にはまだマシな部類であっても、それでも翔と接する行為そのものを禁止されたのは痛かった。
とはいえ今更自分の未来が良いものになるなんて想像していない。彼女は唇を吊り上げ、誰にも悟られぬように思考を回す。
苦しい制約は与えられた。将来的に慰謝料の支払いをすることになれば、自身の生活も間違いなく苦しくなるだろう。
それでも禊として認識されるには十分。
一旦は彼と別路線で償いを継続していくことで関りが無いようにしていき、まったく別方面から翔の将来を探る。
今後進む学校、今後入る会社。全てを把握するには時間が掛かるだろうが、彼女の近くには都合の良い人間が最低でも二人居る。
その二人を使い、彼の将来を知って近くに潜り込む。
偶然を敢えて作るのだ。その為なら、今も苦しいこの胸を抑えるなんて訳もない。
「諦めないから」
絶対に、何があろうとも。
「待っててね、翔」
言葉は狂気的な甘さを含む。陶酔に歪む頭には、彼との次の関係を構築する案が作り上げられていた。




