高校生21 爆炎解除
「相手の良し悪しなど関係無い。 今回の話は、あまりにお前を侮辱している」
声を荒げることはなかった。
ただ、父親の目は鋭い。眼光が刃となって咲を切り刻まんと迫り、当の本人は相手の嚇怒に全身を震えさせている。
我が家の父親は基本的にあまり怒らない。怒る前に理性的な解決を望み、感情的に爆発するのは母親の方だ。とはいえ双方が喧嘩した姿を俺はあまり見ていない。
温厚なのだ、我が両親は。だからこそ一度完全に爆発すると容赦の一切を放棄する。
「咲ちゃん。 貴方は何故浮気をした? 相手の熱意に負けたか? それとも無理矢理?」
「…………無理矢理、ではないです」
「そうか、では同意の上だと。 同情の余地も無い。 品野さんの前で甚だ失礼だとは思いますが、こんなに馬鹿だったとは夢にも思わなかった」
無慈悲な罵倒だが、誰も文句等言える訳もない。
言えば最後、この激情の矛先が変わるだけだ。それに品野夫婦も父親の意見に否は無いのか、静かに首を縦に振っている。
「翔は君の為に努力した。 君に相応しい男になろうと、勉強したり筋トレに励んでいた。 自分の見目は普通なのだから、せめて変えられる部分は変えようと常に考えていた。 ……だが、結果はこれだ。 あまりに報われなさすぎる。 これまでの翔の時間を、一体君はどう考えているんだ」
徹頭徹尾、父親が心配するのは俺の身だった。
咲の為に父親が金を出したことも一度や二度ではない。特にデートの軍資金ではお世話になることもあった。
当人は俺と咲が幸せであればそれで良いと言うばかりで、決して金を返せなんて言わなかったのである。
正にこの人は父親の鑑であり、であればこそ詰問の声の鋭さに限界は無い。一度箍が外れてしまえば、もう止まることなど有り得ないのだ。
咲は震えていた。瞳に恐怖を宿らせ、何度も深く呼吸を繰り返していた。
だけれどそんな彼女を心配する人間はおらず、品野夫婦も母親も冷たい眼差しで相手の一挙手一投足を見ている。
彼女に失敗は許されなかった。ただの一度も、もう踏み外してはいけない。
彼女の為にも、俺の為にも、この父親という爆炎を何としてでも鎮火させねばならなかった。
「申し訳ございません!!」
咲が先ず選択したのは、全力の謝罪。
これまでの震えを無視した大きな声には反省の意が込められ、決して嘘だとは思わせぬ必死さを窺わせる。眦からは滂沱と呼べる程に涙が流れ、されど誰も彼女の言葉に矛を収めない。
謝意そのものは勿論求めていた。それでも、父親が欲しているのはそこではない。
彼女が浮気をした本音の部分。当時どのような心持ちで俺を蔑ろにしたのかを語れと、鋭い眼光は今も告げている。
「このような言葉を本心だと思っていただけるとは考えておりません。 ですが、ですがッ。 彼への愛情は決して嘘ではなく、今もなお私は翔を純粋に好いておりますッ!」
「純粋に好いているだと……?」
「私が浮気相手に抱いていた気持ちは恋ではありません。 あの人が本気であっても、私にあったのはただの謝意でした。 あんな約束をずっと守ろうと必死だったことへの、ただの感謝でした」
実際のところ、俺は彼女が何故浮気をしたのか具体的な部分を知らない。
そりゃ浮気に走ったのだから俺に不足があったのだろうと考えてはいたが、真実はただの同情だった。
子供の約束なんて忘れるのが世の常。幼稚園の頃の約束なんてちょっと成長したらそんなこともあったなと笑い話にする程度の話題であり、真面目に守ろうとすることはほぼ無い。
俺だって幼稚園時代は覚えていないことの方が多かったのだ。そんな時代の約束を律儀に大事にしているのは、言い方は悪いが少々異常である。
逆に言えば昔からおかしな要素があるからダンジョン発生後に一角の人物になれたのかもしれない。
ファンタジーの世界で台頭するなら、先天的に常人らしくない要素が必須。
その仮定が事実なら、自分が普通より悪い生活を送ることになるのも頷ける。流石に幸不幸まで干渉されたくはないが。
さて、俺の考えている内容は兎も角。咲の発言は言い訳以上の意味を持つことはない。
言葉は多少綺麗に飾られているものの、装飾を外せばこれは単に可哀想だったからでしかないのだ。
可哀想で仕方ないから、相手の言葉を受け入れて隠れて付き合った。そこに俺への配慮なんてものは欠片とて含まれていない。
「……では君は、この事実が露見しなければ約束を守ってくれた感謝として逢瀬を続けていたのか? 翔への配慮は微塵もせずに」
「いいえ、それだけは有り得ません」
あくまでも咲は我妻に恋愛感情を持っていない。
そのことを証明する為か、父親の厳しい問いに即答を返した。青褪めた表情をしながらもその言葉だけは力強く、眼差しに鋭いものが混ざる。
一瞬だけ彼女の全身から怒りの気配を感じた。誰も気付かないだろう激怒の波は、彼女なりの真実を露にしてくれている。
嘘では、ないのだ。彼女が俺に対して抱いてくれている感情に恐らく迷いは無い。
ただそれでも、状況が状況だ。証拠が無くとも当事者二人が完全に一致する情報を伝えた以上、親達は疑うことは出来ない。
疑うことが出来ないなら、後はもうどう判断するかだ。そしてこの場合、決める立場にあるのは俺である。
父親も母親も怒りこそすれ、責任の支払い方を決めることまでは難しい。被害者当人が納得出来ない終わりを迎えてしまえば家族間に軋轢も生じかねない。
「二度と信用されない真似をしました。 どんな責任の取り方をしても許されるとは思っていません。 お金を積んでも、奴隷のように酷使されるとしても、何をしたって元には戻れないとも解っています」
咲が席を立つ。
テーブル横の床の上で正座を取り、そのまま土下座の姿勢に移行した。
綺麗で迷いの無い謝罪の示し方は、きっと両家の親達だって見たことのない様だ。これが嘘偽りの無い、最も真摯な謝罪の姿だと言われても納得出来る。
「それでも、それでも、私は翔だけが好きです。 愛しています。 他の男性なんて眼中にもありません」
愛の証明は、人には難しい。
主観一つで取った行動が嘘に見えてしまうし、逆に唯一無二の真実にも見える。
少なくとも、未来を知る俺は咲の姿勢を嘘だとは思えなかった。彼女は優しく、同時に厳しく、それはダンジョンを潜る上で選択した職業でも表している。
後衛職・僧侶。
基本的な回復や補助を担う一般的なこの職業を取得する条件は、誰かに優しくあれること。
その優しさは決して表面だけのものではない。深く相手を思い遣れるからこそ、他者の為に尽くす優しさを持つ。
騙されやすく、危険な目にも遭いやすい。故に生存率は回復系統にもかかわらず低い状態が続き、生き残った僧侶は人々の尊敬を集めている。
咲はこのタイプだ。厳しさと優しさを合わせ持った女性となる咲は、俺との経験からか女性誌で恋愛に厳しい価値観を載せている。
ダンジョンがあるからこそ彼女の価値観は然程批判されなかったが、今の世でそれを出しては炎上くらいは軽くしただろう。
なにせ最初の一行目は股の緩い女は死ねだからだ。
父親と母親は未来を知らない。当然、咲の両親も一切知覚出来ていない。
俺の彼女への評価はオカルトに頼った結果であり、まず普通の感覚ではないだろう。そもそもにして浮気に対して彼等の反応は自然だ。俺の方がおかしな対応をしている。
――――彼女の必死な姿に、父親は溜息を吐いて首を横に振った。
「残念だが、君の事を信用することは出来ない。 個人的にはもう二度と顔など会わせたくないくらいだ。 もしも君がこの年に至るまで浮気を続けていたなら、私は慰謝料の請求をしていただろう」
「純一さん。 慰謝料は払わせてくれ。 浮気に年齢は関係ないでしょう」
「その言葉には賛成ですが、亮二さんや私達親が決めることではありません。 翔、お前はどうする?」
咲の土下座で取り敢えずではあれど、父親は鎮火した。
厳しい姿勢はそのままでも冷静であろうとしてくれる限りは俺の言葉に腹を立てることもないだろう。
相手側の両親も十分に謝意の気持ちを持ってくれている。浮気された時期が不安定な精神性だった頃を考えると、大人の対応は却ってこの先の咲の人生を歪めてしまうかもしれない。
暫く考え、静かに彼女を見下ろした。彼女はずっと頭を下げたままで上げようとする素振りもない。
どんな要求をしたとて、彼女は受け入れるだろう。その潔さはこの場面において俺の意見を通す一番の材料になる。
「何も。 俺は何も要求しませんよ」
「……何故か、聞いても?」
驚愕したのは相手側の両親だ。
少なくとも慰謝料は言われると考えていた二人にとって、何も無いというのは有り得ない。
最悪は学校を中退させられた上で接近禁止命令だろうが、それでもこの家族が呑まない道は無いだろう。
けれども、もう俺には何の気持ちも無い。
ただあの頃の時間は無駄だったと思うだけだ。未来を知るのがもっと前であれば、彼女の告白を拒絶して更に準備を整えることが出来ていた。
「俺は自分が彼女と釣り合っているとは思っていませんでした。 努力して並ぼうとしてはいましたが、生来の彼女の能力は当時の中学で頭一つ抜けています。 そして、彼女の浮気相手だった男もあの学校で優秀な能力を持っていました」
浮気を知って、納得した。これでこそ天秤は釣り合いが取れている。
今の真意を隠して告げた過去の理由に今度は俺の両親も目を見開いた。まさか自分がこんなに劣等感を覚えていたと思っていなかったようだ。まぁ、劣等感云々はそんなに気にしていないが。
「元から俺達の関係はおかしかった。 あれがきっと自然な形です。 そう思えたから、俺は何も要求しません。 強いて言えば両親がサポートの名目で出してくれた分のお金の請求をするくらいでしょうか」
「……本当に、それで良いのかい? 咲がしたことは許されざることだ。 君が優しくする必要は無いんだぞ?」
「俺達が付き合っていたのは中学の間だけです。 ―――本気の恋愛をするには、ちょっと色々未熟過ぎました。 だから良いんです、もう」
笑みを維持する。
表情を崩せば最後だ。優しさを持った親達の前で、俺が反応を変化させるのは悪手になる。
長々と話し合いをする気は俺にはない。断じるように強く言うと、彼等は視線を交わして大きく息を吐き出した。
親達にとっては納得出来る終わりではないだろう。もっと厳しい罰を求めていた筈だ。
だが、被害者の要求こそが最重要視される。故にこれで全部終わりだ。
「翔君、今回は本当に申し訳なかった。 これからはもっと咲の様子を見ていくつもりだ」
話し合いを終わらせ、後の決め事は親同士でだけで進めていくことになった。
最後に玄関で咲の両親の謝罪を受け取り、三人は静かに家を出て行く。
玄関が閉じられると同時、母親は勢いよく鍵を閉めた。足早にキッチンに行き、再度玄関に姿を見せたその手には塩の名前が入った収納ケースがある。
無言のままに母親はケースの蓋を開け、全部を玄関に引っ繰り返す。一面に白い粉粒が舞う光景を俺は唖然と眺めていると、唐突に俺の身体を掴んで抱き締める。
「……大丈夫、大丈夫、大丈夫だからね。 翔は気にせずに過ごして大丈夫だから。 後は全部こっちでやっておくわ」
頭を擦り、身体を擦り、母親は何度も大丈夫だと告げた。
それが俺への励ましだったのは明らかだったが、母親の反応はどうにも鬼気迫るものであった。
「…………圭」
不思議だったのは、傍で俺達の様子を見守る父親の眼差し。
酷く悲し気な感情を宿して、母親の方を見つめていた。




