高校生20 起きてほしくなかったこと
不幸に前兆は無い。
警戒しても別方向から訪れ、理不尽に奪い、最後には嘲笑いながら捨てて行く。
残された側にあるのは絶望や悲しみといった負の感情のみ。それが成長していけば幸福な誰かを羨み、最後には恨みや妬みで害することを心に決める。
抑え込めるなんて極僅かだ。大抵の人間は爆発して暴れ、警察のお世話になるか死んで終わり。
だから、俺は誰かとの繋がりを求めなかった。協力関係を築いて相手が爆発すれば巻き込まれるのは俺だからだ。
それで害されるのが俺個人ならまだマシだろうが、爆発した奴にまともな精神を期待するだけ無駄。家族や友人にまで手を出し、そうなれば俺も黙ってはいられない。
絆は良いものとして語られる。悪くても大事な要素の一つとして表現され、決して否定されるものではない。
だがだ。俺は絆を良いものとは思っていなかった。
それがあるからこそ心にダメージを負う。最初から絆なんて無ければ傷を負っても最小で済む。
利害関係。ビジネスライク。相互利用の概念を何よりも優先すれば、メリットが消えた途端に敵対するのも不思議ではない。
未来の自分の末路を知るまではここまで俺は極端な思考に陥ってはいなかっただろう。もう少し学生らしい、甘ったれた精神の一学生として過ごしていた筈だ。
それこそ未来の自分のように。好いた女が別の男と関係を持って絶望するなんて、学生じゃなくてもどこでも聞く話だろう?
なら今の俺は一々気にしない。これが世の中の普通なら、俺はそれを飲み込んでもっと大きな問題に目を向けるだけだった。――――今日、この夜までは。
「……ん、こんな時間にチャイム?」
「一体誰だ?」
クリスマスの到来まで間近に迫った夜。
夕飯を食べ終わった直後のゆったりとしたタイミングで、リビングにチャイム音が鳴った。
こんな時間に客が訪れる話は無い。宅急便が来る話も当然無かった。
父親が動き出そうとするのを手で止め、俺が僅かに警戒しながら壁に設置されたモニターを見る。
映っていた相手は男一人だった。上等な黒のスーツに身を包んだ四十代と思わしき人物は、酷く緊張した面持ちで立っている。
「――咲の、親父さんだ」
「え?」
無意識に相手の存在を口にする。
聞いた両親は困惑を深め、今度は父親がモニターまで向かって通話ボタンを押した。
「亮二さん?」
『その声は純一さんで間違いないですか?』
「ええ、そうです。 ……突然どうしたんですか、こんな夜に」
咲と俺は昔から仲が良かった関係で親同士もよく会っていた。
基本的には立ち話を少ししたり、物を贈り合ったり、学校行事で顔を合わせた際には一緒に食事もしている。
品野・亮二さんは気さくな人間で、俺ともよく話をしてくれていた。
話の内容は将来の事についてが殆どだ。恐らくは咲の婿になると思って助言をくれていたのだろうが、口調そのものはかなり優しかった。
結局将来を決めるのは自分自身。先達が意見を口にするだけで、それをそのまま実行してほしいとまでは考えていなかったのかもしれない。
兎も角、普段は優し気な顔をしていた人物が酷く真剣な顔で立っている時点で何かあったのは間違い無かった。
顎髭を僅かに生やした黒髪の渋い男。
短く切り揃えた彼はただ話さなければならないことがあると話し、事の深刻さを感じ取った父親は困惑を隠せないまま玄関まで向かった。
俺も一緒に付いて行くが、脳裏にはこの突然の訪問に一つ思い当たるものがある。というより、それ以外にこんな急に訪問などする筈がない。
玄関を開けると、目の前には咲の父親の姿。
線は細いものの身長は高く、そしてよくよく見れば彼の後ろに二人の女性が居る。
片方は咲だ。もう一人の黒いレディーススーツ姿の美人は咲の母親である。
此方も優しい女性であるが、今は顔面を青くしながら俺に申し訳ない顔を向けていた。
「……本当にどうしたんですか、まさかご家族も一緒とは」
「突然の訪問で申し訳ない。 今日の夜に衝撃的な話を聞きまして、その内容に翔君も関係しているんです」
「翔が、ですか?」
父親の目が自然と俺に動いた。
やはり、と内心で呟く。俺の目は自然と咲の方に向けられ、当の彼女は青白い表情で首肯した。
言いたいことはある。あるが、最早文句を口にしても遅い。
父親の目を俺は無視して、品野一家をどうぞと勝手に通した。碌な掃除をしていない所為で咲が遊びに来る時よりは綺麗ではないが、相手側が不満を零すなど出来る筈もない。
母親は茶を急いで用意し、それらを無視する形で椅子には咲と亮二のみが座る。
対面に隣同士で俺と父親が座り、こうして話し合いの場が自動的に構築された。
誰も口にすることのない時間が暫く流れる。
此方は俺だけが内容を知っているので覚悟しているが、俺の両親はまったく解っていない。故に相手の深刻な顔に合わせて真剣味を増していき、とても家で過ごしている時の表情とは思えない。
「……先の反応で翔君が何も話していないことはわかりました。 今日の夜までの我々と一緒ですね」
「翔が関係しているとのことですが……もしや翔が何かそちらにご迷惑をおかけしましたか?」
「そんなことはありません。 寧ろ今回は、私の娘が翔君に迷惑をかけてしまいました」
そっと、亮二はテーブルに頭を付けかねない程に頭を下げた。
合わせて咲の母親である玉春さんと咲も深く頭を下げる。三人が揃ってここまで謝罪するのは我が家にとって初めてのことであり、なればこそ訳を知りたいのも自明の理。
父親は頭を上げさせ、早速事の次第を尋ねた。そこには静かな警戒が滲んでいる。
「事の起こりは中学一年の頃だったそうです。 あの当時も咲と翔君は恋人同士として付き合っておりました。 ――――ですがそれより少し後に、咲は別の男性と極めて恋愛に近い関係を持ったそうです」
「ッ!…………それは、つまり、」
「ええ。 学生同士ではありますが、咲は浮気をしていたことになります」
飛び出してくる内容に、父親も母親も絶句していた。
それもそうだろう。過去を思い返せば、俺と咲の関係は悪いものではなかった。
告白して、周りにも伝えて祝福され、家族同士も許可を出し、デートにもよく出かけている。普段から彼女の静かな微笑を見ていた家族達が違和感を持つことは有り得ず、まさかの話に衝撃が全身を駆け巡ることになったのも自然だ。
勢いよく父親が俺の両肩を掴む。眼前に迫る顔には信じられない表情が浮かんでいて、まだ嘘か何かだと思いたがっているのがありありと見てとれた。
そしてそれは、表情は伺えないながらも母親も一緒だろう。
「正直に答えてくれ、事実か?」
「……父さんには悪いけど、事実だ。 証拠は無いけどね」
藁にも縋る気持ちだったのだろう。
俺にそんな事実は無いと言ってほしかったのは間違いない。だが希望の糸を俺は引き千切り、二人の気持ちを一気に悲しみの海に突き落とした。
嘘を言っても咲が居る時点で意味が無い。それに真剣な態度で臨んでいる咲の両親に対して、そんなことはないと告げるのは失礼過ぎる。
話を軟着陸させたいのは俺の本音だ。けれども、咲がもう耐え切れなかった。後少しだったのにも関わらず、罪悪感に支配されてか全てを吐いてしまった。
全てを知った父親は重く深い溜息を吐く。
顔を両手で覆って天を仰ぎ、そのまま暫くの間無言になる。
心の整理をしているのだろう。一瞬だけ母親を見ると、あの人は既に咲のことを睨み付けていた。
明らかに不味い。爆発するまで後五秒といったところか。
「……咲ちゃん、お相手は私達が知っている人なの?」
最後の理性で母親は咲に質問を投げる。
そこで浮気するのも仕方ないと僅かでも思わせてくる名前が出て来るのを期待したのかもしれない。
だが、咲は首を左右に緩く振った。それは絶望の深度を増やす行為だったろう。
「――幼稚園時代に、結婚を約束した人でした。 その人とはずっと同じ学校で、相手はその約束を本気に思っていたそうです」
母親も顔を天井に向けた。
腐っている相手ではないのはある意味幸運だったかもしれない。もしも彼女の浮気相手が我妻でなければ、恐らくもっと事態は最悪になる。
特に肉体関係に及べば終焉だ。もう家族だって助けてはくれなくなる。今でもかなり危険な域だが。
「俺が知ったのは三年の半ばでした。 友人伝いに咲と同じクラスの男子生徒がよく話をしていると聞き、別れる間際にキスをしていたそうです。 その後に駅の入り口でキスをしている姿を今度は直接見てしまい、一晩考えた末に別れることにしました」
場は暗い。そして爆発の一歩手前まできている。
俺が舵取りをせねばと未来情報を使って言葉を紡ぎ、本人は既に冷静だとアピール。下手に暗い素振りを見せず、敢えて笑みを浮かべて品野一家の注目を集めた。
「浮気相手の我妻は、本気です。 本気で咲を愛していて、それが悪い事だと解った上で彼女を欲していました。 きっと今も会おうと連絡を送ってきているのではないでしょうか」
「ああ……。 今でも連絡は来ているそうだ。 返事はしていないそうだが」
俺は冷静な男。感情的に振る舞うことはないぜと淡々と相手の素晴らしさを語る。
正直、浮気相手は凄い奴だと語るのは俺の立場上普通ではないのだが、ちょっとでも我妻上げをしておかないと二人がパーティーになる切っ掛けの一つも生まれないかもしれない。
ついでに自分下げもしておくか。我妻と会っている時と俺と会っている時の咲の表情を脳内で比べ、流れるように言葉を放つ。
「咲は我慢をしていたのかもしれません。 思えば俺の時は静かに笑うのみで、浮気相手と接する時の彼女は本当に幸せな顔をしていました。 きっと自分には不足があって、相手には無かったんです」
だから浮気されるのも仕方ない。強引過ぎる方法であるがそうして道先を変えようとして――――顔を両手で覆っていた父親が勢いよく手をテーブルに叩き付ける。
「ふざけるな」
マズい、爆発した。




