CASE4 品野・咲
「ゔぇ、ッ……!」
女子トイレの個室で咲は呻き声を漏らしていた。
周りに誰かが居ても今の彼女には関係無い。個室の扉には鍵もかけず、便器に蹲って腹の中にあった食べ物を全て吐き出している。
それは中身が無くなっても止まらず、最後には胃液のみになっても吐き気を抑えられない。
眦に涙が浮かぶ。生理的な反応で流れる雫は場違いに感じられる程に綺麗で、されど彼女には零れ落ちるソレを認識することは出来なかった。
今の咲に感じられるのは、己に対する極大の自己嫌悪。
増大していく嫌悪感の一部は憎悪に変わり、幾度も己の心にナイフを振り落とす。
解っていた。翔が学校で一人で居ようとするのは、人を信じられなくなったからだ。
解っていた。他に恋人を作らなかったのは、恋愛に価値を感じなくなったからだ。
それら全てに咲の影がちらつき、故に翔は彼女と会話を交わさない。お前のような女と関りなんぞ持ちたくないと。
「じ、ょう、ぐん……」
不倫の話が周囲に広がらないのも恋愛話をしたくない為。
今日の話も本当はしたくなくて、でも小森は二人の事情を知らないから踏み込んだ。
結果は偶発的な人助けをしたからだったが、小森はまだ気にするだろう。学校でも美人で有名な根岸の本気の告白を振ったのだから、翔が女性に求めるものが決してルックスだけではないと思っている。
根岸自身は翔に諭されたから引いたものの、実際のところ未練はあった。自分が本当に恋を勘違いしていたのかを考え、そして再度過去の彼にときめいたのだ。
あの瞬間の翔は力強く、優しく、悪意とは無縁だった。
男子学生特有の若さとはまったく異なる落ち着きは大人びていて、警察を前にしても自然そのもの。
話を周囲に広めなかったのも根岸には好意的だった。あんなに素晴らしい対応をしていたのにそれを自慢話として周りに話していたら幻滅していただろう。
関りを持たなかったのも根岸には印象的に映った。誰とも混ざらぬ一人はマイナスなイメージを持たれ易いが、そうなる原因は価値観の相違だ。
翔に子供らしさは無い。咲と付き合っていた頃の明るい表情は消え、彼女を含めてクラスメイトを見る眼差しには冷めたものがある。
とはいえ翔自身が悪意を持って生徒を害したことはない。あくまでも彼は生徒の今を低く見ているだけで、言ってしまえば幼稚と考えているのではないかと咲達は予想していた。
それは、根岸にとっては珍しい存在だ。
珍しく、同時に自分だけではないのだと安心感を覚えた。根岸は同学年の男子を子供っぽいと認識しているが、その部分と彼は似通っていたのである。
なればこそ、未練は生まれてしまう。他の比較可能な男子が父親ぐらいしかいない環境では、どうしたって印象の良い男子第一位は翔になる。
大学に進めばあるいは他に好意を持てる相手が出てくるかもしれない。その未来を根岸は否定しないが、けれど今を完全に諦めることも彼女はしなかった。
故に今、咲の立場は非常に危うい。恋愛は懲り懲りだと捨てているから翔は誰とも関係を築かないだけで、もしもこの壁を乗り越える相手が出てくれば二度と咲に未来はない。
一時の快楽が身を滅ぼすことは往々にして世の中で溢れる話だ。
咲とて浮気をした側とされた側の末路を知らない訳でもない。今一度繋がりを持てたとて、その頃には信頼なんてされないのだ。
愛し愛されるなど求めてはいけない。そうしたいのなら、彼女がすべきなのは他の相手を見つけることである。
そして、その相手は既に居る。ずっと彼女が傍に居てくれることを望む、我妻という男が。
今もなお彼からの連絡は途絶えない。週に三回は送られるメッセージは短く、されど恋情が強くて文であるのに熱さがあった。
「いや……いや……そんなのやだ……」
流されろと、咲の中のもう一人の自分が囁く。
流されて、受け入れて、それで我妻と幸せになればいい。どうせ翔は此方を振り返ってくれないのだから、今更足掻いたところで意味はないのだと。
解っている。解っている。解っている、解っている――解っているとも。
現実的な道は既に見えている。このまま大学に進むとして、その時点で翔との関係は途切れる。
彼の今後も知らない彼女では偶然を装って会うことも出来ない。彼の居ない日々が、当たり前になる時が来るのだ。
胸が痛い。彼の事を考える度に起きる痛みは吐き気を抑え込んでくれるものの、それで楽になどなれる筈もない。
彼女が真に楽になれるとしたら、翔と再度恋人関係になることのみ。彼女の想い描く幸福を形にすることでしか負の感情から解き放たれない。
では、一体どうすれば元に戻れるのだろう。
こんなに離れてしまった二人が今一度元の関係に戻るには、どれだけの努力が必要なのか。
身体で迫って解決するならとうに捧げていた。求められて拒む気はそもそも彼女には無い。金銭を要求されたってそれは変わらない。
でも、彼女の知る彼はそんなことを求めなどしないだろう。寧ろ逆に身体を大切にしろと叱る筈だ。
今も咲の不利にならない形を取っている以上、やはり無慈悲な制裁を彼は望んでいない。
なら、彼がしたいことをサポートするべきか?
資金面なら大きな問題は無い。咲の家は裕福で、店の経営をしたいと思えば時間は掛かれど実行そのものは可能だ。
父親と母親に援助をお願いすることになれど、彼女が彼の為に頭を下げることに迷いは無い。
二人一緒の状態で仕事を始め、徐々に関係を元に戻す。
完全な信頼関係を構築することは不可能であれど、相手にとって自分は絶対に必要だと思わせれば離れることは難しくなる。
つまりは信用関係だ。咲自身の求める幸福とは違うかもしれないが、相手が自分を大事にしてくれるのなら然程違いは無い。
結婚はきっと無理だろう。いけてパートナーくらいが精々だ。それでもまったくの零になってしまうよりは良いと言える。
「……それなら」
顔を上げる。便器を手から離し、ふらつきながら洗面台の前に立つ。
顔は死人のように青白い。瞳に光は無く、今年に入ってから肉体は常に体調不良を訴えている。
意識して笑みを作ってみた。仮面を貼り付けるように作られた笑顔はこれまでの生活によって実に自然で嘘だと思わせない。
それでも彼女にはこの笑みに何の魅力も感じなかった。
可愛さも美しさも結局は感じる人次第であり、つまりこの表情を良いものだと思う人間は表面的な部分しか理解していないのだろう。
「馬鹿みたい」
言葉を吐き捨てる。
此処の男子生徒に良い男なんて居ない。顔が良くて体格に恵まれても、こんな笑顔一つで恋に落ちるような頭なら末路は悲惨そのものだ。
いざという時、危険に飛び込んででも大切な人を守れる強さを持っている人間が一番魅力的である。
そして中身も確り見てくれて、相手を慮ってくれるのなら最高だ。そんな男性を、品野・咲は一人知っている。
答えは最初から決まっていた。決まっていた事実に彼女は更に理由を付け足しただけだ。
最初に惚れた瞬間を思い出す。校外学習で小さな山に登って、その途中でふざけ合って崖に落ちたクラスメイトに手を伸ばす彼の姿を。
『確り掴まってろ! いいか、絶対に離すんじゃねぇぞ!!』
「離さないよ」
あの必死の姿に、絶対に助けようとする力強い瞳に、彼女は惹かれた。
咲の意思は変わらない。翔の傍に居ることが彼女にとっての自然だった。その自然を当然だと思っていたからこそ、別の男に慈悲など抱いてしまったのだろう。
馬鹿みたいなのは咲も一緒だ。誰にでも良い顔をするような女が翔の隣に居るべきではない。
真に一人、その人以外はどうでも良いと思えるからこそ愛は尊い。
ならば愛を。全身全霊の最初で最後の渾身の愛を。全て彼に向けよう。他に目なんて向けないし、向けられたって無視を貫く。
最後に勝つなんて断言することは出来ない。それでもきっと、ちゃんと愛することが出来たのであれば。
「好きだよ、翔」
未来は変わると信じている。




