THIRD CASE1 伊月・桜
「今日は送ってくれてありがとう」
「気にしないでください先輩。ではまた今度」
扉が閉まる。
車は走り出し、桜は柔らかな微笑を無に戻す。
車内は静寂に満ちていた。運転手は何も語り掛けず、機械の如くに彼女の家に向かう。
運転手の瞳は一瞬だけバックミラーを見た。後部座席に座る桜の姿勢は令嬢と呼ばれる存在に相応しく、あの荒い口調さえなければ裕福な子女そのもの。
尤も、桜は金持ちの令嬢を嫌悪している。そう見られるのも、そうなってしまうのも、彼女にとっては侮辱も同然。
人々にとって讃えられる言葉は桜にはあまり意味を成さない。それが純度百であってもだ。
「南雲」
短く桜は運転手の名を呼ぶ。
南雲は短い返事をし、相手の命令を待つ。
「帰ったら直ぐに私の受験先を変更してもらって」
「……よろしいのですか?」
「構わない。別に親父も反対はしないだろうさ。甘いからな」
桜はそれだけ言い放ち、窓に目を向けた。
話はそれだけ。運転手は静かに命令を受け取り、そして桜の家である巨大な戸建ての前で止まる。
止まった瞬間には玄関から別の黒服の人間が姿を現した。黒服の手には折り畳まれた車椅子が用意され、車の扉が開いたと同時に展開する。
身体を引き摺るように扉前まで移動した桜は黒服に抱き上げられて車椅子に座り、彼女用に作られた家の中へと入っていった。
玄関から更に車椅子を変更して廊下を進み、一階の自室前に辿り着く。
そこで護衛として雇っている黒服を下がらせ、彼女は自身で車椅子を動かして中に入る。
今年で桜は中学三年生になった。
来年になれば高校生になり、ゆくゆくは大学にも進むことになる。
最終的には親の手伝いをするか、或いは彼女の親の権力目当ての男と結婚することになるだろう。
桜の父親は家族想いの人間だ。亡くなった妻も桜も愛し、不自由の無い生活を送らせる為に今日まで継承された会社の社長として仕事を熟してきた。
多忙な日々の所為で桜と会話をする時間は少ないが、それでも彼女が父親を悪く思うことはない。足が満足に動かせなくなった娘に対しても優しく、将来の選択肢を狭める真似もしていない。
彼女が親の手伝いをしたいと考えるのは、ただ単純に親に恩返しをしたいだけだ。もっと優先すべき事柄があれば相談の上でそちらの道に進む。
「……ちょっと想像と違ったな」
桜の室内に物は少ない。
万が一にも転倒することを避ける為に小物が置かれておらず、勉強用の机や手摺の付いたベッド、クローゼットがあるだけだ。
撥水性の高いブラウンのカーペットの上を走り、机の上に置かれたノートパソコンを起動させる。
最初に表示されたデスクトップ背景は、何処かの一軒家だった。
一般的な世帯向けの家は特徴的な特徴も無く、他の人間に見せても何故こんな画像を背景にしているのかと疑問に思われるだろう。
指を滑らせ、画像ファイルを開く。フォルダ名は予言の二字。開かれた画像は、一人の男性を様々な角度や距離から撮ったものだった。
「こうして見ると、やっぱり普通だよな」
この画像は全て護衛として雇っている人間に命じて集めさせたものだった。
途中から本人に注意されたことで画像は百枚にも届いていない。追跡作業のお蔭で学校や家は既に特定済みであり、情報をばら撒けば途端に画像の中の男の個人情報が拡散されてしまう。
勿論、桜本人にその気は無い。こんな真似をしたのもこれが初であるし、そもそも彼女が初めて男の姿を見た時も正直何の魅力も感じなかった。
そこら辺に居る十把一絡げの顔。背丈も大きくなく、交友関係は一切無い。
過去の恋人とは既に別れているのも確認済み。理由は定かではないものの、その事にまで心血を注ぐ気は彼女には無かった。
桜が彼を知ったのも父親が接触を求めていたから。
的中率ほぼ十割の予言。発表される度に世間を騒がせる未来の情報の話は桜も当然知っている。
主な情報源は中学のクラスメイトからだが、プライバシーをまったく見せない様子に一部ではAI説も囁かれていた。
殆どの学生はこの予言を真実だと信じている。桜も父親も次々と予測不可能な事件や出来事を当てていく文面に認めざるを得なくなり、故に父はもしかしたらを考えてしまった。
この予言者ならば桜の足が治る方法を見つけ出せるのではないかと。どんな医者や科学者に見せても出来なかった奇跡を起こしてくれるのではないか――そんな荒唐無稽なIFを。
呆れる他ないだろう。現に桜は父親に目的の人物に会おうとしていると言われた時、最初は制止させた。
そんなことをしなくても自分は幸せだ。
そもそも相手側に迷惑になる。面倒な展開にまで発展すれば、痛手を負うことになるのは此方だ。
相手は個人情報を晒していない。そんな相手の個人情報を得るとなれば、方法は限られる。その全てが何かしらの犯罪に抵触することになり、相手がなりふり構わず世間に流せば父親の名前と会社に傷が入ってしまう。
だから何とかこのままでと説得を続け、父親は最初の内は娘の意を汲んでいた。
だが、親の愛情とは桜の予想以上に深い。特に桜の父親は珍しいくらいに家族想いの良き人間で、会社の社長をやるには不向きなくらいだ。
利用出来るものは何でも利用するくらいの気概が会社運営では特に求められるが、それをするだけの度胸は残念ながら父親にはない。
それでも成功しているのだから凄い話ではある。桜も雑談で会社の苦労話をよく聞くものの、とても自分の能力で解決出来るとは思えない。
この部分はやはり器が関係するのだろう。
父親は善良な人間だったから人望の多さでカバーしているのかもしれない。
であればこそ、娘の足が事故で動けなくなっている現状を解決したい気持ちも強かった。
彼女が接触を図った事実を知ったのは、全てが終わった後。夕飯の席で暗い表情で父親は謝罪混じりに彼との対話を桜に話し、結局失敗したことを伝えられた。
当然、桜は当たり前だと注意するつもりだった。自分の為を思って行動してくれたのは嬉しいが、やはり特に知らない相手を頼ろうとするのは双方にとってよろしくない。
脅すに足る材料そのものは持っていても、相手はオカルト側の人間。どんな方法で報復されるかを考えれば、とてもではないが下手な手を打てなかった。
それでも注意をする口が動かなかったのは、彼女の内側で声がしたからだ。
その声は決して大きくはなかった。ちょっと耳元で囁いた程度で、欲望が発したものとしてはあまりに儚く朧気だ。
無視することは可能だ。にも関わらずに彼女は、その声で口を噤んだ。
頭の中で大義名分を組み立て、謝罪を口実に今度は父親から許可を捥ぎ取って男――翔に接触した。
学校前にしたのは逃げられるのを避ける為。変に後輩キャラを作ったのも関係があるように見せる為で、翔側はそれら全てを流れるように読み取ってくれた。
運転手を除けば二人だけの時間は、正直桜にとっては驚きの連続だ。
先ず高校生が話しをするには嫌に距離がある。いきなり丁寧語で話をするくらいは普通だろうが、隣に居るのが年下の女であればもう少しは接近してこようとするのではないだろうか。
しかし実際は桜が語るあの日の裏事情を聞いていただけ。その説明にも翔は心動かす様子も無く、全てを知っていると解っているかのようだった。
この分であれば自分が一番知られてほしくない情報も知っているかもしれない。
翔の口調は淡々としていて、此方に興味を持っていないのは明らか。関わり合いになれば此方をいくらでも利用出来そうなものなのに、彼はそもそもからしてこの接触をメリットには感じていないようだった。
それ即ち、サンライフで何かが起きることを指している。翔自身は言う気は無いものの、明確に距離のある姿勢は面倒事は御免だと言っていた。
加えて他人の為に時間を使いたくない宣言。
その言葉を言っている彼の瞳に光は無く、他者との関係も望んでいないのが伺える。
感情の無い顔、淡々とした語り口。人間らしさの欠如した姿には冷たい印象を抱かせた。仮に見知った誰かの死体が傍にあっても彼は冷静に処理してしまうかもしれない。
若い人間らしい明るさは何処にも見当たらない。だが、本当に冷たい人間であるならば予言で誰かを助ける真似をする筈が無いだろう。
あれが最後の善性か、あるいは狙いがあってのことか。
良い人間アピールが目的であれば話は簡単なのだが、彼の姿を見ている限りではとてもそうには思えなかった。
足に関する収穫は無かった。
別れる最後まで桜や家族に直接関係する話も出て来ず、けれどまったく何も無かった訳ではない。
嫌な予感が全身を駆け巡った。
事故で感じた死の気配よりも濃厚な死が迫る感覚を覚え、帰ってきた今も全身が冷えている。
あの予言はこれまでの内容とは違っていた。他よりも唐突で、オカルトチックで、漠然としていて、判然としていない。
意図的に追加情報を与えないのは何故だろうか。
敢えて恐怖を煽るのはどうしてだろう。それが原因で徐々に中国国民の彼に対するヘイトは上がってきているのに、本人はまったく気にした素振りも見せなかった。
きっと日本でも同様の発表を行うのだろう。時期は恐らく、あの中国の予言が的中した後か。
「ますます離れる理由が無くなったじゃねぇか……ッ」
桜はパソコンの画面を見つつ、表情を強気に歪める。
足の状態を何とかする方法を彼は言っていない。しかしそれは、不可能であると言っている訳ではない。
憶測なのに彼女は確信していた。そこには間違いなく、この予言の話が終わる間際で漏れた彼の言葉も関係している。
「ダンジョン、か……」




