始まり2 未来予知
朧気な意識が途切れ、次に目が覚めた時には俺は上着だけ脱いだ学ラン姿のまま深夜で横になっていた。
時刻は午前五時。中途半端な時間の目覚めにも関わらず微睡みも無く、気怠さだけが残っている。
あの謎の映像は嫌に鮮明に覚えていた。忘れようにも衝撃的な映像が続いた所為で忘れられず、されど悪夢と呼ぶにも違和感がある。
ただただ、不思議な感覚だった。気にする必要は無いとはいえ、簡単に忘却するには次の日の俺の行動があまりにも自分らしかったのだ。
浮気される瞬間を見てしまえば、俺は裏切られた想いをずっと抱えておくことは出来ない。
真相を追求する為に咲に確認するのはそうだし、真実であることを知って離れるのも必然。
あの頃の無邪気さは既に吹き飛んでいた。
ただただ、咲に対しては残念以外の二文字が浮かんでこない。
時間が流れれば何時か泣くかもしれなかったが、あの映像の俺は感情を喪失して無気力になってしまっていた。
あれは未来の自分なのだろうか。己の頭が作り上げた、変な妄想と結びついたこうなるかもしれない世界の自分だったのだろうか。
脳裏に巡る予想は誰にも正解だと解らない。そも、未来を認識することが出来る術を今の人類は作り上げることが出来ていない。
浮気からの現実逃避だと言われれば頷ける話だろう。俺もそう思おうとしたが、ふと試してみるかと胸裏で呟いた。
「今日の朝食は作り置きのカレー」
それは本来、この段階の俺であれば知らないこと。
家族が昨日の段階で作ったカレーは俺の部屋にまでは届いておらず、知っても大した反応も示さずに機械的に白米とカレーを大皿に乗せていた。
その際に緩慢な動作で見たテレビに表示されていた時間は、午前七時。
部活も終わった身で朝練も無い俺は、もうそこまで気にする必要もないと嘗てよりも遅く起き出していた。
なら今起き出せばどうなるだろう。
いきなり映像とは異なる行動を取るが、結果は変わるのだろうか。
そんな馬鹿なことを考えつつ風呂に入る気も無しにリビングに向かい――――薄暗い室内に漂う臭いに息を呑んだ。
四人が不自由なく使える巨大なテーブルに人の姿は無い。
母も父もまだ寝ている時間のようで、それでも後一時間もすれば起き出してくるだろう。
部屋の奥のキッチンのコンロには大鍋が一つ置かれてている。普段は収納されているそれから発される美味そうな臭いは、やはり俺もよく知る物だ。
震える手でゆっくりと鍋の蓋を開ける。温度の低い茶色のカレーは、量としては少ないながらも確りと現実として此処にあった。
「……嘘だろ」
思わず出た否定は、しかし何の効力も無い。
映像で見た際には鍋は温まっていたが、それはこれから火を点ければ出来ることだ。慣れた動作で換気扇を回して火を点けた俺は半ば無意識に映像通りに皿を取り出し、完成直後の白米を同じ量だけ乗せた。
温まってきたカレーをお玉で掻き混ぜ、白い湯気が昇り始めた段階で火を消して掬い始める。
出来上がったのは、やはり映像で見たカレーそのまま。銀のスプーンまで完璧に整えた俺は、テレビに一番近い位置の椅子に座った。
「何時も通りだ」
熱いカレーを口に含むと、母が作る何時も通りの味が口内に広がる。
あの人は辛いのがあまり得意ではなく、甘口のカレーばかりを作っていた。その所為で俺達家族も身近なカレーが甘口になり、中辛のカレーをあまり得意としていない。
一度食べると途端に腹の虫が騒ぎ出した。昨日の夕飯から何も食べていないのだから当然だが、しかし異様に空いた腹は簡単にカレーを収めていく。
そのままお代わりまでしてしまい、二皿目もするすると食べ切った段階でほうと息を吐いた。
「……学校へ行って、彼女に放課後時間を作ってもらって……別れ話をして」
頭は自然とこの後を考え出す。
元気の無い俺を両親は心配していたが、そんなことを気にせずに自身は学校に向かう。
咲とは通学路が異なる為、実際に顔を合わせることになるのは学校の教室。彼女は優等生でもあるので余裕を持って教室に辿り着き、そこで俺と何時も通りの挨拶を交わす。
だが俺はそこで彼女に時間を作ってもらうことを頼んだ。彼女は怪訝な表情をしたままそれを了承したが、客観的に映像を見ていた俺はその時点で咲の表情に不安が混ざったのを覚っている。
これもまた真実になるのか。もし真実になるとしたら――――俺は彼女と今日で別れることになる。
「別れる……別れるか」
呟く言葉は、本来もっと衝撃を伴うものかと思っていた。
彼氏彼女の関係が終わるのだ。それも相手側の浮気が原因となれば、俺はもっと取り乱すのではないかと考えていた。
けれど、未だ心の湖に小波は立たない。酷く冷静な心は、まるで最初から予定調和であることを確信しているかのようだった。
馬鹿な。確かに冷めはしたとはいえ、咲は彼女だったんだぞ。好きで好きで、他に振りむいてほしくないと想い続けてきた相手だったんだぞ。
終わることを簡単に受け入れるだなんて、それこそ俺らしくない。
自分はそこまで簡単に割り切れたのかとそちらの意味で心は揺れ、明瞭な答えも出ずに物音がした方向に顔を向けた。
「あれ、翔? 起きるの早いわね」
「ああ――母さん」
朝、最初に起き出すのが誰かと言われれば俺は自分の母を指す。
肩まで伸ばした茶の髪、既に緑のエプロンを身に付けた姿、四十代でありながらも若々しさを保つ努力をしている肌。
今も母は美人の部類に入ると思うが、若かった頃はもっと綺麗だったろう。それこそ多くの人間が彼女に告白していたかもしれない。
だとすると普通の顔である父はどうやって母の心を射止めたのだろうか。浮気された俺と父で、一体どんな違いがあったのか。
「……昨日は飯を食べなくてごめん。 ちょっと、嫌なことがあってさ」
「それは大丈夫だけど、嫌なこと?」
怪訝な顔で疑問を返す母に、俺は意識して笑みを形作る。
今はもうどうでもいいことだからと首を左右に振るも、母は俺の表情に心配気な顔を浮かべたまま。
母を心配させる気は俺にはないのだ。父を含めた俺の家族は実に一人息子を愛してくれて、問題が起きればすっ飛んで来るような性格だった。
そんな二人が今回の浮気を知れば、激怒して咲に何を言うかも解らない。既に互いの両親とは挨拶を交わしているだけに、問題は俺と咲だけで終わらない可能性もあるのだ。
なればこそ、俺は冷静でいなければならなかった。一人で嘆くよりも先ず、問題解決に尽力するのが後腐れない終焉だろう。
気にしないでと努めて明るく喋り、適当に早朝を急ぐ理由を作って自室に戻る。
卒業式まではもう一ヶ月も無い。卒業練習の大詰めや思い出作りという名のレクリエーションもある現状、授業が少ないながらも学生として暇とは言えない。
脱ぎ捨てていた上着を纏い、最近めっきり軽くなった学校指定の手提げ鞄を持って玄関に足早に向かう。
母は玄関口で待っていたが、急いでいる素振りをしている俺に何も言いはしなかった。
「今日は、ちょっと帰るのが遅くなるかも。 友達と遊ぶかもしれない」
「そう。 ――なにかあるなら、ちゃんと言ってね?」
玄関に身体を向けていた俺に、母は最後に優しい言葉を放つ。
それが慈愛を大いに含んでいることは明らかで、多分に俺を心配していることも解っていた。
不意に、目が熱くなるような感覚を覚える。
その感覚が強くなる前に行ってきますと返し、人生で残り僅かな中学高への道を進む。
人通りは早朝である所為で殆ど見えず、この分なら自分がどんな顔をしていても誰かに見られることもない。
「言えるわけないだろ」
声は、普段よりも震えていた。




