始まり1 脳破壊
あの時の出来事を俺は生涯に渡って忘れることはない。
夜の迫る夕暮れ。卒業間近の春の季節に俺は黒い学ランを着ていて、その日は友達と卒業後の進路について話し続けていた所為で帰るのが遅れてしまった。
家族には携帯で詫びを送り、最寄り駅へと到着して時間を確認し――――既に学生の姿が少なくなっている場で一人の学生を視界に収める。
背中まで伸ばした黒髪。綺麗であるよりも先に可愛さの言葉が先に出るその女性は、俺と同様に学校指定の紺のセーラー服姿で誰かを待つように立っていた。
その姿に俺の口は緩む。心は自然と彼女の下に飛んで行きそうなくらいに浮き上がって、けれどそんなことは俺にとって当たり前だった。
品野・咲。
同じ中学に通う彼女とは、一年生の頃から恋人関係にある。
先に告白をしたのは咲の方で、入学当初から話題だった彼女にその年の夏に想いを告げられたことは今でさえも驚愕ものだ。
何せ具体的なアピールなんてものはしていないし、俺の学年には二人の美男子が居た。
そのどちらもに女生徒は夢中で、殆どの男子には在学中に出会いなんてないんだろうなと思わせられたものである。
だからこそ告白され、その理由に胸を高鳴らせた。
彼女は俺を明るくて前向きな人間だと言ってくれたのだ。悩んでいる人間に積極的に話しかけに行き、直ぐに立ち直らせている様を見ていたと言っていた。
俺としてはただ馬鹿なお節介を焼いただけである。
人間、一人で悩んでいたって解決するのは難しい。生まれた時から格差があるんだから、無いものを一々気にするよりも今あるもので勝負をした方がずっと建設的だ。
それに俺が相談を聞いた奴の内容は案外下らないものが多くて、そんなことは気にする必要はないと遊びに誘えば相手の顔も明るくなった。
自分が誰かを立ち直らさせた自覚なんてある筈もなくて、しかしそんな行動に彼女は惚れてくれたのである。
――――それが本当に、俺は嬉しかったのだ。
嬉しくて嬉しくて、だからきっとその時点で俺はもっと馬鹿になってしまった。
疑問を挟まずに告白を受け、思い出を作ろうと二人で遊びに出掛け続けて、自慢の彼氏になれるようにと勉強も運動も必死になった。
変わった俺を家族は柔らかく応援してくれていたのも知っている。何かと理由をつけて増やしてくれた小遣いに当時の俺は気付いていなかったが、今は感謝しっぱなしだ。
進路先の高校は一年生時点ではまったく考えられないくらい偏差値が高く、合コンの場でステータスになるくらいには有名でもある。
彼女もそちらに進み、高校でも甘い日々を過ごしてから大学に進学して結婚の予定だったりを考えるんだろうなと想像していた。
だからだろう。
彼女の下に向かおうと一歩を踏んだその瞬間、彼女は駅の前で誰かに手を振っていた。その先には俺の学校でも有名な美男子の一人が居て、彼は緩く笑みを浮かべながら彼女の下に歩いていった。
彼女の顔は輝いている。俺の前でしていた儚さすら覚える笑みとは真逆の、さながら青空に輝く太陽の如き笑みでもってその美男子を迎えた。
そして唐突に――――本当に唐突に、美男美女は軽いキスを交わしたのだ。
挨拶代わりと言わんばかりのその動作は手慣れているようで、彼女は多少頬を染めはしても慌てる素振りもなかった。
浮き上がった心が異音を鳴らした。
目で見た真実が、本当に真実であるのかと脳が疑問を覚えた。
目を何度も服の袖で拭ってみるも彼女と美男子はそこに居て、俺を待ってくれてたんだろうなと思う予測はあっさりと砕け散った。
そのまま二人は手を繋いで駅の中へと消えていき、残る俺は唖然とした表情のままその場で立ち尽くす。
脳裏を過ったのは、浮気の二文字。同じ文字が脳裏に何百と通り過ぎていっては、否定したい気持ちを撃ち抜いた。
真実、ある日いきなり俺の人生は急転直下の道を辿ったのである。
何も考えられなくなった状態で気が付けば家に居た俺は、布団を敷いて寝る段階になって漸く全てをありのままに理解した。
彼女の笑顔に嘘は無く、俺との関係は嘘だらけ。
全てを捧げたような時間は総じて無駄で、きっと今更努力をしたところで彼女の好意を引き戻すことも出来ないだろう。
いや、そもそも本当に彼女が俺に好意を持っていたのかも怪しい。これが本当は嘘コクだったと考えるのも、あの瞬間を見れば考えられそうだ。
言葉は無かった。頬を流れる雫はこれまでにない程の勢いで、同時に自身の大切なものが共に外へと消えていく。
心は砂になるまで分解された。これまでの情熱が感情のなにもかもを燃やし尽くして、残るは灰だけになってしまった。
あまりのストレスか酷い頭痛すら感じ始め、小さな呻き声と共に俺は敷いたばかりの布団に風呂にすら入らず横に倒れてしまう。
服は学ランの上を脱いだだけだった。白いシャツは皺だらけになるんだろうなと何処かで考えつつも、そんなことはどうでもいいと意識を閉ざす。
「――ここ、は」
二度目の記憶の断絶。
気が付いた俺の前には一枚のスクリーンのような布がある。それ以外には暗闇が広がり、他の人間の姿は見受けられない。
一体此処は何処なのか。眼前のスクリーンにはどんな役目があるのか。俺は自分の家に帰れるのか。
脳裏を過る疑問に、されど不思議なことに不安が湧き出ない。そんな感情など最初から無かったが如く、ただ不思議であると思うばかりだった。
スクリーンが僅かに光り始める。
何も映っていない布には線が入り、そして線は複雑に合わさることで絵となり、色が付いて最後には動画となって動き出す。
そこに映っていたのは俺だった。上着を脱いだだけの学ラン姿の自分がゆっくりと布団の上から起き上がり、感情の抜け落ちた表情で朝食を食べている。
学校へと赴き、朝に出会った咲に話があると放課後に時間を作ってもらい、そして駅で見た出来事を語った後に別れを切り出していた。
咲は泣いて、しかも別れたくないと話している。
美男子との関係は勢いだけで、言ってしまえば将来を考えたものではない。本命は依然として俺であると彼女は語り、しかして勢いでキスをするような女性を俺は拒絶した。
別れた俺は残りの学生生活を無気力に過ごしていたが、これまた突然に状況は変化する。
ニュースに流れる速報。中国のとある街に巨大な穴が生まれ、そこから大小様々な異形が姿を現しては近くの街や村に襲撃していた。
緑色の小人、飛行機に並ぶ程の巨大鳥、包丁めいた大剣を握る巨人。
どれもこれも漫画やアニメで出て来るような姿をした化物は蹂躙を重ね、中国国民達は敗北続きの果てに難民として世界各地に避難している。
日本も受け入れ国の一つとして名前が並び、けれど実際に受け入れる前に日本の首都付近に建物を全て飲み込む巨大な黒穴が出現した。
その頃には俺は大学に進学しようとしていて、入学式の日に穴が現れたのである。
俺が受験した大学も東京に近かった。その所為で怪物の蹂躙に巻き込まれ、入学式に参加しようとしていた両親はそこで死んだ。
俺も狼のような怪物に右腕を食い千切られ、緊急出動した自衛隊に助けられた。
その後の日々は正に地獄。銃や砲で倒せる怪物の数は少なく、戦闘機や戦車を用いても殲滅することは不可能だった。
一定以上の力を有する怪物は様々な方法で攻撃を防ぎ、そこから数年は人類全体に穴が生まれては蹂躙されるを繰り返している。
事態の変化は一部の人間が怪物を独力で倒してからだった。
素手、あるいは旧世紀の武器や近い物で倒した人間には不思議な力が付与され、そこから人類側の快進撃が始まる。
不思議な力は倒せば倒す程に増していき、日本に住んでいる人間は直ぐにこれが現代ファンタジーのダンジョンものに酷似していると気付いた。
既にこの手の作品は世界中に存在しているのだろう。有名人を含んだ数多くの人間が穴をダンジョンと呼び、怪物達を魔物と定めて枠に当て嵌めていった。
不思議な力をステータスと呼び、それらが上昇していく様をレベルアップと決め、力を増していった人類は一気に勢力図を戻していく。
一番早めに状況を落ち着かせたのは日本だった。
流石はサブカルの聖地。その手の造士が深い連中の揃った日本は無鉄砲な馬鹿による突撃によって強者を増やして、最終的に怪物を穴の中に戻し切った。
だが穴の数は一つでは終わらない。次々に増えていくダンジョンはどれも最初は怪物が溢れ、強さも各々異なっている。
安定期に入るまでは十年の時間が必要となり、その頃には彼の年齢も三十路を超えていた。
片腕の無い彼では普通の職に就けず、金が稼げないのであれば家に住むことも出来ない。数が大きく減った職種の中でまともに食っていくには、どうしても危険に身を投じる必要が出て来てしまった。
彼が選択したのは冒険者と呼ばれるようになった者達のサポート。
彼等が深い場所にまで潜ることを想定して準備された道具や食料を代わりに運び、怪物達から現れる有益な素材を集める業種であった。
一日の稼ぎはダンジョンの危険度によって変わり、最も危険な場合は一回の探索で一ヶ月は自由に生活することが出来る。
サポーター達は冒険者程の実力も無い。全体が危機に陥れば一番に切り捨てられ、捨てられた彼等は酷く呆気無く怪物に殺されていくのだ。
映像の中の俺の終わりもまた、そのようになった。とあるダンジョンに入り、そして大規模な怪物の群れと激突し、勝てないと判断された冒険者達によってサポーターは全員足止め用の餌にされたのである。
蹴り飛ばされて敵の前で倒れた俺は無様そのもので、蟻型の巨大な怪物は餌になった冒険者達に一気に群がった。
悲鳴と、肉が潰される音。噴き出る血は辺り一帯を赤く染め上げ、生き残りは当然ながら一人も居ない。
――そこで俺の生涯は終わったとばかりに、映像は終了を見せた。
始まりとは逆に映像からは色が抜けていき、複雑な線は消え、最終的に元の白いスクリーンが眼前に残る。
「……なんだ」
呟きには当然、疑問の色が含まれていた。
浮気からの学生生活の流れはまだ解る。確かに自分ならそうするだろうと思わせたし、以降に女性の影が無いことも女に対する不信を持ってしまった結果だ。
大学に進んだのも良い職を求めてのことで、両親が入学式に参加するのも予測可能な範疇だ。
だけれど、それから先がまるで意味が解らない。一体どんな漫画の世界なのだとツッコみを入れたくて、浮気された直後でもなければもっと騒いでいただろう。
だが、と俺の胸の深い部分は訴える。
心臓の鼓動が五月蠅い。忘れるなと本能が激しく伝えてくる。これが嘘であると理性が意見を発しても、直感が理性とは反対の意見を訴えた。
これは何なのだろう。解らない、解らない、ただただ解らない。
浮気された時にこんなものを見せないでほしい。今の俺は頭を回すことすら億劫なのだから。明日の学校のことすら、もう俺は行きたくないとも感じている。
だが、こんなものを見せたナニカは容赦が無かった。
見せるものは見せたとスクリーンが透明になって消えていく。
暗闇だらけの空間で意識は朧気になり、それは過去で何回か体験した夢から覚める感覚に酷似している。
浮上していく気分を覚え、俺は何も考えることが出来ずに全てを委ねた。――――早くこんな場所から去りたいから。




