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雪の日の毛玉騒動

「にゃあ」


「あら……」


 オペレッタの依頼を受けて、打ち合わせを終えた帰り道。ちらちらと降り出した雪に帰路を急いでいると、小さな鳴き声が耳に届いた。

 導かれるように視線を落とすと、視線の先で雪の上をふらふらと歩く子猫の姿が目に入る。

 茶色い縞の毛並みに、顔の一部と前足だけが白く染まった愛らしい模様。まだ頼りなく、毛並みもふわふわと柔らかそうに見える。

 子猫は鼻先を雪に埋めてはくしゅんとくしゃみをして、次の瞬間にはよろよろと私の足元に擦り寄ってきた。寒さの中で迷い込んだのだろうか、周りを見回しても親猫の姿はどこにもない。


 雪を背に受けて、ちいさな体は冷え切っている。そっと手を差し伸べると鼻先を押し当てて、細い声で「にゃ」と鳴く。その無邪気さに胸の奥を掴まれるようで、私はためらう暇もなくしゃがみ込み、その柔らかな体を抱き上げた。


「アルフレートはあなたを許してくれるかしら」


 白い息が重なって、子猫は小さく身じろぎする。雪は次第に勢いを増し、音もなく道を覆い始めていた。もうこのまま置いていくわけにはいかない。

 私は抱えた子猫を胸に寄せながら、マントの前をきちんと合わせて歩き出した。



 暖炉の火を入れるとぱちぱちと薪の弾ける音が部屋をやさしく満たし、赤い火の揺らめきが壁に映る。

 温めたミルクを小皿に注いで、匙でそっとすくって口もとへ寄せると子猫は小さな舌で一心に舐めはじめた。雪に濡れた毛はまだ少し冷たさを残していたけれど、体の内側から温まっていくのか飲み終えるころにはほっとしたように小さく欠伸をして、絨毯の真ん中に丸くなった。

 ほんの少し前まで雪の中を震えながらさまよっていた命がこうして安心しきっているのを見ていると、胸の奥から安堵が広がっていく。


 けれど安堵に寄り添うように不安も芽生えていた。アルフレートの顔を思い浮かべる。そういえば、動物が好きだという話はこれまで一度も聞いたことがない。

 あの人は優しいから、拾ってきたばかりの小さな命を放り出したりは絶対にしないだろう。でも、もしかしたら苦手という可能性もある。

 実際私はずっと動物が好きだったのに、母がどうしても受け入れられなくて、屋敷では一度も飼わせてもらえなかった。


 そう考えているうちに、玄関の扉が開く音がした。足音が渡ってくるのを聞いた瞬間、私は弾かれるように立ち上がった。


「おかえりなさい」


 声をかけるといつも通りの調子で「ただいま」と返ってくる。その響きは変わらないのに、私の胸は落ち着かなくて、鼓動ばかりが早まっていた。

 アルフレートの視線がまだ子猫に届いていないことに、ほっとするやら、いっそ早く見つけてしまってほしいやら、自分でもよくわからない気持ちが入り混じる。


 迷いながらも、とにかく言葉にしてしまわなければ前へ進めないと思った。私は少し視線を彷徨わせてから顔を上げ、彼に向かって切り出した。


「あのね、私たちに家族が増えたら素敵だと思わない?」


 その瞬間、アルフレートの動きがぴたりと止まった。まるで空気が張りつめたように静まり返る。ゆっくりと振り向いた彼の瞳は驚きに大きく見開かれていて、私の心臓がどくりと跳ねた。


「……エリザベート」


 低く呼びかけられる声に、思わず背筋が伸びる。彼はほんのわずか躊躇したあと、真剣な面持ちで問いかけてきた。


「……本当に?」


 問いの意味を掴みかねて、私は瞬きをする。それでも彼の視線があまりにもまっすぐで、疑う余地もなく真摯だったから、同じように迷いのない言葉を返した。


「……ええ、本当よ」


 答えると、彼は一歩、また一歩と近づいてきて、ためらうように腕を伸ばし——次の瞬間、私をそっと抱き寄せた。肩口に触れる吐息が、信じられないほどに優しい。


「……ありがとう、エリザベート。どんなことがあっても大事にするよ。君を一人にもしないし、絶対に後悔させない」


 あまりに真剣な言葉に、胸の奥の不安が解けていくのを感じた。私は彼の肩にそっと手を添え、心に引っかかっていた小さな棘を打ち明ける。


「……あなたが反対するんじゃないかと、実は少し心配だったの。急な話だし、受け入れてもらえなかったらどうしようって」


 すると彼は驚いたように身を離し、私の顔を見つめ返して首を振った。


「そんなわけない。こんなに嬉しいことはないんだよ。僕にできる限りのことをして、君もその子も必ず守るから」


 その表情は本当に心から喜んでいるようで、私は安堵の笑みをこぼした。そして、そっと指先で彼の袖を引く。


「……それじゃあ、こっちに来て。見せたいものがあるの」


 暖炉の前に敷かれた絨毯へと彼を導き、丸まっていた小さな毛玉のような子猫をそっと差し示す。柔らかな茶と白の毛並みがもぞもぞと動き、丸い瞳がぱちりと開いた。


「今日、雪の中で震えていたの。この子よ」


 アルフレートは足を止め、瞬きを繰り返した。


「……猫?」


 あまりにも素っ頓狂な声色に、私は思わず首を傾げる。先ほどまではとても喜んでくれていたのに、まさか猫に限っては苦手なのだろうか。


「……なんか、心臓に悪い順番だったな」


 彼はまるで寿命を縮められたとでもいうように額を押さえ、しばし沈黙した。私は不安に思って見返す。新しい家族を迎えることに反対していないと知れて、私はとても嬉しかったのに。

 そして、私が子猫とアルフレートを交互に見つめた時だった。彼はきっぱりとした声で言った。


「いや、これは駄目だよ。僕らに世話ができると思う?」


 真顔でそう言い切るものだから、思わず目を丸くしてしまった。だけど彼は続けざまに指を折って理由を挙げていく。


「そもそもここは借りてる家なんだ。勝手に動物なんて飼ったら……」


「それなら大丈夫よ」


 私は慌てて遮った。


「この前ね、偶然貸主のご夫婦と道で出会って話をしたの。お二人は動物好きで、昔も犬や猫を飼っていたんですって。だから動物を迎えるのは大歓迎だって、笑顔でおっしゃってくださったのよ」


 得意げにそう告げたけれど、アルフレートは全く安心した様子を見せない。


「夜中に鳴かれたら? 家具は傷だらけだし、毛も服につく」


 次から次へと繰り出される心配の嵐に、私は唇を噛みしめた。


「お願い、私がぜんぶやるから。この子には行く場所がないの」


 小さな命がこの冷たい街の中で取り残される姿を想像しただけで、胸が痛んで耐えられなくなる。私は彼を真っすぐに見上げて、思わずすがりつくようにして言葉を重ねる。


「必ず守るって言ってくれたじゃない。あなたは何なら守ってくれるつもりだったのよ」


 自分でも意外なほど強い言葉が口をついて出た。部屋の空気が張り詰め、しばし互いに視線を逸らさずに睨み合うような形になる。


 その時だった。


 視線の端で何かふわふわとしたものが動いて、アルフレートの足に擦り寄った。気づけば子猫がちょこんとそばに腰を下ろし、満足げにゴロゴロと喉を鳴らしている。


 あまりに無防備な仕草に私は息を呑んで、アルフレートも驚いたようにその小さな命を見下ろした。眼差しがほんの一瞬、どうしようもなく柔らかくなる。だけどすぐに顔を逸らし、そっぽを向いて咳払いをする。

 その不自然な仕草を目にした瞬間、私の中で稲妻のような閃きが走った。


 ——この人、猫が好きなのだわ。


 勘違いする余地もない確信だった。必死に平静を装っているけれど子猫の小さな温もりに抗えず、嬉しさと戸惑いが混じったその表情を私は確かに捉えてしまったのだ。

 胸の奥でひそやかに笑みがこぼれる。アルフレートの頑なな理屈なんて、きっと長くは続かない。


「名前は何にする?」


 心配も緊張もどこかへ消えてしまって、私はつい軽い気持ちで問いかけた。

 すぐにアルフレートの視線が射抜くようにこちらへ向けられる。咎めるというより、呆れを帯びた目。私はそれを真正面から受け止めながら、けれどまったく怯む気持ちにはならなかった。


「エリザベート」


 彼の低い声に少しだけ眉尻が下がる。それでも私はくすりと笑って肩を竦めた。


「だってかわいいでしょう?」


 子猫のふわふわとした毛並みに視線を寄せながら、ふと思いついたことを口にした。


「ねえ、よく見たらあなたに似ていると思わない? ほら、前髪を分けているような。この額のあたりなんて」


 自分でも無理のある言い分だと思ったけれど、どうしても彼に認めてほしくて口が勝手に動いてしまう。すると案の定、アルフレートは小さく息を吐きながら首を振った。


「似てないよ」


 淡々と返されたその言葉を聞きながら、私は絨毯に腰を下ろした。今度はアルフレートの袖を取って軽く引っ張る。わずかに渋る気配を見せながらも、結局は私に引かれるままに彼も絨毯へ座った。


 ちょうどその時だった。子猫がとことこと歩み寄り、アルフレートの手にすり寄ったのだ。小さな声で「にゃあ」と鳴き、まるで選び取るように顔を上げて、まっすぐに彼の目を覗き込む。

 アルフレートはしばし無言のまま見つめ返し、やがて肩を落とすようにうなだれてしまった。


「……こんなふうにされたら、反対なんてできるわけがない」


 その言葉に、私は思わず両手を打ち合わせそうになるほど嬉しくなる。


「きっといい家族になれるわ。二人で大切に育てましょう」


 胸いっぱいの喜びを隠すことなく、私はそう言い切った。暖炉の炎の明かりが、彼の横顔と子猫の丸い瞳とを優しく照らしていた。




 それから自然に話題は子猫の名付けへと移っていった。小さな家族を迎えるのだから、呼びかけるその響きはやはり大切で、いい加減に決めてしまうのは惜しいように思える。暖炉の火が赤々と揺れる中、私は腕の中の子猫を見つめながら胸を張って提案した。


「せっかくだから、この子には立派な名前をつけたいわ。マクシミリアンとか」


 私の言葉にアルフレートは呆然とした顔で私を見つめ、それから小さく首を振った。


「長いよ」


 即座に返された答えに、私は少しむっとして唇を尖らせる。


「長いからいいのよ、威厳があるわ。だって、私のお祖父様のお名前なんですもの。陸軍の師団長だったのよ」


「なおさら駄目だろう。勝手に猫に拝借したら、お祖父様に叱られるに違いない」


 彼はそう言って手を伸ばすと、子猫の背をそっと指先で撫でる。


「それに、この子は毛玉みたいに転がっているだけだ。あまりに大層な名前を背負わせたら、きっと困惑するよ」


「それじゃあ、あなたは何か案があるの?」


 促すと、アルフレートは子猫をじっと見つめて考え込み、やがてぽつりと提案した。


「……ヴィンター。冬に拾われたから」


「そんなの普通すぎるわよ!」


 あまりにも素っ気ない響きに、私はすかさず声を上げてしまった。アルフレートは苦笑を浮かべて肩を落とし、再び考え込む。


「じゃあ……焼き色みたいだからトルテ」


「かわいいけれど、やっぱり普通すぎないかしら」


 私がまたも不満を口にすると、アルフレートは半ば投げやりに肩をすくめた。子猫はそんな大人げないやりとりにまったく頓着せず、ただ細い尻尾を気ままに揺らしている。


 私はせっかく拾った命なのだから、やはり特別な名前を授けたいのだと思った。名前というものはこれからの生をともにするものであるし、呼ぶたびにその存在を確かめるものだから。

 そう考えるほどに、平凡な響きで済ませたくないと胸の内で思う。けれど私が眉を寄せて考え込んでいると、アルフレートがふと何か思いついたように小さく呟いた。


「……トルテ・フォン・アプフェルクーヘン」


 あまりに唐突で、そして妙に長ったらしいその響きに、私は思わず呆れた声を出そうとした。


「長くなっているじゃない。そんな……」


 言い終える前に、子猫が「にゃあ」と一声。あまりに絶妙な間合いでの鳴き声に、私は思わず口をつぐんでしまった。


「……今、返事をした?」


「そんなはずないわ」


 アルフレートと顔を見合わせる。彼も驚いたように目を見開いていて、二人の間に妙な沈黙が流れた。偶然だとわかっていながらも、あまりに間の良すぎる鳴き声だったのだ。私は確かめるように改めて子猫を見つめた。


「ただの偶然よ。ね、マクシミリアン」


 けれど子猫は耳をぴくりと動かしただけで、今度は黙ったまま小さく丸まってしまう。横でアルフレートがもう一度、おそるおそる口にした。


「……トルテ・フォン・アプフェルクーヘン?」


 すると子猫は今度もまっすぐにこちらを見上げて、「にゃあ」と鳴いた。

 私は思わず息を呑み、アルフレートを振り返る。一瞬の沈黙ののち、アルフレートはとうとう声を上げて笑い出してしまった。肩を震わせ額を手で覆いながら、抑えきれないように。


「君が何と言おうと、この子はもう自分で名前を決めたみたいだよ」


 アルフレートの言葉に私は半ば呆れ、半ば感心してしまった。

 …… 姓に前置詞がつくということは、貴族なのかしら。アプフェルクーヘンなどという可愛らしい名前の家系が、果たしてこの世のどこに存在しているというのだろう。


 なんとも馬鹿げているけれど、目の前でこちらを見つめている小さな命は、どうやらすでにその響きをすっかり自分のものにしてしまったようだった。


「……あなたが気に入ったのなら、そう呼ぶわ」


 そう言って、私はそっと子猫を抱き上げる。小さな体は軽くて、温かくて、かすかにミルクの匂いがして、胸の奥がじんわりと満たされていくのを感じる。

 机の引き出しからお気に入りのチェック模様のリボンを取り出して、子猫の首に結んでやる。少し大きすぎるけれど、それもまた可愛らしくて思わず頬が緩む。リボンを整えながら、私は小さな声で囁いた。


「今日から私たちが、あなたの家族よ」


 その瞬間、子猫は私の手のひらに顔をすり寄せ、甘えるように喉を鳴らした。小さな振動が掌を通じて胸の奥まで伝わり、心が溶けるような感覚に包まれる。私は笑みを浮かべたまま、そっと視線をアルフレートに向ける。

 彼もまた、穏やかな表情でこちらを見つめていた。その瞳はいつになく柔らかく、私が抱きかかえる小さな命を通して、同じものを大切に思っているのだと告げていた。

 私は子猫——トルテ・フォン・アプフェルクーヘンをもう一度抱き寄せ、頬にそっと触れる。その柔らかさの奥に、これからの日々の幸せの予感を確かに感じ取っていた。

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