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この上もなく祝福された日々



後日談編はゆるい日常編です。作者が幸せになった二人を見たくて書いてるだけのお話なので、そのつもりでゆるっと読んでいただけるとありがたいです。



 アルフレートと暮らしはじめてから気づかされたことはいくつもあるけれど、その中でもいちばん衝撃だったのは、私の寝相がとても悪いということだった。

 自覚などこれまで一度もなく、むしろ眠っているときの自分など微動だにしないもののように考えていたのに、どうやら私は夢の中でも活動的らしく、隣で眠るアルフレートをしばしば巻き添えにしているらしい。


 ある朝、まだ部屋の中が夜の名残を引きずるような薄明のころ、隣で身じろぎしたアルフレートが半分眠ったままの声でつぶやいた。


「……エリザベートの夢の中では、僕はいつも悪役なんだろうな。殴られるたびにそう思うんだ」


 その声がいかにも真剣で、私は思わず上掛けを握りしめた。まさか、そんなことを思わせていたなんて。慌てて上体を起こし、まだ夢うつつの彼に向かって謝った。


「ごめんねアルフレート。そんなつもりはなかったの。本当に本当よ」


 すると彼は片目だけうっすらと開け、寝癖のついた髪を枕に散らしながら唇をゆるめた。


「……いいんだよ。君が何と戦っていようと、僕はその隣にいる」


 妙に真摯な調子で言うから、余計に心臓が落ち着かなくなる。けれど、彼の腕に残っているかもしれない痣を思うと笑って済ませられず、私は咄嗟に言葉をつなぎながら声を潜めて提案した。


「……でも、それなら……別々に眠ったほうがいいのかもしれないわ。あなたを傷つけたくはないもの」


 その瞬間、彼のまぶたがぱちりと開いた。ほんのさきほどまで夢の国をさまよっていたはずなのに、答えだけは驚くほどきっぱりしていた。


「それは嫌だ」


 ひとこと断言してから、彼は枕に顔を埋めるようにまた目を閉じてしまう。

 残された私は上掛けの上で拳を握りしめ、どうしてこんなに不意打ちばかり受けるのだろうと胸の内で呻いた。



 ◆



 午前の柔らかな陽が庭を照らし、風に乗ってどこからか焼きたてのパンの香りが漂い、近所の家からは子どもの笑い声がはねるように響いていた。


 私は庭先で籠から取り出したばかりのシャツを広げ、物干しにかけようと四苦八苦していた。風が吹き抜け、濡れた布地がばたばたと暴れ出す。それでもなんとか端をつかみ直し、すこし背伸びをしてロープに留めた。

 額にかかった髪を手の甲で払いつつ、胸の奥にひとつ小さな満足が芽生える。以前なら到底一人ではできなかったことだ。

 干したシャツが少し斜めでも、今日は確かに前より上手くできた。できることが増えるのは嬉しくて、舞台に立つ時と同じくらい心が弾む瞬間だった。


「あらまあ、ヴァイスさんとこの奥さんじゃない」


 声に振り向けば、籠を抱えた向かいの奥様が立っていた。優しげな笑みを浮かべ、腰に手を当てながら私の不器用な格闘を見守っている。


「お洗濯、もう一人でやれるようになったのね。前に旦那さんが手伝ってるのを見かけたから、つい気になっていたの」


 その言葉に思わず返事に詰まる。確かに、最初のころはアルフレートと並んで洗濯をしたものだ。でも正しく言うなら、私が手伝ってもらっていたのではなく、私がアルフレートの仕事を手伝っていたに近かった。

 あの人は家のことをなんでも自分でやろうとしてしまうから、私は毎回ついていって、袖をまくりながら「私にもやらせて」と言い張ったのだ。

 けれど喉まで出かかったその訂正を飲み込み、私はそっと微笑んでうなずいた。


「ええ、なんとか……やっと、ですけれど」


「それで充分よ。最初から上手な人なんていないんだから。私だって若いころは、絞ったはずのシーツから水がぽたぽた落ちて、よく笑われたものだわ」


 奥様は楽しげに笑いながら、籠からタオルを取り出してロープにかけている。二人で笑い合いながら、今日の天気や町の市の話題に花が咲く。


「旦那さん、道で会うと必ず帽子を取って挨拶してくださるのよ。律儀な方ねえ」


 その言葉に、思わず手にしたスカートを持ち直した。誇らしいような、照れくさいような思いがないまぜになって、視線を空へ逃がした。干しかけの布が風に揺れ、ぱたぱたと小さな音を立てる。


「……ええ。真面目すぎるところもあるくらいで」


 努めて軽く返したつもりだったが、声ににじんだ柔らかさは隠しようがなかった。私は物干しの上で皺を伸ばすふりをして、頬に浮かびかけた笑みを押し込めた。


「このあいだなんてね、うちの子が道ばたで転んだとき、すぐに駆け寄って抱き起こしてくださったの。泥だらけになりながら」


 奥様は、泥だらけ、というところを殊更に強調するように言って、楽しげに目を細めた。私はその言葉を聞いて、ふと先日のことを思い出す。

 帰宅したアルフレートの背広の裾に土がついていて、どうしたのかと尋ねても、笑ってかわされてしまった。結局理由は聞き出せず仕舞いだったけれど、今ようやく合点がいった。


「まあ……あの人らしいです」


「子どもがすっかり懐いちゃって、『またヴァイスさんに会いたい』なんて言うのよ。奥さん、羨ましいわ」


 あの人のそういう姿を、私だけじゃなく周りの人も見ているのだと思うと、不思議な誇らしさが湧き上がってきた。

 それに、奥さんと呼ばれるのはまだ少し慣れなくて、けれど妙に心を擽られる。頬に熱がのぼりそうになり、慌てて視線を洗濯籠に落とす。


 ——それから、奥様は「それじゃあ、またね。奥さん」と言って手を振り、隣家の扉をくぐっていった。去っていく背を見送りながら、私はほんの熱を帯びた頬を抑えた。




 その日の夕刻、私は書斎の机に向かっていた。白い紙の上に走らせた万年筆の先が小さな音を立て、オペレッタの台詞がひとつ、またひとつと形になっていく。

 ときおり手を止めては、窓の外の暮れかけた空に目をやり、登場人物の声を頭の中で聞いてみる。そんな穏やかな時間に、玄関の扉が開く音が響いた。


 反射的に椅子を引き、スカートを揺らして立ち上がる。胸の奥が高鳴るのを感じながら、急いで階段を降りていった。廊下に足音が吸い込まれ、扉の方へと駆け寄る。


「おかえりなさい」


 そう声をかけた瞬間、彼がこちらに顔を向けた。アルフレートは私を見つめた途端、なぜかにこにこと表情をゆるめた。

 それはいつもの微笑みではなく、あまりにも楽しげに笑うので、私はぽかんと立ち尽くしてしまった。


「……どうしたの、そんなに」


 問いかけても彼は答えず、上着を脱ぎながらまだ笑っている。いつもなら疲れを少し隠した穏やかな表情で帰ってくるのに、今日はどうにも機嫌が良すぎる。


「ねえ、何かあったの?」


 ようやく居間の椅子に腰を下ろした彼は、しばらく笑いを堪えるように唇を押さえていたが、結局こらえきれずに吹き出した。私の胸の内に焦れったさが募っていく。


「本当にどうしたの?」


 身を乗り出して問い詰めても、彼は首を横に振りながら笑みを抑え込もうとするばかり。けれど肩が揺れて、結局また声が漏れてしまう。


「駄目だ。思い出すとどうしても……」


 いたずらが見つかった子どものような言い草に、私は眉をひそめた。彼はわざと引き延ばして楽しんでいるのだと気づき、余計に胸がむず痒くなる。


「アルフレート、お願いだから早く教えてちょうだい」


 少し強めにそう言うと、彼はようやく観念したように息をつき、笑みを整えてからこちらに向き直った。


「……帰り道で、向かいの奥さんに会ったんだよ」


 ぽつりと落とされた言葉を聞いて、私は首をかしげた。それで、どうして彼はここまで笑っているのだろう。訝しげに彼の横顔をうかがっていると、アルフレートはまた楽しそうに口元を押さえながら、やがて言葉を続けた。


「そしたら、君のことを『奥さん』って呼ぶたびに、君が本当に嬉しそうな顔をしてたって。それを聞いたら、どうにも嬉しくて……」


 ……その一言に、思わず息が詰まった。頬が熱を帯び、言葉が喉に引っかかって出てこない。自分では必死に隠しているつもりだったのに、人の目にはあっさりと映っていたらしい。

 耐えきれず、私は小さく項垂れた。自分の内心を言い当てられただけでも居たたまれないのに、それをアルフレートが得意げに語るものだから、顔を上げることもできなくなる。


 それからというもの彼はやけに上機嫌で、ことあるごとに「奥さん」と私に呼びかけてきた。わざとらしく声に笑みを含ませて。

 夕食を食べるときも、書斎から顔をのぞかせたときもからかうように。私が「分かったからもうやめてよ」と何度言っても、彼はまるで聞こえないふりをして微笑むばかりだった。


 その日の夜、寝室の明かりを落としたあとでさえ、彼のご機嫌は途切れなかった。枕に頭を沈めた瞬間、横から伸びてきた腕が私を強く引き寄せる。まるで一日中でも抱きしめていたいとでもいうように、しつこいくらいに腕を回してくる。


「……アルフレート、眠れないわ」


 小さく抗議してみても、返ってくるのは低く笑う声だけだった。暗闇の中で彼の体温に包まれていると、恥ずかしさと心地よさがないまぜになって、どうにも身じろぎできない。息づかいまで近くて、耳元にかすかに触れるたび、胸が落ち着かなくなる。

 どうしてこんなにもご機嫌なのか。答えはわかっている。けれど素直に認めるのが悔しくて、私は目を閉じて眠ったふりをした。




 翌朝、薄いカーテンを透かして射す光が、ゆるやかに部屋の隅を白ませていた。私はまどろみのなかで身を返そうとしたのに、思ったように動けない。

 ふと目を開ければ、相変わらずアルフレートの腕がしっかりと私を捕らえていて、まるで守るように抱き込んでいる。

 どうりで上掛けを乱すこともなく、私が珍しくきちんと整った姿で眠っていたはずだ——ただ、物理的に動けなかったからにすぎないけれど。そう気づいた途端、堪えきれずに笑みが洩れてしまった。


 小さな吐息に彼が反応し、目をわずかに開いて私を見た。まだ眠りの残る瞳で、それでも何かを悟ったように口元を緩め、彼もまた笑った。

 笑いの意味を共有しているのが可笑しくて、私たちは二人して声を押し殺しながら笑い合った。朝の静けさのなかにその笑い声だけが溶けて、なんだかひどく贅沢な時間を過ごしている気がした。


「これはもう、僕が一生こうして抱えて寝るしかないな」


 低い声で囁かれた冗談に、私は思わず枕へ顔を伏せた。隠そうとしたのに耳まで熱がのぼるのを彼は気づいているのだろう、わざとらしく腕を締めてくる。

 その仕草がまた可笑しくて、私は結局、声をたてて笑わされる。笑って、笑って、目尻に涙までにじんできたころ、やっと呼吸を整えて彼の胸に額を預けた。触れた場所から伝わる体温がなんともいえず幸せで、胸いっぱいに沁みてくる。


 ——この家で初めて一緒に目を覚ました朝、あまりに幸福すぎて、このまま死んでしまうのではないかと本気で思った。あなたの手料理を食べたとき、今まで味わったどんなご馳走よりも美味しいと思った。「ただいま」と扉を開ければ、「おかえり」と愛しい人の声が返ってくる。


 思い返せば、そのひとつひとつが私にとってかけがえのない宝物で、過ぎ去る日々のなかで宝石のように輝きを増している。けれど今、こうして朝の光のなかで笑い合っているひとときこそ、そのすべてを凌ぐほどの幸福に思える。


 彼の腕はまだ私を囲んでいて、逃れようと思えば逃れられただろうけれど、そんな気持ちは欠片も浮かばなかった。むしろ、このまま時が止まればいいのにと、本気で願ってしまう。


 窓の外では小鳥がさえずり、遠くで人々の暮らしの気配が立ち上りはじめているけれど、この部屋だけは世界から切り離された、ふたりだけの小さな楽園だった。

 どれほど言葉を尽くしても、この幸せのすべてを語りきることはできない。だから私はただ、アルフレートの腕の中で目を閉じる。

 いつまでも、いつまでも。彼とこうして笑い合い、寄り添い続けたい。時が流れても、この想いだけは決して変わらないと、私は心の底から信じていた。

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