人生という唯一の舞台
やがて夜も更けると、ひとり、またひとりと席を立ち、名残惜しそうに手を振って帰っていった。
最後の客人を見送ったあと、家の中には温かな余韻だけが残っていた。賑やかな笑い声も、食器の触れ合う音ももう聞こえない。それでも耳の奥にはまだ、祝福の響きが揺れている。
「アルフレート、少し外に出ない?」
私はそっとアルフレートの手を取って告げた。まだ余韻の熱を帯びた家の中から、静けさの待つ裏庭へと彼を連れ出す。
月灯りに照らされたポーチに足を踏み出すと、夜の空気が頬を撫でた。
空を見上げると、群青に澄み渡る夜空いっぱいに星々が散らばり、まるで私たちのために輝きを増しているように見えた。遠くの森を抜けてくる風が髪を撫で、薔薇の香りをふわりと運んでくる。
私とアルフレートは並んで腰を下ろし、肩が自然に触れ合う。夜風が林檎の木の葉をさらさらと鳴らし、調べのように二人を包んでいた。
言葉を交わさずとも、互いの鼓動が確かにここにあるのを感じられる。
「本当に、今日は夢のような一日だったわ」
胸の奥に広がる幸福感に押されるように、私はうっとりとそう言葉をこぼした。
頬に残る温もり、指にまだ残っている花びらの感触、響き渡った鐘の音や人々の笑顔。ひとつひとつが鮮やかに心に刻まれていて、思い返すたび胸が締めつけられるほど幸せで——なんて素敵な一日だったのだろう、と深く噛みしめずにはいられなかった。
「僕もだよ。……本当に夢じゃないか、ちょっと頬を思いきりつねってみてくれる?」
アルフレートが隣で軽く笑って言った。その言葉にせっかく胸を満たしていた甘やかな余韻が、くすぐられて揺らいでしまう。
一瞬だけ、本当につねってしまおうかしら、と考えて伸ばした指先で彼の頬に触れかけた。しかしふっと我に返り、手を引っ込めて首を振る。
「結婚式の翌日に花婿の頬が腫れていたら、さっそく夫婦の危機だと思われてしまうわ」
おかしそうに笑うアルフレートの肩が揺れる。その笑みを見ているうちに、私の頬まで自然と熱を帯び、気を取り直すように言葉を継いだ。
「……だけど本当に、子どもの頃はこんな未来があるだなんて思わなかった」
林檎の葉が風に鳴り、月の光が庭を照らしている。私はその光景を見つめながら、ずっと胸に抱えてきた思いをそっと言葉に変えていった。
「思えば、入学式のあの日から私の人生は大きく変わったのよ。あなたの歓迎の挨拶、まだ覚えているの」
あの広い聖堂、張りつめた空気、まだ幼い私の胸を震わせた彼の声。忘れられるはずがない。
「生まれがどうであれ、人は自らの力で未来を選ぶことができる……って。まるで、私のために選ばれた言葉のように聞こえたの」
そう言うと、アルフレートは少し照れたように視線を落とした。
「……あれは実を言うと、教授に『代表だから何か立派なことを言え』って言われて必死になって考えた言葉なんだ」
彼の声はどこか申し訳なさそうで、けれど同時に温かな照れ笑いがにじんでいて、私は愛おしさに胸が満ちた。
「でも君がそう言うなら、たぶん僕は無意識に君のために書いたんだろうな。運命がそうさせたのかも。未来の奥さんのためにね」
月明かりを映した瞳にまっすぐ射抜かれて、頰が熱くなった。あまりに真面目な表情で告げられるから、私はその運命を信じてしまいそうになる。
「あなたは、私の人生をすっかり変えてしまったわ」
気づけばそんな言葉が口をついていた。少し大げさに響いたかしらと自分で思うのに、アルフレートは何のためらいもなく笑みを返す。
「それは僕の台詞だ、エリザベート。君と出会ってから、僕の人生はずいぶんと騒がしくなったよ」
アルフレートは肩を揺らし、少し困ったように笑う。
「それまでは本とインクに囲まれて大人しく過ごしてたのに、今じゃ君が笑って怒って泣いて、僕の心臓が休む暇もない」
「まあ、なによそれ」
少し驚いて返すと、彼は目を細めてこちらを見つめてきた。その眼差しは柔らかく、からかう気配などひとかけらもない。
「……でもね、その全部が嬉しいんだ」
彼の声が夜気に溶け込む。その一言に、笑って誤魔化そうとしていた私の心はあっという間に掴まれてしまった。
「だからこれからもずっとそばにいて、僕の平凡な人生を引っ掻き回してほしい」
まっすぐに差し出されたその想いを前にして、私は視線を逸らすことしかできなかった。熱を帯びた頬を手で覆い、夜の冷たい風を求めるように身じろぎする。
「……あなたって、真面目なんだかふざけているんだか分からないわ」
「僕はいつでも本気だよ、エリザベート」
真剣な声音に引き寄せられて、思わず見返す。その瞳に映る自分の姿を見つけた途端、鼓動が不意に乱れて息を呑む。
沈黙を埋めるように、私はふと話題を変えた。
「そういえばね、最近また新しい依頼があったの。この前の公演をご覧になった劇団の方が、ぜひ一緒にオペレッタを作りたいと」
アルフレートが少し目を見開く。その驚きの色はすぐにやわらぎ、代わりに誇らしさのような表情に変わった。
「これまでオペラを書いていた作家の方も、明るい筋書きを手がけてくださったのよ」
そう告げると、彼は息をつくように静かに言葉を重ねた。
「君の蒔いた種が、この国でも根を張っていくんだな」
その言葉を聞きながら、私は夜空を仰ぎ見た。深い群青の上に散りばめられた星々は、まるで新しい道しるべのようにきらめいている。
手を伸ばせば掬い取れそうに思えて、思わず指先を空へ差し出した。
「……そうだといいわ」
夜の静寂に溶け込むように囁く。胸に生まれるのは理想ではなく、揺るぎのない確信だった。
「種が芽吹いていつか花になるまで、私は歩みを止めない。きっと何もかもを変えてみせるの」
夜空を仰いだままそう言い切ると、星の光をすくうように開いた掌の中に、確かに未来が灯っているように感じられた。
そのとき、ふと視線の端に群青を裂いてひとすじの光が走った。瞬く間に消えてしまう、刹那の輝き。
「……流れ星!」
思わず声をあげて、私は手を胸の前で組み合わせる。
「お願いをしなくちゃ」
そう呟いて、次から次へと溢れる願いごとを口の中で唱えた。
——この国で、音楽や演劇がもっと自由に花開きますように。喜びや祝福が人々を結びますように。私の歌を聴く人の心が、ほんのひとときでも幸せでありますように。
「もう遅いんじゃないかな。願いごとは光が消える前に唱えないと」
隣で私を見つめていたアルフレートが、呆れたように笑って言った。けれど私は首を振って答える。
「いいの。きっと星はちゃんと聞いてくれるわ」
私はそう言って、胸の前で組んでいた手をそっと解いた。その指先を伸ばし、隣に座るアルフレートの手の上に重ねる。
彼の手は夜の空気に包まれて少し冷えていて、触れ合ったところからじんわりと冷たさが広がっていく。
「ねえ、あなたもお願いをして」
促すと、アルフレートは少しだけ夜空に目を向けた。群青の奥に散る星々を真剣に見つめるその横顔は、光に照らされた彫像のように静かだった。やがて彼は、深く息を吸い込んでから低く呟く。
「……僕の願いは一つでいい」
彼は私の方を見ず、ただ夜空に視線を置いたまま言葉を続けた。
「これからも君と生きること。それだけあればほかには何もいらない。僕は君のことを、ただずっと愛していたいんだ」
夜の静けさに溶け込むような声。それなのに、はっきりと胸に届くその響きに、私は思わず息を詰めた。
瞬きの間に視界がきらめきに満たされ、まるで目の前で星々が一斉に弾けたような心地がする。
「……もう一度流れ星が降ったら、私も同じ願い事をするわ」
そう囁いて、瞼をそっと閉じる。閉ざした視界にまだ残る星の光を思い描きながら、私は彼の肩へ身を預ける。
そのときふと、心の奥にひとつの思いが浮かびあがった。私はゆっくりと彼の方へ視線を戻し、微笑みながら続けた。
「……そういえば、私はもうローゼンハイネ嬢ではないのね。これからは依頼の手紙も、ヴァイス夫人の名で届くのかしら」
つぶやくと、アルフレートは短く息を呑むのがわかった。すぐに返事をするのかと思えば、彼はほんのわずか考え込むように目を伏せてしまう。
沈黙の中、月の光が彼の横顔を照らし出し、その耳朶がかすかに赤みを帯びていることに気づいた。
「……照れているの?」
小さな笑みを忍ばせて尋ねると、アルフレートは顔をそらしてしまった。視線を逸らすその仕草がかえって答えのようで、私はつい楽しくなってしまう。
そっと彼の腕に手を添え、少し身を寄せて囁く。
「そうよ、私はあなたの奥様なのよ」
その言葉に彼の肩がわずかに強張るのを感じ、さらにくすぐったい気持ちになった。
「ねえ、アルフレート。返事をしてくれる?」
少し意地悪く笑みを浮かべて促すと、アルフレートは観念したように肩を落とし、苦笑を浮かべて小さく呟いた。
「……分かったよ。降参だ。僕は君には敵わない」
不器用なその答えが、どうしようもなく愛おしかった。言葉の端々に滲む彼らしさが、胸にやわらかな灯をともす。
私はその気持ちに導かれるように彼の肩へと寄りかかり、頰にそっと唇を触れさせた。
ほんの一瞬の、羽のように軽い口づけ。けれど確かに伝わった温もりに胸が震え、微笑みがこぼれてしまった。
その刹那、アルフレートが目を丸くして私を見つめる。けれど驚きに揺れた瞳はすぐに柔らかさを取り戻し、次の瞬間には私の肩は抱き寄せられていた。
そして、ためらいもなく唇を重ねてくる。最初はそっと、けれどすぐに愛しさが堰を切ったように何度も、何度も。まるで確かめるように、離れてはまた触れ、触れてはまた求められる。
思わぬ情熱に頬が熱を帯び、私は抑えきれず笑い声を漏らしてしまった。
「ふふ……そんなに、何度も……」
唇を重ねながら笑うなんて不格好なのに、彼は少しも気にする様子もなく、むしろ愛おしそうにその笑みを受けとめてくれる。
「あのね、もういいのよ……」
笑いまじりに囁いた声は、夜風にさらわれてしまうほどか細くて、私自身の耳にさえ届いたのか心許なかった。
やっと彼の唇が離れる。私は幸せに溶けてしまいそうで、ほっと息を継ごうとした。けれどすぐに、私は呼吸をするより早く、心臓を掴まれたような熱に襲われる。
間近にあるアルフレートの瞳が、どこかいつもと違う色を宿している。深い森の奥に潜む炎のように、静かで、それでいて抗いようのない熱を秘めていて——思わず息を呑んだ。
「……アルフレート?」
震える声で名を呼んでも、彼は答えない。ただ真っすぐに見つめられる。その視線に絡め取られて、自分の心臓の音がいやに大きく響き、息すら整えられない。
「あの、なにか言って……」
縋るように口を開いた瞬間、彼の唇がふたたび重ねられた。けれど今度は、先ほどまでの甘いやさしさではない。深く、熱を帯び、抗えないほどの愛情がそのまま押し寄せてくる。
ようやく唇が離れたとき、私は息を詰めたまま彼を見上げた。夜の静寂を震わせるように、低い囁きが耳朶を打つ。
「……二階へ行かないか」
その言葉の意味を、私は理解できないほど幼くはない。けれど、即座に答えられるほど大人でもなかったらしい。頬がこれまでにないほど熱を帯びて、思わず彼の胸に手を当てて押しとどめる。
「ま、待って……」
途切れ途切れの声。触れた先から伝わる体温はあまりにも強くて、押しとどめているはずの私自身の方が揺さぶられてしまいそうだった。
アルフレートはその手に覆いかぶさるようにして、私の名を深く呼んだ。
「……エリザベート、僕はもう充分待ったんだ。図書館で出会って、君に一目惚れしたときから」
その告白は、夜空に落ちる流星よりも鮮烈に、私の心を貫いた。長い歳月のすべてを超えて、今日まで大切に育まれてきた想いが、この夜にすべてを語っている。
「愛してるよ。もう、ずっと前からね」
彼の手がそっと私の手を取った。温もりに導かれるように立ち上がると、視線が自然に絡み合う。
星明りを映した瞳があまりにも優しくて、そこに宿る確かな愛を直視するのが怖いくらいだった。
指先が優しく絡め取られ、手を引かれた。一歩、また一歩と木の床を踏みしめて歩き出し、きしむ音が静かな夜に溶けていく。背後にはまだ星の瞬きが広がっているのに、私の視線は彼の背中から離れなかった。
……図書館での出会いから今日この夜に至るまで、アルフレートが抱き続けてくれた想い。
時の流れにも、どんな困難にも揺らがなかったその愛は、これから先も変わらずに私を包んでくれるのだろう。
そして私もまた、同じ想いを胸に抱いている。決して終わることのない愛を、この心に抱きしめ続ける。
長い日々、遠回りも、迷いも、涙も、すべて乗り越えて、ようやく手にしたかけがえのないものを、もう決して手放すことはない。
——人生という永い、永い唯一の舞台の、幕が降りるその瞬間まで。
ご覧いただきありがとうございます。次回エピローグです。




