星をまとう日
夏の始まりを告げる風が、開け放たれた窓から入り込んでくる。外の庭には純白の百合が咲きそろい、陽の光を受けてきらきらと輝いていた。
屋敷の一室には母が手配してくれた老舗の仕立て屋が訪れ、空気は一気に華やかになった。
机の上には百合の花と同じ色の光沢のある布地や、繊細なレースのサンプルが広げられ、まるで白い花畑の中にいるような気持ちになる。
——挙式は、秋に執り行うことに決まった。
母は最初、持参品としてあらゆるものを誂えてくれようとした。四季の折々に合わせたドレスに、夜会服に負けない光沢の下着。手袋や靴、さらには扇や香水といった装飾品の一式。
けれど私は首を横に振った。貴族の令嬢らしくするよりも、アルフレートの隣に立つのにふさわしい花嫁でありたい。彼の暮らしに寄り添えるような、等身大の自分でありたかった。
私のその言葉を聞いて母はしばし黙していたけれど、やがて小さく頷いた。せめて仕来りとしてこれだけは、と残されたのが、ベッドリネンとウェディングドレスだった。
リネンは新しい家庭に幸せと繁栄をもたらす象徴として、必ず持参するべきもの。ウェディングドレスは娘を送り出す母の最後の務めとして。
「お嬢様のご希望を伺いたいのですが」
仕立て屋の女主人が、優雅な笑みとともにスケッチを並べてくれる。描かれているのは花嫁衣裳の数々。
長いトレーンを引く気品あるドレス、胸元に花々の刺繍が散りばめられたもの、肩に透きとおる布が流れるようにかかったもの……。
私は言葉に詰まってしまった。どれもただ見ているだけで眩しい。けれど、どれを自分が着るべきなのかはさっぱり分からない。
「すっきりとしたシルエットも素敵ですし、流行りの長いトレーンもございますよ。近頃は刺繍を贅沢に施したものも人気でございます」
さらに部屋に運び込まれたのは、いくつかの既製のドレス。トルソーに掛けられた白い衣が並ぶと、一瞬で室内が小さな礼拝堂のようになった。
光沢のある絹が陽光を受けて輝き、レースが風に揺れる。けれど問題はその先だった。どれもこれも夢のように美しく、目を奪われてとても選べないのだ。
母も仕立て屋も意見をくれるけれど、結局「お嬢様のお好みで」というところに落ち着いてしまう。私はお好みどころか、自分がどのような姿で式に臨みたいのかさえ掴めずにいた。
気づけば机の上には次々と布が広げられ、部屋いっぱいに雪原のような光景が広がっていた。さらさらと光を反射する白いシルク、繊細な花模様の淡いレース、ふわりと軽やかなオーガンジー。
どれも手を触れるたびに美しく、ああでもないこうでもないと迷っているうちに、頭の中まで真っ白になってしまう。
私はついに椅子に腰を下ろし、途方に暮れた。
——このままでは、秋の挙式までに決まらないのではないかしら。
そこで次の休日、私は半ば強引にアルフレートを呼び出した。案内されて部屋に足を踏み入れた彼の姿を見て、私は開口に一番深刻な顔で切り出す。
「ねえ、どれがいいと思う?」
私は右手でデザインスケッチと生地見本の束を差し出し、左手でトルソーのドレスを指し示した。
彼は真剣な眼差しであれこれ眺め、トルソーのドレスの裾をつまんだり、生地に指先を滑らせたりしている。私は息を呑んで答えを待った。
……けれど、やがて彼はこう口にした。
「どれも素敵だと思うよ」
私は思わずテーブルに突っ伏した。額が布に沈み込み、ひんやりとした絹の感触がやけに現実的だった。
それが一番困るのよ。今の私は、一つに絞らなければならないのに。
「……あなた、本当にそう思ってる?」
疑うような声音で尋ねると、アルフレートは眉を下げて困ったように笑った。
「うん。何を着ても、僕の花嫁は綺麗だから」
その一言で私はさらに迷走の深みに落ちる。普段なら喜んでいたかもしれないけれど、今はますます頭を抱えてしまう。
「じゃあ、たとえばこれは?」
私は息をつくようにデザイン画を手に取った。机の端に置かれていた一枚は、流れるようなトレーンを引くクラシカルなドレスのスケッチだった。
「気品があって、君の立ち姿の優雅さに合ってる」
アルフレートは絵を覗き込み、ためらいなく答えた。何の迷いもなく言うものだから、私は次の紙に手を伸ばしてしまう。
「じゃあこっちは?」
今度は肩に薄い布をかけた、柔らかな雰囲気のデザインを指差す。
「優しい感じで君らしいと思うよ。春の朝みたいで癒やされるんじゃないかな」
「……じゃあ、この胸元に刺繍があるのは?」
「繊細で華やかだ。君の可憐さを引き立てると思う」
「……余計に決められなくなったわ!」
答えが返ってくるたび私の迷いは深まるばかりだった。思わず悲鳴のような声をあげると、母が深々と溜め息をつく。
「ほらご覧なさい、エリザベート。婿殿に尋ねたって役には立ちませんよ」
アルフレートは「えっ」と短く声を上げたが、確かにその通りだと思ったのか、それ以上は何も言わなかった。
私はといえばすっかり迷走の渦中に取り込まれて、白い布の海に立ち尽くしてしまう。
そんな様子を見かねたのか、仕立て屋の女主人が優雅に姿勢を正し、ふっと微笑みながら言葉を投げかけてくれた。
「……もしお決めになれないようでしたら、装飾品に合わせてデザインを考えるというのも、一つの方法でございますよ」
声色に私ははっと息を呑んだ。
装飾品——そう言われて、胸の奥にふいに浮かび上がるものがある。
母が嫁入りの折に誂えたという、星の形の髪飾りと首飾り。五芒星を二つ重ね合わせた意匠は、夜空の輝きをそのまま封じ込めたように煌めき、幼い頃の私はあれに憧れて仕方がなかった。
母が鏡台の引き出しから取り出すたび、私は息を呑んで見惚れた。
こっそり鏡の前で身につけたこともある。もちろんばれないようにそっと戻したけれど、その胸の高鳴りは今でも鮮やかに覚えている。
——あの星。
私は思わず胸の奥で呟いた。もしも、あの飾りをもう一度身につけられるなら。
「……お母様」
気づけば口にしていた。母がこちらを見やり、優しいまなざしを向けてくる。その瞳に背を押されるように、私は思い切って口を開いた。
「お母様がお嫁にいらしたときに誂えられた星の飾り……髪飾りと首飾りの、あの星を身につけさせていただけませんか?」
言葉を紡ぐと同時に胸の奥がきゅっと熱くなる。幼い日の憧れを、そのままのかたちで口に出すことになるとは思わなかった。
母は少し驚いたように瞬きをした。それから思案するようにゆっくり首を傾げる。
「……あれを? でも、もうずいぶん古いものよ。今の流行りとは違いますし、石も少しくすんでいるでしょう」
「私はあれがいいんです」
私は少し熱を帯びた声で言った。幼いころからずっと憧れてきたこと。こっそり手に取って、鏡の前で胸を高鳴らせた日のこと。それらが一斉に蘇って、声に力を与えてくれる。
「あの星が一番きれいに思えるんです。小さな頃からずっと憧れていたの」
母はしばらく黙って私を見つめていた。けれどやがて小さく息をつき、目元を和らげた。
「……そんなに言うのなら、よろしいわ。あの星の飾りは、あなたに譲りましょう」
侍女が奥から持ってきたのは、深い群青色のベルベットに包まれた化粧箱だった。蓋を開けると光を浴びて、あの星の飾りが静かに瞬いく。私は息を呑み、そっと指先で触れる。石の冷たさに胸が熱くなる。
仕立て屋の女主人は飾りを興味深そうに眺め、やがて微笑んだ。
「素敵なお品でございます。これを基に、花嫁衣裳を仕立ててみましょう」
数日後、女主人が再び屋敷を訪れた。白い手袋に包まれた手で丁寧に革張りのトランクを開くと、机の上に新しいデザイン画が並べられる。
私は思わず息を呑んだ。そこに描かれていたのは、いずれもあの星の飾りを意匠の中心に据えたドレスたち。
胸元や裾、あるいはベールの縁に、夜空から切り取ったような星々のきらめきが散りばめられている。
その中で、一つのデザインがひときわ私の目を惹いた。
広く開いた襟ぐりと柔らかなパフスリーブ。身頃にはまるで夜空を縫いとめたような繊細な刺繍が走り、星々と小さな蔓草が絡み合うように広がっている。
胸から腰にかけてきらめきが舞い降り、その下に大きく広がるスカートは幾重ものチュールが重ねられ、淡い光を含んだ雲のように軽やかだった。
背後には長く引くラッフルトレーン。幾重にも折り重なった布が流れるように連なり、まるで星明りを受けた小川がそのまま形になったように優雅で、しかし可憐さも添えていた。
さらにカテドラルベールには同じ星と蔓模様の刺繍があしらわれ、床いっぱいに広がる白の上にきらめきが降り注いでいる。
「……これがいいわ」
私は胸の奥から込み上げるものを抑えられず、思わずデザイン画にそっと手を伸ばした。仕立て屋の女主人も、深い頷きとともに言葉を添える。
「これはまさしく、お嬢様にふさわしい一着でございます」
仕立て屋は布地の束の中から白いシルクを取り出し、窓辺に広げて光を当てて見せてくれる。
陽光を受けて輝く白は、ただ白いだけではなかった。淡く金を含んだような温もりのある光沢が広がり、そこに重ねるレースやチュールが柔らかな影を作る。
幾重にも折り重なった布が、たしかにあの絵の中のドレスに姿を変えていく未来を思わせた。
窓辺で布地を広げる仕立て屋の手元からふと視線を上げると、外の庭に咲きそろった百合の花が目に入った。
夏の風が吹き抜けるたび白い花びらが揺れ、光を反射してきらきらと瞬いている。
私は無意識のうちに、そこに幼い自分の姿を重ねていた。まだ丈の合わないドレスの裾をからげて、花の間を夢中で駆け回っていた子ども時代の私。
遊び疲れて座り込むと、ふと目に留まるのは、母のドレッサーの上に据えられた星の飾りだった。
どうしても手にしてみたくて、誰にも見つからないように背伸びして掴み取ったあの日。鏡の前でそっと髪に差し込み、首に飾りをかけた瞬間、幼い私は胸の奥から熱くなるような憧れを抱いた。
——この星の輝きを纏って、大人になった私がどこか遠くへ行ける日が来る。漠然とそう夢見たことを、今、ありありと思い出す。
百合の花の揺らぎの向こうから、その時の私が顔をのぞかせているような気がした。
大きな瞳を輝かせて、少し背伸びをした小さな私が、今の私を見上げている。
そして唇を綻ばせ、声にならない声で囁いた。
——夢が叶ったね。
胸が詰まり、思わず手を胸に当てた。
そうだわ。憧れはただの幻想ではなく、こうして形になるのだ。
幼い日の私が抱いた願いは、母の手と、仕立て屋の技と、そして未来を共に歩むアルフレートの存在によって、現実のものとなろうとしている。
白い布の海の真ん中で、私はそっと瞼を閉じた。揺れる百合の花と、過ぎ去った日々の自分と、これから歩んでいく未来の自分とが、一筋の光で結ばれていくように思えた。




