私たちの夢の家
初夏の陽気は人を浮き立たせる。休日の昼下がり、私たちは街角のカフェの窓際に腰掛け、柔らかな日差しを浴びながら昼食を楽しんでいた。
白いクロスの上には湯気を立てるスープ皿と、焼きたてのパンの籠。そして大きく広げられた新聞。そこに印刷された貸家の欄が、今の私たちの話題を占めていた。
「……私ね、憧れているお家があるのよ。子どもの頃に小説で読んだの。薔薇のアーチの門扉をくぐると、小さな道が玄関へ続いていて……その道の両脇には季節ごとに色とりどりの花が咲くの」
夢見るように語る私に、アルフレートはパンをちぎりながら平然と答えた。
「うん、手入れが大変そうだね」
夢に水を差された私は思わずスプーンを握りしめる。しかし彼はまるで悪気なく、のんびりした調子で続けた。
「庭は世話が追いつく程度がいいよ。収納が多い家だと助かるな。物も増えるだろうし、服も……君の分で山のようにね」
彼の返答に私はついため息をつく。薔薇のアーチと収納、どうしてこんなに温度差があるのだろう。
「……私が憧れているのはロマンに満ちた可愛い家なのに、どうしてそんなに夢のないことを言うのよ」
「だって現実に住むんだから」
言い返せない。悔しいけれど確かにアルフレートの言うとおりだった。しかしこのまま引き下がるのも私らしくない。
「……庭のことはさておき、内装も大事よ。壁紙は小さな花模様で、窓には真っ白なレースのカーテン。陽の光が柔らかく差し込んで、風が吹くと揺れるの」
語りながら、すでに頭の中では理想の光景が完成していた。木のぬくもりが感じられる床と、光を受けて淡く輝く小花柄の壁紙。小鳥のさえずりが聞こえる窓辺と、ガラス越しに咲き誇る花。
「レースのカーテンか……埃がたまりやすそうだな」
「夢のある話にすぐ現実を持ち込まないで」
きっぱりと言い切るけれど、そんな私を彼は穏やかな目で眺め、楽しげに笑った。
けれど実際のところ、ここしばらく家探しを続けているけれど、なかなか理想の家には巡り合えていないのだ。
ある日のこと。街の貸家を見に行ったら、玄関の天井が低すぎてアルフレートが入った瞬間に頭をぶつけた。案内人が「慣れれば大丈夫です」と言ったのを聞いて、私は笑うしかなかった。
別の日に見た家は素敵な大きな窓があったけれど、窓からの眺めが隣家の物干し場。せっかくの光景が洗濯物では夢も台無しだった。
さらにもう一軒。壁紙が派手な赤と金の縞模様で、私が「少し落ち着かないかもしれないわね」と呟くと、アルフレートが「ここで暮らしたら三日で頭痛になりそうだ」と冷静に断言して、すぐに引き上げた。
「思ったより、家を探すのって大変なのね……」
私は小さくため息をつき、スプーンをスープに沈めた。
「そうだね。でも、こうして一緒に探すのは悪くないよ」
アルフレートは新聞を折りたたみ、穏やかに微笑んだ。その言葉に私は確かにと納得する。
理想と現実的の間を行ったり来たりするやり取りは少し悔しいけれど、こうして一緒に過ごす時間は心地よくて楽しい。
「……そうね。頭をぶつけるあなたを見て笑ったのも、いい思い出だもの」
「まだ忘れてなかったのか」
苦笑する彼の顔を見ながら、私はくすくすと笑い声を漏らした。
カフェを出ると、午後の日差しが街並みにやさしく降り注いでいた。
アルフレートの隣を歩きながら、私は用意してきた地図を広げる。文化省に通いやすい場所を中心に、いくつか候補を印をつけてきたのだ。落ち着いた住宅街が広がっていると聞いたから、以前から目をつけていた場所だった。
赤いインクで点在する小さな印を指でなぞると、彼は身を寄せて覗き込み、ふっと口元をゆるめた。
「市場が近いと便利だよ。毎日の食卓にも影響するし」
そんなことまで考えているなんて。私は感心しながら地図の上に目を戻した。確かに夢のような家を求めるのも素敵だけれど、生活のことを思えば現実的な条件も大事なのだろう。
印をたどりながら、私たちは並んで住宅街を歩いた。石畳の通りには低い柵に囲まれた庭付きの家々が並んでいる。どの家も窓辺に鉢植えを飾っていたり、玄関先に可愛らしい飾り棚が置いてあったりして、眺めているだけでも心が弾む。
けれど、貸家の看板がかかっている家を見つけて近づいてみても、実際に条件が合うものは少なかった。
一つ目の家は、立派すぎるほどの門構えと広大な庭。素敵ではあるけれど二人で暮らすにはあまりに大きすぎて、玄関を眺めながら私は小さく首を振った。
次に見つけた家は外観がまるでおとぎ話の挿絵のようで、思わず胸をときめかせた。けれど門扉の蝶番は風を受けてぎいぎいと鳴り、よく見れば窓枠も歪んでいた。
アルフレートが「歴史を感じる趣のある家だ」とつぶやき、私はそっとため息を飲み込んだ。
さらに歩みを進めても、どの家もどこかしら条件に合わなかった。胸を膨らませて訪ねては肩を落とし、また次へ、と繰り返しているうちに、いつしか夕暮れが街を包み始めていた。茜色に染まった屋根と、傾いた影の長さが時間の流れを告げる。
「まだ時間はあるよ」
アルフレートはそう言って、落ち込みそうになる私をやさしく励ましてくれる。
けれど心の奥に、どうしても小さな不安が芽生えてしまう。——本当に見つかるのかしら。理想を追いかけてばかりでは、結局どこにも辿り着けないのではないか、と。
そんな考えに囚われかけた、その時だった。
ふと、私の目が路地の奥に吸い寄せられる。
夕日の中、影に包まれた鉄の門。その上に絡みつくように弧を描く枝。
——薔薇のアーチ。
ほんの一瞬の幻かと思った。けれど目を凝らすと、そこには確かに淡い紅色のつぼみが連なり、夕暮れの風に揺れていた。
心臓がどきりと高鳴る。
「アルフレート……」
呼ぶ声は自然と震えていた。私の視線を追った彼が、路地の向こうに目を向ける。その瞬間、私の胸の中には小さな期待と、大きなときめきが一緒に芽生えていた。
路地を進むと、そこに現れたのは夢の中から抜け出してきたような家だった。薔薇のアーチの先には、石畳の小道が玄関へと続いている。
小道の両脇には色とりどりの花が咲き乱れ、風にそよいで柔らかく香りを放っていた。淡い黄色のフリージア、桃色のカーネーション、白いマーガレット……季節ごとに違う花が彩りを添えるに違いない、と一目で分かった。
家そのものも、まるで「可愛らしい」という言葉をそのまま形にしたようだった。窓は大きく、玄関扉にはさりげない装飾が施されている。まさに私が小説の中で憧れていた心温まる家。
そして門柱には——「貸家」の小さな木札がかかっていた。
私は思わず胸に手を当てる。これは偶然なんかじゃない。きっと運命。そうとしか思えなかった。
アルフレートを振り返ると、彼は少し呆れたように、それでいて優しい笑みを浮かべていた。
「君が喜ぶだろうとは思ったよ」
——そして翌日。
私たちはその家の持ち主を訪ねた。迎えてくれたのは、上品な老夫婦だった。背筋をすっと伸ばしたご主人と、柔らかに笑む奥様。二人とも落ち着いた物腰で、初めて会った私たちを温かく迎えてくれた。
「実はね、娘たちと一緒に暮らすことになったのですよ。それで、この家を貸し出すことにしました」
奥様が穏やかに言葉を継ぐ。
「若いお二人が住んでくださるのなら、それはとても嬉しいことですわ」
そう言ってお二人は家の中を案内してくださった。
玄関をくぐった瞬間、胸が高鳴る。
壁紙は淡い花柄。まるで庭の花々がそのまま部屋の中に咲き誇ったかのよう。廊下は清潔に磨かれていて、木の香りが心を落ち着かせる。
居間に足を踏み入れると、真っ先に目に飛び込んできたのは暖炉だった。壁際にしっかりと据えられたそれは決して大きくはないけれど、冬の長いこの土地ではなにより心強い。冬の夜にここで一緒に本を読みながら過ごす情景が鮮やかに目に浮かんだ。
台所に移ると、アルフレートの表情が目に見えて明るくなった。そこは想像以上に広々としていて、窓から光がたっぷりと差し込んでいる。
彼は真剣に調理台や棚の位置を確かめ、何度もうなずいている。あのいつも冷静な彼が、まるで子供のようにわずかに目を輝かせているのを見て私まで嬉しくなった。
そして廊下の先には、愛らしい曲線を描く階段があった。手すりは滑らかで、ところどころに細やかな彫刻が施されている。
「まあ……!」
思わず声が漏れた。なんて可愛らしいのだろう。少女の頃に読んだ物語の屋敷の階段が今目の前に現れたようで、胸が高鳴って仕方ない。
二階には四つの部屋が並んでいた。南側の大きな部屋は寝室にぴったりで、窓からは薔薇のアーチがよく見える。残りの三つを見て、私は自然と振り分けを考えた。
「ここをアルフレートの書斎にして……あちらは私の書斎に……」
そうして数えていくと、ひとつ余る部屋があった。私は首をかしげながら呟く。
「あと一部屋はどうしましょうね」
すると、横にいた奥様が柔らかく微笑んで言った。
「お子さまのお部屋になりますわ」
その言葉に、私は思わず息を呑む。可能性を考えたことがなかったわけではないけれど、こうして具体的に示されるとなんだかくすぐったいような気持ちになる。
まだ実感は遠く、想像も追いつかない。けれど確かに、いつかそんな日が来るのかもしれない。
そして、この家で私がいちばん心惹かれたのは裏庭だった。
台所から続く扉を抜けると小さなポーチがあって、その先から揺れる草の香りが漂ってくる。
ポーチに腰を下ろせば、素晴らしい午後のひとときを過ごすことができるだろう。花が咲き乱れる季節には、ここで紅茶を淹れて過ごしたい。
けれど、それ以上に私の目を奪ったのは庭の奥に立つ一本の木だった。立派な幹から枝を広げ、無数の白い花を咲かせている。淡い陽光を透かすその花びらは儚げで愛らしく、庭全体を華やかにしていた。
「こちらは林檎の木でしてな」
ご主人が笑みを浮かべて説明してくださった。
「秋になれば実がつきます。長年この木を眺めてきましたが、花も実もどちらも飽きることがありません」
「まあ、林檎の木だなんて」
私の心は一気に子供のように躍り出す。
「実がなったら、私が登って採りたいわ」
「……エリザベート」
横から冷静な声が降ってきた。アルフレートがいかにも困ったような眉を下げている。
「いや、それは危ないから……僕がやるよ」
「大丈夫。木登りは得意なの」
私は胸を張って笑った。幼い頃、屋敷の庭の木に登って叱られていた記憶が鮮やかに蘇る。枝を掴んでひょいひょいと登るあの爽快感——忘れられるはずがない。
アルフレートは呆れたようにため息をついたが、ご夫妻は「若い方は元気でいいことですな」と微笑ましげに頷いてくださった。
私はもう一度林檎の木を見上げる。この裏庭に立った瞬間、私はすでに決めていた。——この家がいい、と。
——数日後、私たちは正式に契約を済ませた。二人で住み始めるのは数か月先だけれど、待ちきれない私の気持ちは抑えられず、先に借りておいて少しずつ家具を運び入れることにしたのだ。
扉を開けるたびに、あの家が少しずつ「私たちの家」へと変わっていく。その過程を思うだけで胸がふくらんだ。
帰り道、夕暮れで淡い薔薇色に染まった石畳を並んで歩きながら、私はふと口を開いた。
「ねえ、アルフレート。屋敷の物置に、お祖母様がお使いになっていた家具があるの。少し古いけれど、とても素敵なのよ。あの家の雰囲気にもきっと合うと思うの。……置いてもいいかしら?」
夕暮れの光が彼の横顔を照らす。アルフレートは歩みを崩さず、ゆったりと答えた。
「君の好きにしたらいいよ。どうせ断っても持ち込むつもりだろうし」
私は笑って肩をすくめる。図星だった。けれどその次に返ってきた言葉は、意外なほどやさしいものだった。
「……どんどん可愛らしい家になっていくな。壁紙もカーテンも家具も、きっと気づけばすっかりエリザベートの夢の家だ」
胸の奥がじんわりと温かくなる。子どもの頃に夢中で読んだ小説——薔薇のアーチをくぐったその先にある、小さな可愛らしい家。子どもの頃から幾度となく思い描いてきた憧れの光景が、今現実のかたちをとろうとしている。
だけど本当のことを言えば……アルフレートにはまだ話していないけれど、私がいちばん憧れていたのは、花の咲く小道でも花模様の壁紙でもなかった。
……私が本当に夢見ていたのは、主人公とその家族たちの、穏やかであたたかい時間だった。笑い声がこぼれ、互いを思いやりながら日々を重ねていく、そのささやかな暮らし。少女の頃の私にとって、それこそが何よりも輝いて見えたのだ。
だから私は思う。白い花を咲かせる林檎の木、ぽかぽかと陽射しを浴びる裏庭のポーチ。どれも胸をときめかせるけれど——私の夢を本当に形にしてくれるのは、そこに寄り添って笑ってくれる人の存在だと。
「アルフレート。あなたがいてこそ、あの家は私の夢の家になるのよ」
私はそっと自分の指を伸ばし、彼の手を探す。その温もりが返ってきた瞬間、心の奥底に沈んでいた幼い日の寂しさがようやく癒されていくような気がした。
ふと見上げると、西の空が茜から群青へと移ろい、最初の星が瞬いていた。私はその光をそっとなぞるように見つめ、小さくつぶやいた。
「夢に描いた家で、ずっとあなたと笑い合って暮らしていたいの」




