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花嫁修行は苦難の道

「そういえば……あなたたちのところでは、奥様が家事をなさるのよね?」


 紅茶の湯気が立ちのぼる応接間で、私はアルフレートに向かってふとそんなことを口にしていた。クララとアルフレートと三人で向かい合い、窓から差し込む午後の日差しが白布のテーブルクロスをやさしく照らしている。

 自分でもなぜ不意にそんな質問が浮かんだのか分からなかった。けれど、さきほどゆりかごの中の小さなリーゼルを見てからというもの、どうしても“家庭”という言葉が頭に浮かんで離れなかったのだ。


「うん……まあ、一般的にはそうかもね」


 アルフレートは一瞬だけ驚いたように目を瞬かせ、首を傾げながら答えた。

 私は少し怪訝に思う。てっきりそういうものだと返されると思っていたのに、どこか含みをもたせたような声音だったから。


「あら。アルフレートのお宅では、そのようなことはなかったのでしょうか?」


 クララも同じように思ったらしく、ティーカップをソーサーに置いて小首をかしげた。私も言葉につられてうなずく。


「叔父に育てられたからね。ずっと男所帯だったし、官舎でも一人住まいだ。炊事も洗濯も掃除も、必要なら自分でやってきたよ」


 アルフレートは平然とそう言った。その一言に私は思わず手にしたカップを傾けるのを忘れ、固まってしまう。

 なんというか、あまりにもあっさりと言ってのけるものだから。まるで朝の支度を語るくらいの気軽さに聞こえた。

 料理も、洗濯も、掃除も。……それらは、私が一度としてまともにやったことのないことばかりだった。

 胸の奥に小さな不安が広がっていく。これから共に暮らすのに、私は家事というものを何ひとつ知らない。


「……どうしよう。私はやったことがないのよ」


 声が自然と不安げにこぼれていた。するとクララがぱちりと瞬きをして、すぐに興味深そうな顔を向けてくる。


「まあ、でもエリザベート。あなたは留学をしていらしたでしょう? その間はどうなさっていたの?」


 クララの仕草は優雅そのもので、言葉も柔らかかった。けれど私にとっては痛いところを突かれた気がして、思わず視線を泳がせる。


「それが……」


 しぶしぶ答えながらも、記憶がよみがえっていく。


「あちらの料理はすごく美味しくて、お店でばかり食べていたの」


 思い返せば通りに並ぶ食堂もカフェも、どこに入っても香ばしい匂いに包まれて、つい足を止めてしまった。異国の風味に舌鼓を打つたび、自分で鍋を振るう気持ちはすっかり薄れてしまったのだ。


「お洗濯は……洗濯屋にお願いして」


 それもまた当たり前のようにそうしていた。ドレスやシーツがきれいに仕上がって戻ってくるたび、便利な世の中だと感心したものだったけれど——今思えば、それは私が何ひとつ覚えようとしなかった証拠でもある。


「でもお掃除は自分でやっていたのよ」


 せめて、と言うように私は小さな声で続ける。アパルトマンの一室を箒を持って隅から隅まで。床板のきしみや窓から射す午後の光、外の通りのざわめき——いろんなことを思い出す。

 私の話にアルフレートは少し目を丸くしたあと、くすりと笑った。


「家事のことは気にしなくていい。僕は慣れてるし——」


「……いいえ」


 彼の言葉を遮るように、私は身を乗り出していた。


「あなたは仕事があるでしょう? 毎日書類に追われているって言っていたじゃない。そんなあなたに家のことまで任せるなんてできないわ」


 言葉に力を込めながら私は続ける。


「私は依頼がない限りは身軽だもの。だからきっと私がやるべきだわ。今は苦手でも、覚えればいいのよ」


 そう言い切ったものの、胸の奥は不安でいっぱいだった。だけどここで退いたら、きっと私は一生なにもできないままになってしまう。そんな恐れが背中を押していた。

 アルフレートは一瞬口を閉ざして私をじっと見つめ、それから小さく息を吐いた。


「……本当に無理をしなくていいんだよ。僕はそう思ってる」


 その声音は優しくて真摯で心を揺らす。けれどいまの私は止まらなかった。


「無理なんてしてないわ。あなたと一緒になるのだから、せめてそのくらいはできるようになりたい」


 自分でも驚くほど真剣に言葉が口をついて出ていた。そんな私たちのやりとりをクララは紅茶を口にしながら見守っていたが、やがてぽんと両手を打ち合わせ、楽しげに声を上げた。


「まあ、なんて素敵なことかしら。エリザベートの花嫁修業……ぜひわたくしにも手伝わせてくださいませ」


「クララ?」


 思わず声が裏返る。


「わたくしも家事は一度もしたことがございませんの。けれど、親友の門出に役立てるとなれば——こんなに面白いことはありませんわ」


 目を輝かせて宣言するクララに、私は言葉を失った。助け舟を出してくれるどころか、彼女自身が楽しげに乗り込んでこようとしているのだから。


「さあ、早速始めましょう」


 話は驚くほどの速さで進んでしまった。彼女は勢いよく椅子を立ち、まるで子供の遊びにでも誘うような軽やかさで私の手を引いた。

 そのまま屋敷の奥——台所へ。磨き込まれた石床に銅鍋やフライパンが整然と並び、食材の豊かな匂いが漂っている。

 普段の私なら感嘆して眺めていたに違いない。けれどその時はただ、ずるずると引っ張られていく足取りの重さばかりを感じていた。


 ……そして案の定、私たちを出迎えた料理番の男性が、心底青ざめた顔で声を上げた。


「奥様……! どうかおやめくださいませ!」


 その必死の声音に、私は一瞬きょとんとした。けれどすぐに察する。ああ、やっぱり。クララは昔から、こと料理に関しては数々の伝説を残していたのだった。


「心配はいりませんわ」


 クララはまったく悪びれることなく、棚から大きなレシピ本を抱え出してきた。


「この通りにすれば問題ございませんの。さあ、煮込み料理でしたら簡単そうではなくて?」


 にこにこと無邪気に微笑むその顔に、私はなぜか逃げ道を完全にふさがれたような気分になった。


 そして始まった、悪夢のような料理修行。まな板の上の野菜を前に、私は恐る恐る包丁を握った。けれど慣れない手つきでは刃は言うことを聞かず……あっ、と息を呑む間もなく、小さな痛みが指先を走った。

 慌てて手を引けば、わずかに赤い雫が滲んでいる。クララが大騒ぎし、料理番が布巾を持って駆け寄り、私はただしょんぼりと縮こまるしかなかった。


 それでも諦めず鍋に向かえば、火加減も塩梅も分からず、気づけば鍋底からは怪しい煙が。必死にかき回したけれど、甲斐もなく香ばしいどころか鼻を突く焦げの香りが広がった。


「……これは……」


 できあがったそれを見て、私は思わず絶句する。皿の上に鎮座していたのは、もはや「料理」と呼べる代物ではなかった。漆黒に近い色をした、正体不明の“何か”。形も曖昧で、ところどころ炭のように崩れている。


 しんと静まり返る台所の空気を破ったのは、アルフレートの声だった。


「……僕はね、エリザベート」


 彼は真顔のまま、スプーンを手に取る。


「君の努力が嬉しいんだ」


 なんて真剣な声色だろう。その横でクララがぽんと手を叩いた。


「まあ。それでこそエリザベートの夫となるに相応しい愛情ですわ!」


 にこにことはしゃぐ彼女と、冗談ではなく本気で口に運ぼうとしているアルフレート。私は慌てて彼の手を掴んだ。


「命を粗末にしないで!」


 ……台所に残ったのは私の惨敗と、黒い塊。私は心底うなだれるしかなかった。どうしてこんなことになってしまったのかしら。


 料理の惨事からどうにか立ち直る間もなく、クララはすでに次の課題を見つけていた。


「それでは、次はお洗濯に挑戦してみましょう」


 にこやかに宣言するその姿は、さながら学生時代に私を巻き込んでさまざまな思いつきを実行し始めたときとまったく同じだった。


 そのとき、廊下の先でメイドが何人か洗濯籠を抱えて井戸へと向かうのが見えた。何枚ものエプロンが山のように積まれている。

 クララが「彼女に教えてくださらない?」と頼みこむと、メイドたちは一瞬ぽかんとしたが、すぐに「かしこまりました」と慣れたように頭を下げた。どうやら彼女たちはすでに、主人の突飛な思いつきに鍛えられているらしい。


 私はメイドたちに見守られながら井戸端に立つ。縄をきしませながら水を汲み上げるのは思いのほか重く、腕がぷるぷる震える。

 それでも私は必死に縄を引いた。桶に水を張り、エプロンを浸す。そしてメイドに教わった通り、洗濯板の上でこすり始める。


 が、最初の問題はすぐにやってきた。力の入れ加減が分からず、ばしゃりと水が跳ね上がる。思い切り自分の裾を濡らしてしまったのだ。布が脚に張り付いて冷たく、しょんぼりと肩を落とす。


「大丈夫?」


 アルフレートがすぐに声をかけてくれる。その穏やかな笑顔に少し救われたものの、なんだか子供扱いされているようで悔しさがじわりと胸を占めた。


「洗濯は体力も使うし、できれば僕がやりたいんだけどな」


 アルフレートはそう言うと私のそばにしゃがみ込み、洗濯板を軽々と手に取った。ためらいなく桶に手を浸すと、力強く、しかし無理のない手付きでエプロンを洗い始める。

 水を吸った布がきゅっと縮み、板の上でこするたびに小さな波が立つ。飛び散る水も最小限で、布はみるみる白く、清々しい香りを漂わせていく。

 私は彼の手元を真似しながら、そっと洗濯板にエプロンを当てる。水が跳ねないように、慎重に、慎重に。


「そう、その調子だよ」


 こうして私は手ほどきを受けながら、濡れた裾と格闘しつつも少しずつ泡を立て、洗濯板の上でエプロンをこすっていく。水の跳ね方も少しずつ抑えられ、裾も以前ほど濡れずに済むようになった。

 最後には水を絞り、ロープにかけて風にゆだねる。青空の下で濡れた布がはためくのを見上げた瞬間、胸がふっと軽くなった。


「……できたわ!」


 思わず声が弾んでいた。後ろを振り返ると、クララは両手を胸に当てて大げさに感動の声を上げていた。


「エリザベート、なんて立派な……わたくし、感動いたしましたわ」


 アルフレートも頷きながら小さく拍手をしている。たった一枚の布を干し終えただけで、私たち三人はまるで大仕事を成し遂げたかのように喜び合った。


 洗濯をなんとかやり終えたその次、挑むのは掃除だった。

 ……留学していた頃の部屋を思い返すと、床には本や楽譜が散らかりっぱなしで、机の上も手紙やらリボンやらでごった返していた。

 それでも毎朝、埃が気になると窓を開け放って箒を手にし、部屋中を掃いていた。足元には積み重なった本やドレスの裾が転がっていたけれど、窓ガラスも磨き終えるとピカピカに光を反射していたものだ。


 再びメイドに教わりつつ、今こうして改めて掃除に挑戦してみると、やはり私は掃除そのものは嫌いではないらしい。……ただ、おそらく片付けが苦手というだけで。


 箒の穂先が床を撫でるたび、埃は行儀よく押しやられて、私の足取りのあとにきれいな道が伸びていく。

 次は窓へ。布を手に取ってひと拭き、またひと拭き。きゅっ、きゅっ、とガラスが澄んだ音を立てるたび、日差しが弾けるように輝き、庭園の緑や空の青が鮮やかに映り込む。


「お掃除はできるのよ」


 得意げに振り返ると、二人は同時に笑った。料理は黒焦げ、洗濯では裾をびしょびしょにした私を思い出しているに違いない。けれど、いまだけは胸を張って言えた。

 掃除なら、私に任せてほしい。やっとひとつ、自分にできるものを見つけた。


 ……三つの試練を終えて、私はどっと疲れた身体を引きずるように応接間へ戻ってきた。窓から差し込む光は柔らかく、まるで今日一日の私の奮闘を労ってくれるかのようだった。けれど私の心の内は、決して穏やかではなかった。


 料理は黒焦げの塊を生み出してしまった。洗濯は裾を濡らして半ば泣きそうになった。それでもなんとか干すまで辿り着けたけれど、あれで合格点がつくとは思えない。

 唯一掃除はやり遂げられたけれど、それだって片付け下手な私が続けていけるかどうか、心の中では不安が残っていた。


 クララが満足そうに微笑んで、紅茶を差し出してくれた。私はそのカップを両手で抱えながら、ぽつりとこぼしてしまう。


「……でも私、本当に大丈夫かしら」


 思っていた以上に弱々しい声になっていた。胸の奥で渦を巻く不安が、そのまま言葉になって出てしまったのだ。紅茶の表面に映る自分の顔は、疲れと情けなさで歪んで見えた。


「エリザベート、僕はありのままの君が好きだよ」


 ふいに耳に届いたその声にはっと顔を上げると、アルフレートがいつもの落ち着いた眼差しでこちらを見ていた。どこまでも真剣で、嘘ひとつない光。


「誰にだって得意なこともあれば、苦手なこともある。それでいいんだよ。僕たちは夫婦になるんだから、支え合えばいい」


 アルフレートは目を細めて微笑むと、すっと手を伸ばし、私の髪に付いた小さな埃をそっと摘んで取った。その仕草だけで、胸の奥がぎゅうと詰まる。


「……できるようになりたいと思うのは、あなたがそんなに優しいからよ」


 気がつけば、本心がそのまま口をついていた。頬に熱が集まる。窓越しの日差しのせいにしたいくらいに。


「あなたが好きだから役に立ちたいと思うの。私は変わりたいの」


 告げた途端、アルフレートは嬉しそうに——それはそれは嬉しそうに笑った。その姿に、頰はより熱くなる。


 ……と、そのとき。


「……なんと、なんと美しい愛の言葉でしょう。わたくし、この場に立ち会えただけで寿命が十年延びましたわ」


 まるで劇場の観客席から飛び出してきたみたいに、クララが両手を胸に当てて立ち上がった。


「……クララ?」


 私が困惑気味に呼びかけると、彼女は目尻に涙を浮かべながら力強くうなずいた。


「ご覧なさいませ、これこそ真実の愛ですわ。お料理を黒焦げになさっても、洗濯で裾をびしょびしょになさっても、勢い余って花瓶をひっくり返しても、愛し合う心さえあれば——」


「待って、最後のは身に覚えがないわ」


 思わず抗議する私に、クララは感涙に咽びながら手を取ってくる。アルフレートが肩を震わせて笑っているのが視界に入り、私はさらに顔を赤くするしかなかった。

 応接間には私の真剣な言葉と、大げさすぎる友人の祝福と、おかしな笑いが混ざり合って——涙と笑いの区別がつかない、不思議でどうしようもなくあたたかな時間が流れていったのだった。

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