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図書室での邂逅

 昼下がりの図書室は、思っていたよりも空いていた。エーレ学院の蔵書は噂に違わず膨大で、背表紙の海を眺めるだけで気後れしそうになる。しかしその日、ここがほかのどの場所よりも私が求めるものにしっくりと馴染むことは、扉をくぐったときにもうわかっていた。

 ひと月前、学院に足を踏み入れたその日から、私はずっと呼吸を整えて暮らしてきた。丁寧な言葉遣いにも優雅な所作にも気を配る日々は、想像以上に神経を削る。決して誰が悪いというわけではないのに、講堂ではどこか居場所が定まらず、ふと足が向いた先がこの場所だった。


 広々とした図書室には背の高い書架が迷路のように連なり、そこかしこに控えめなランプが灯っている。薄明かりのもと、何百、何千という書物が、すべて声をひそめてこちらを見つめていた。磨かれた寄木の床を踏みしめる音が、重くも軽くもない余韻を引きながら、背の高い本棚のあいだに吸い込まれていく。

 私は息をのみ胸に手をあてる。思い出すのはずっと前に聞いた話だった。「エーレ学院の図書室には、他では読めないような本がたくさんある」と。

 棚と棚のあいだをゆっくりと歩きながら、私は目当てのものを探していた。それは古い本で、市井の書店では見つからない。ましてや、屋敷の書庫に並ぶようなものでもない。 芸術関連の棚を何度も往復し、私はやっと立ち止まった。革装丁の本が並ぶなかに、一冊、背表紙の題名に見覚えのあるものを見つける。ページの端がほんのりと焼け、古風な装丁に包まれた本。

 

『大衆歌劇の様式と変遷』

    

 指先が、その名にそっと触れる。長いあいだ夢に見たものにようやく触れられた喜びが胸を満たしていた。本棚から静かに引き抜いて胸に抱え、私はゆっくりと閲覧席の方へ向かった。


 窓際の広々とした閲覧席には人の気配がなかった。長い机の端に一人だけ誰かが座っていたが、その人物は机に本を広げ、ほとんど動かずに静かに筆を走らせていた。

 私はそっと反対側に腰を下ろし、手にしていた一冊をゆっくりと開く。革装の表紙は深い緑色で、装飾はほとんどない。題名と著者名だけが古い金の箔で刻まれていた。民衆歌劇の歴史や舞台構造を論じた研究書で、この学院の図書室にしか蔵書がないと聞いていた。

 私はずっと、いつかこの頁を開く日のことを待ち続けていた。はやる気持ちを抑えながら、慎重に最初の一頁をめくる。

 しかし、文に目を通し紙をめくるたび、私は神妙な面持ちになる。

 活字は想像していたよりも遥かに堅く、注釈は細かく、文章は複雑な構造をしていた。読めば読むほど、言葉の奥にさらに深い思考の層が折り重なっているようだった。次のページををめくる指がためらいがちになる。

 憧れで望んだはずの本が、いまの自分にはまだ手に余るかもしれないという不安が胸の奥にわずかな影を落とした。けれど席を立つ気にはなれなかった。もう一度、最初の段落に目を戻す。

 頁を通して伝わってくる熱は、たしかにそこにある。小さな頃に胸を打たれたあの舞台の記憶をたぐり寄せながら、私は紙の上に織り込まれた理論と言葉の網目に、なんとか指をかけようとしていた。

 けれど内容は難解で、目を滑らせているだけのような気がする。そろそろ諦めようかと思い始めたとき、不意に誰かの視線を感じた。

 顔を上げると、反対側の端に座っていた人物がこちらを見ていた。灰茶の瞳が、やや意外そうに私を見つめている。

 その瞳と姿形には見覚えがあった。彼は確か、入学式で歓迎の辞を読んでいた……。

 

「アルフレート・ヴァイスさん?」

 

 心の中で思ったつもりが、声に出ていたようだった。彼は目を瞬かせ、一瞬の沈黙ののちに顔をほころばせて笑った。

 

「まさか僕を知っているとは思わなかったな」

 

 驚いたような、どこか困ったような笑みを浮かべながら、アルフレート・ヴァイスは持っていた鉛筆を机に置いた。そこにはまだ読みかけであろう小難しい法律の本と走り書きの文字があったが、視線を私に戻すと彼は肩の力をすこし抜いたように見えた。

 

「入学式で、お話なさっていましたから」

「覚えていただき光栄です。あの時は緊張しすぎて、壇上から落ちるかと思ったよ」

 

 彼はそう言って、自分の額を指でつんと押した。思わず小さく吹き出しそうになった私に、彼は少し眉を上げたあと、今度は机の上の本に目を移した。


「それ、ヘンデルの“大衆歌劇の様式と変遷”?」


「はい。読みたかった本なんですけれど……」


 私は表紙に指先を添えながら、息を小さくついた。


「……想像より、ずっと難しくて」


 言葉にしてしまうのは悔しい気もした。けれど頁の向こうに広がるはずの世界を読み取れないまま、ただ目で追い続けることにももどかしさが募っていた。私の声は自然と小さくなっていた。


「だろうなあ」


 アルフレートはわずかに身を乗り出し、親しみのある調子で続けた。

 

「その本、訳文が古くて、僕も最初に読んだときは三行で寝そうになった」


 思わぬ言葉に、私はふと肩の力が抜けたように感じた。アルフレート・ヴァイスは、成績上位のさらに限られた者しか選ばれない奨学生だと聞いている。きっと、彼のような人ならすらすらと読めてしまうのだと思い込んでいたのだ。


「……ええ、初学者には手強いですね。でも、舞台の描写が美しくて」


 自分でも気づかないほど自然に、私は本の頁に視線を落とした。言葉は難解でも、その奥にある熱や情景だけは、微かに伝わってくる。曖昧であっても、そこに何かが息づいている気がして、ページを閉じることができなかった。

 彼はそんな私をじっと見ていた。しばらくの間を置いて、ふっと口元をゆるめる。


「だったら、違う版を見た方がいいかもしれないな。別の棚に、比較的新しい解説付きのものがあるんだ。よければ案内しようか」


 その声色は、かつて同じ道に迷い込んだ者としてのささやかな申し出だった。押しつけがましくもなく、淡々としていて、それでいて、手を差し伸べるあたたかさがあった。

 私はわずかにためらってから、うなずいた。


「……ありがとうございます。お願いしてもよろしいですか」


 彼は軽く会釈し、立ち上がった。窓の外から差し込む柔らかな光が、彼の肩に斜めに落ちていた。私は手にしていた厚い本を抱えなおし、彼のあとをそっと追った。閲覧席の静けさのなか、二人分の足音だけが、木の床を小さくたたいていた。


 階段を下りた先の、やや照明の落ちた書架のあいだを彼は迷いなく進んだ。厚い木の棚に囲まれた通路はひんやりと静かで、ところどころに古書の匂いが濃く漂っていた。

 アルフレート・ヴァイスは、その通路をまっすぐに進んでいく。彼の歩調は急がず緩まず、いかにも「何度もここに通ってます」という背中をしていた。


「改訂版はこっちの棚だよ。語釈も豊富で、訳文も柔らかくて、眠くなりにくい。そうだな、たぶん……九行目までは起きていられる」


 思わず私は足を止めてしまった。彼は振り返ることなく、当たり前のように続ける。


「前のは三行だったからな。三倍の進化だ。人類の知の勝利ってやつ」


「たいして変わっていないように思えますけれど」


「そこは温かく見守っていただきたいところだ」


 彼は本棚の一段に手を伸ばし、何冊かの背表紙を器用に指先でなぞりながら、目的の一冊を抜き出す。その一連の動作が妙に手慣れていて、私はそれをぼんやりと眺めていた。

 彼が手に取ったのは、私が読んでいた本より一回り薄く、表紙も淡い灰色の紙装だった。金箔も革装もない。軽く促されて目を通してみると、言い回しが穏やかで、用語の説明も端に添えてあり、何より目に優しい大きさの文字だった。

 

「ついでに、僕のお気に入りの脚注も紹介しようか。信じられないくらいどうでもいい豆知識が載ってるんだ」


「……それ、意味ありますか?」


「ない。でも、語りたくなるんだ。たとえば——あ、この脚注、見てみて。“当時、宮廷で使用されていた靴のかかとは平均して三センチ”」


 私は目を瞬いた。見下ろした頁の隅に、本当にそう書かれている。なぜか注釈番号が二重線で囲われており、やけに存在感を主張していた。


「……どうして、そんな情報が載っているのでしょう」


「たぶん、書いた人が言いたかったんだろうね。自分だけ知っていると眠れないくらいに。……気持ちは分かる」


 私は堪えきれず、喉の奥でそっと笑った。笑い声を立てるには、ここは静かすぎたけれど、それでも笑わずにはいられなかった。こんなふうに本の頁の余白から、他人の情熱や偏愛がふいに覗く瞬間があるとは思わなかった。そんな私の様子を見たアルフレート・ヴァイスは、満足げな顔でうなずいていた。


「案外、この手の脚注が一番記憶に残るものだよ。必死で覚えた数式より、靴のかかとの高さのほうが試験で思い出されるという悲劇もなくはない」


 この人、変な人だわ。私ははっきりとそう思った。真面目な顔でとんでもなく変わったことを言ってのけるその態度は、私の知っている誰とも違っていた。

 

「あなたって、おかしな人ね」

 

 私の口からその言葉がこぼれた瞬間、彼はわずかに目を見開いた。失礼だったかしら、と今更のように思った。けれど彼が私に返したのは怒りでも不快感でもなく、面白がるような色を含んだまなざしだった。

 

「君に言われるとは思わなかったな、それ」


「なぜ?」


 問い返すと、彼は肩をすくめて、すこしだけ首を傾けた。まるで本当に不思議がっているかのようなその仕草に、私も同じく首を傾げた。


「だって、君も充分変わり者じゃないか。ここで民衆歌劇の研究書を読んでる貴族なんて、僕は初めて見た」


 私は思わず呼吸を止めてしまった。胸の奥がざわめいて、私は意識せず、手元の本をきゅっと抱え直す。


「……どうして、貴族だと?」


 思わず出た問いだった。名簿の名前を見られたのか、あるいは噂でも聞いたのか。それとも。

 しかし、アルフレートはすぐに首を振った。冗談めかしながらも、目はまっすぐだった。

 

「名前とか、そういうのじゃないよ。……立ち居振る舞い、話し方。椅子に座るときの姿勢とか、言葉の選び方とか。そういうのって自然に出るんだ。たぶん、君は気づいてないんだろうけど」

 

 柔らかな言い方だった。責めるでも、見下すでもなく、ただ事実を静かに述べるような。だからこそ、私はかえって何も言えなかった。


「……そう。じゃあ、隠す必要もないのね」

 

 そう呟いて、私は目を伏せた。本の角に指をかける。やがて小さな息を吐き、私はそっと言葉をつないだ。

 

「……昔、一度だけ、民衆歌劇を見たことがあるの」


 アルフレートが視線を向けてきたのがわかった。私は続けた。

 

「馬車の中から、ほんの少しだけ抜け出して。小さかったけれど、外から聞こえてくる音楽に惹かれて、どうしても見てみたくなったの」


 記憶のなかの音と光がよみがえる。木組の舞台、踊る役者たち、観客の歓声。私を燃やすほどのまばゆい熱。ひと目だけ舞台を見つめたあの一瞬を、私は今もありありと思い出すことができる。


「ほんのわずかなあいだだったわ。すぐに見つかって連れ戻されてしまった。でも……それきり、どうしても忘れられなかった。屋敷のメイドにせがんで、劇のあらすじを教えてもらったこともあった」

 

 エミリーの顔が浮かぶ。あのとき、彼女は私の願いを咎めず、やさしく語りかけてくれた。それがどれだけ勇気のいることだったか、今の私はよく理解していた。彼女がそっと語ってくれたことのひとつひとつは、自分の身を削って差し出してくれた宝石のようなものだった。

 

「忘れられないの。貴族の令嬢らしくないと笑うかしら」

 

 言って、私は小さく笑った。自嘲にも似ていたかもしれない。

  

「そりゃ、充分おかしい」


 唐突に、けれどやわらかに言われて、私は思わず彼を見た。

 

「こっそり劇を見に行って、その記憶を追いかけて古典文献を読む貴族のお嬢さん、って。そんな登場人物、僕の知ってる劇にも出てこない。ちょっと舞台映えしすぎてる」


「からかわないで」


「からかってないって。……むしろ、かなりいい題材だと思う」

 

 彼の目がわずかに真剣な色を帯びているのに気づいて、私はそっと視線を落とした。声には軽さがあったけれど、その目だけはまっすぐで、私の中の想いをほんの少し肯定してくれるような気がした。静けさの中に言葉が沈む。その間を埋めるように、私はふと思い出したように口を開く。

 

「そういえば私、名乗るのを忘れていたわ」


 思いのほか穏やかに、静かに言葉が落ちていったのは、きっと少しだけ、この空気に、彼に、気を許しかけている証だった。

 私は背筋をすっと正して彼の方へ向き直る。古書の匂いと木の棚に囲まれた静かな場所で、私はたった一人舞台の上に立つような気持ちでいた。

 

「エリザベート・フォン・ローゼンハイネと申します」

 

 アルフレートはわずかに目を丸くして、それからふっと表情をゆるめる。まるで答え合わせが済んだかのように、納得したような眼差しで頷いた。


「僕はアルフレート・ヴァイス。ここじゃただのアルフレートで通ってる」

 

 名乗るという行為は、立場や過去を差し出すことに似ている。

 ただのアルフレート。名前や家柄に縛られる世界に生まれてきた私にとって、それは不思議で羨ましい在り方だった。でも、この人の前でなら、私もただのエリザベートでいられる気がすると、根拠もなくそう思った。

 

「……よろしければ、あなたのお気に入りの脚注、もう少しだけご案内いただけるかしら」


「もちろん。今日は十箇所までにしておくよ。というか、それ以上付き合ってもらえるとは思っていないから」


「どうして勝手に制限されているのか分からないけれど……では、十箇所で」

  

 私たちはまた、本の並ぶ影の間をゆっくりと歩き出した。彼の歩幅に自然と合わせるようにして、一歩、また一歩と進む。図書室の窓から差し込む陽光が、古い寄木の床に淡く映り、積もった時間の上をふたりでそっと踏みしめていく。

 私は問いを投げかけ、彼はそれに言葉を添える。その繰り返しは、道のない庭を一緒に歩いているようでもあった。どちらが先を歩いているわけでもない。同じ方角に目を向けているということだけが、ふしぎなほど心を安らげた。

 生まれた家も、歩んできた道も違う。でもこの場所にいる限り、私は「誰かの娘」ではなく、彼も「誰かの息子」ではなかった。ただの自分のままで、ただの自由な心で、ひとつの頁の前に立つことができる。それは言葉では言い表せないほど大切なことに思えた。

 それぞれに別の物語を持って生きてきた二人が、同じ物語の頁をめくろうとするかのようなこの瞬間は、何よりも尊いものに思えたのだ。

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