小さなリーゼル
南部の空気は、王都のそれとはまるで違う。澄んだ風が頬を撫で、遠くの丘には金色に波打つ麦畑が広がっていた。小川のせせらぎが微かに耳に届き、あたり一面に漂う青草の香りは、私の胸を深く満たしていく。クララの住まう屋敷へと続く並木道を、私はアルフレートと並んで歩いていた。
「……あの子に会えるのね」
そっと言葉を転がすようにつぶやく。
クララからの便りが届いたのは、ちょうど冬の寒さが和らぎ始めた頃だった。無事に出産を終え、ようやく体も落ち着いてきたので、会いに来てほしいと。
便箋には見慣れた筆跡で、「わたくしの小さなエリザベートに、ぜひ会ってくださいませ」と綴られていた。
「だけど、どうしたらいいのかしら。泣かせてしまったらと思うと……」
私の声には自然と不安が滲んだ。赤ちゃんという存在はどこか遠いもののように感じられる。親族の集まりで小さな子を見かけ、指先で頬を突いた程度の思い出ならあるけれど、それ以上はまったく経験がない。
抱き上げたら泣かせてしまうんじゃないか、手のひらひとつ触れるだけでも怖いくらいに小さいのではないか——そんな不安が胸を占めていた。
横を歩くアルフレートは、柔らかな陽光を受けながら、のんびりとした足取りで笑みを浮かべている。
「赤ん坊は泣くのが仕事だよ」
あまりにあっさりと言うので、私は思わず彼の横顔を見つめた。陽の光を浴びた淡い栗色の髪が揺れ、少し眩しげに細めた瞳には穏やかさが宿っている。
「簡単に言うけれど……あなたはお世話をしたことがあるの?」
少しムッとして問いかけると、アルフレートは歩みを止めることもなくさらりと答えた。
「僕の故郷では誰の子でも村中で世話をするんだ。僕も抱っこして子守唄を歌ったことがあるし、逆に面倒を見てもらったこともある」
そう言って懐かしむように目を細める。あまりに自然な響きに、私は驚きで思わず足を止めそうになった。
「泣くのは元気な証拠だよ。泣き止ませようなんて気負う必要はないし、泣き止んでくれたら幸運だと思えばいい」
そう言われても、やはり不安は消えない。繊細なガラス細工のように、少し触れただけで傷をつけてしまうのではないかと恐れてしまうのだ。
けれど彼の確信に満ちた笑みを見ていると、不思議と勇気がわいてくる気もした。私と同じ名をもらった赤ちゃん——どんな顔をしているのだろう。どんな泣き声で、どんな小さな手をしているのだろう。思い浮かべようとしても、うまく形にならない。
屋敷の屋根が遠くに見え始めた。並木の影が次第に濃くなり、鳥の声が高らかに響く。これから待つ小さな命との出会いに、不安と期待とが入り混じり、胸の鼓動は速さを増していた。
正面玄関の前に立ってノッカーを打つと、程なくして扉が開いた。姿を現したのはメイドの女性で、控えめに一礼してくれる。
「エリザベート!」
その肩越しにクララが顔を覗かせ、にこやかに笑みを浮かべている。その声を耳にした瞬間、ぱっと華やぐように嬉しくなり、思わず駆け寄りそうになった。けれど次の瞬間、はっと気づいて足を止める。
「……クララ、中に入る前に手を洗わせてもらえる?」
「手を?」
きょとんとした彼女に、私は真剣な面持ちで言い切った。
「赤ちゃんに会うでしょう。ちゃんと綺麗にしてからじゃないと」
クララは一瞬ぽかんと目を瞬き、それから「もちろんですわ」と笑って裏庭へ案内してくれた。
小道を進んだ先には、石組みの古い井戸が佇んでいた。私は釣瓶から水を掬うと、指を丁寧に擦り合わせる。澄んだ水が冷たくて思わず息を吸い込んだが、それでももう一度、もう一度と洗い直した。
隣ではアルフレートも同じように真剣な顔で手を清めている。彼は私に合わせてもう一度水をすくい上げ、何度も真面目に洗っていた。
その様子を後ろで眺めていたクララが、ふと肩を揺らして笑い声をもらした。
「そんなに何度も洗っていては、そのうち手が溶けてなくなってしまいそうですわね」
「でも……」と言いかけて、結局は口ごもってしまう。アルフレートが「言われちゃったな」と楽しそうに肩をすくめるのが余計に悔しかった。
それでも私はもう一度と水を掬ってしまう。冷たさに震えながら、これで大丈夫だろうかと掌を見つめる私の横で、クララの笑みはますます柔らかく広がっていた。
クララに導かれて、私たちはついに静かな部屋の扉をくぐった。
窓から射し込む柔らかな陽光に照らされて、白いゆりかごがひとつ。その中に眠っていたのは——小さな、小さな赤ちゃんだった。
すやすやと胸を上下させる寝顔に、私は思わず息を呑む。絹のように柔らかそうな金色の髪が光を受けて揺れている。まだ幼いのにクララの面影が宿っている気がして、胸の奥がいっぱいになるのを感じた。
「なんて可愛いの……」
つぶやく私に、クララが微笑んで言う。
「どうぞ、リーゼルと呼んでくださいませ。なんだかしっくりきませんこと?」
「……リーゼル」
そっと口にした瞬間、その小さな寝顔がますます愛おしく思えて、ほんの少し頬を緩める。
「ええ、とても」
私はその名を心の中で繰り返した。確かに愛らしく、この小さな子にふさわしい音に思えた。
まるで花びらのように繊細な肌。閉じられた瞼は透けるように薄く、唇はまるで花弁の端のように小さくすぼまっている。
しばらくその寝顔に見入っていると、クララがにこやかに私へ視線を向けてきた。
「さあ、エリザベート。せっかくですもの、抱いてみませんか?」
その言葉に私は一瞬身体を固くした。これほど小さな子を抱いたことなど、これまで一度もない。
両手を宙に迷わせていると、クララに促され、恐る恐る腕を差し伸べた。
「そうですわ、背をしっかり支えて……首はまだ重みに耐えられませんから」
クララが優しく導いてくれる。その指示に従いながら、私はぎこちない姿勢でリーゼルを抱き上げる。小さな体の重みが腕にのしかかると、不思議な感覚に胸がざわめいた。
けれど、次の瞬間。
リーゼルの口元がわずかに震え、閉じていた瞼が小さく動いた。静かな寝息が乱れ、かすかな吐息の後、甲高い泣き声が空気を震わせる。
まるで小鳥が羽をばたつかせるように細い手足が動き、私はたちまちどうしてよいかわからなくなった。
「ど、どうしよう、泣かせてしまったわ……!」
あやす? 揺らす? それともすぐクララに返した方が……頭の中がぐるぐるに混乱して、腕に抱いた小さな重みが急に怖くなる。
すると隣から伸びた手が、驚くほど自然に私の腕からリーゼルを抱き上げた。アルフレートだった。
彼が抱き上げて軽く揺らした途端、リーゼルは嘘のように泣き止む。大きな目がぱちりと開き、そしてにこにこと笑い出した。
私はただ呆然と見つめるしかなかった。先ほどまで私の腕の中で泣きじゃくっていたのに、彼の腕に移った途端にこんなにも安らいだ表情を見せるなんて。
……同じエリザベートなのに、私はアルフレートに負けてしまったのだろうか。不思議さと寂しさと、そしてほんの少しの悔しさがないまぜになって、胸の奥で渦を巻く。
「可愛いな。きっと僕のことが好きなんだ」
その一言に、私の心臓は不意に跳ねた。挑発とも取れる声音だった。悔しさに火がつき、思わず彼を睨みつけそうになる。
「……どうして私より先に懐かれるの」
唇から零れた言葉は、我ながら子どもっぽい響きを帯びていた。けれどそうせずにはいられなかった。
「エリザベート、気にすることはありませんわ。リーゼルもすぐにあなたの優しい心を見抜くでしょう」
クララが柔らかい声でそう告げる。彼女の慰めが胸に染みるのに、それでも疑念は拭えなかった。
「……そうだといいのだけれど」
声がかすかに沈む。アルフレートはやはり飄々とした笑みを崩さず、さらに平然と言葉を重ねた。
「ただし僕より後になるけどね」
「余計な一言を足さなくてもよろしいの!」
軽口が私の心に突き刺さるより先に、クララの張りのある声が遮った。
アルフレートは何も言わず、穏やかな笑みを浮かべてリーゼルを覗き込む。そして、まるでわざと私に聞かせるかのように柔らかな声を落とした。
「こうなったら、小さなエリザベートも大きなエリザベートも両方大事にするよ」
……ああ、また余計なことを言う。私は思わず天を仰ぎそうになった。クララは目を細め、落ち着き払った声で、しかしきっぱりと彼に釘を刺す。
「うちの娘を誑かすのはやめてくださいませ」
クララの声はさすが母親というべきか、上品なのに逆らえない気迫を帯びている。アルフレートは苦笑を浮かべ、さすがにそれ以上の軽口は飲み込んだようだった。
やがてリーゼルの小さなまぶたは、ゆっくりと重たげに落ちていった。さっきまで笑っていた顔が穏やかな寝顔に変わり、柔らかな寝息が漏れはじめる。クララがそっと立ち上がり、私たちに向かってにこやかに言った。
「ちょうどお休みになりましたわね。お茶をお出ししますから、どうぞ応接間へ」
私は思わず名残惜しげにリーゼルの寝顔を振り返ってしまった。まだ、もう少しだけこの愛らしい姿を見ていたい。
けれどもしこのまま部屋に残っていたら、またアルフレートばかりがリーゼルを笑わせたりなんてしてしまうのだろう。羨ましさで心がいっぱいになってしまう前に、私はクララの言葉に素直に従った。
クララに導かれて廊下を歩く。大きな窓からは庭の緑と午後の陽光が差し込み、屋敷全体をやわらかく照らしていた。
応接間のテーブルの上には、すでに可愛らしい茶器が並べられていて、さすがはクララらしい細やかな心配りが感じられる。
席に腰を下ろすと、私は思い出したように鞄へ手を伸ばした。
「そうだ、大切なお祝いを渡しそびれていたわ」
布に包んで大事に持ってきた箱を取り出すと、クララが「まあ」と感嘆の声を上げた。目がぱっと輝き、両手で丁寧に受け取ってくれる。
「よろしければ……今、開けても?」
瞳が期待にきらめき、少女のころと何一つ変わらないその表情に、胸がじんと温かくなる。
もちろんよ、と答えた途端、クララはすぐにリボンをほどき始めた。慎重でありながらどこかせっかちな手つき。包みを解く仕草一つとっても、彼女の変わらない性格がにじみ出ていて懐かしい。
クララが箱をそっと開くと、中から優しい白のベビードレスが姿を現した。繊細な刺繍を施した襟元と、小さなリボンを添えた袖口。
アルフレートと一緒に店先で何度も迷って、これならクララの娘に似合うに違いないと話し合ったものだ。
「まあ……まあ、なんて可愛らしいのでしょう。お二人で選んでくださったの?」
クララはその姿を目にした瞬間、ぱっと顔を輝かせた。瞳がきらきらと潤み、笑顔が花のように広がる。
「そうだよ。リーゼルに似合うものをと思って……エリザベートがすごく真剣で、僕は横で頷いてただけだけど」
アルフレートが笑って答える。いつも通りの口調だったけれど、その声色にはほのかな喜びが滲み出ているように思えた。
クララは両手で大切そうにドレスを抱え込み、うっとりと眺めている。
柔らかな金色の髪に包まれた小さな娘が、この衣を身にまとう姿を想像しているのだろう。頬のゆるみ方でそれがよく分かった。
「こんなに素敵なお祝いをいただけるなんて、リーゼルは本当に幸せな子ですわ」
クララが目を伏せるようにして微笑んだ。その表情を眺めながら、私はふと胸がいっぱいになる。ああ、クララは本当に母になったのだ。
少女の頃からの友人が、こうして自分の娘を愛しむ姿を目の当たりにしていると、喜びと少しの寂しさとが入り混じって、どうしようもなく感傷的な気持ちになる。
少し前まで、私たちは学院の廊下を駆け回り、内緒話をして、些細なことで笑い合っていた。それが今では彼女は母となり、私とアルフレートは婚約者となって彼女の元を訪れている。
変わったことはたくさんある。けれど、変わらないものも確かにある。こうして再び三人で机を囲み、笑い声を交わしていることこそが、その何よりの証に思えた。
——どれほどの時が流れようと、この絆は私にとって何にも代えがたい宝物。
私はティーカップを両手で包み込みながら、幸せそうにドレスを抱きしめるクララの姿を、心に刻むように見つめ続けた。




