想いのゆくえ
建国祭の幕は下り、人々の声は遠ざかって、祭りの灯も消えた。
正面から見渡す舞台はすっかり静まり返り、燭台の明かりに照らされてその輪郭だけがかすかに浮かび上がっている。
私はアルフレートととも最前列の席に身を沈め、赤いベルベットの柔らかな感触に指先を添えながら、その光景をただ見つめていた。
舞台を囲む金色の装飾は燭台の淡い光を受けてかすかに瞬き、絹の緞帳は降りたまま深い影を揺らしている。
この日、劇場はついにすべての後片付けを終えるという。幕の降りた舞台の最後の姿を、どうしても見届けたいと願ったのは私だった。幻のすべてが解かれていくその瞬間を、この目に焼きつけておきたかった。
舞台の上では役目を終えた大道具や装置が持ち運ばれ、足音や木の擦れる音だけが響いていた。私たちの夢を、華やかな幻を織り上げた劇場が、今日ひとたび息を止める。
「これで、終わってしまうのね」
知らず口をついて出た私の言葉に、アルフレートは舞台をじっと見据えたまま頷いた。
「君ならすぐに次の幕を開けられるよ」
それがただの慰めではないと、今の私には分かる。もう疑うことはない。私はまた舞台に立って、必ず次の幕を開ける。そう心から信じられた。
舞台の上から最後の装置が運び去られ、広い空間に静寂が訪れる。木の扉が重々しく閉じられる音が、名残惜しい響きとなって耳に残った。
どうしたって、去りがたい。立ち上がってしまえばこの日々が遠く過ぎ去ってしまう気がして、私はまだここに座っている。
私はふと、隣のアルフレートに視線を向ける。胸の奥からせり上がる問いを抑えきれず、小さな声で口にした。
「アルフレート、私たちが出会った日のことを覚えている?」
口にしてみると、まるで遠い昔のことのように感じられる問いだった。祝祭の余韻を吸い込んだ広い劇場に、私の声が溶けていく。
「……忘れないよ。小さな君が分厚い本を抱えて、眉をひそめていた顔まではっきり覚えてる」
アルフレートの言葉に、私は胸の奥を優しく叩かれるような感覚を覚える。
そう——あのとき私は、厚い紙束の海にひとり取り残されたように、必死で文字を追っていた。
その書物はずっと憧れていたものだった。民衆歌劇について詳しく書かれていると聞いた時からどうしても読んでみたくて、手に取ったときには胸が震えるほどに嬉しかった。
……けれど実際にページを開けば、知らない言葉や難解な理論、意味を結ばない文章ばかりが並んでいて、すぐには理解できなかった。
「あなたはそんな私に、とても親切にしてくれた。初めて出会ったのに、迷子みたいに本に溺れていた私に手を差し伸べてくれたの」
それでも夢のかけらに手を伸ばすように、私はどうしてもその本を閉じることができなかった。書かれていることをすべて理解することはできなくても、どこかにきっと、自分の胸を照らすような一行が潜んでいるはずだと信じて。
「だって、あんなに分厚い民衆歌劇の研究書を抱えて座り込んでる子なんて他に見たことがなかったんだよ。声をかけずにはいられなかった」
彼は軽く肩を揺らし、当たり前のことのように言った。
けれど私にとっては違う。あのとき差し出された手は、孤独と焦燥に飲み込まれそうになっていた私の前に現れて、光のさす方へ引き上げてくれたのだ。
「だけどあなた、いきなり“靴のかかとは三センチ”なんて言い出したのよ。私、本気で変な人だと思ったわ」
思い返すと自然に笑みがこみ上げてくる。突拍子もない一言に唖然としつつも、不思議と心がふっと緩んだのを覚えている。
アルフレートは一瞬宙を見上げ、それから懐かしむように目を細め、声を立てて笑った。
「本当のことを言うと、僕は必死に話を広げる口実を探してたんだ。だから“靴のかかと三センチ”は、僕にとっては英雄的発見だったんだよ」
彼が少し誇らしげに言うものだから、私はくすくすと笑って、そんなふうに思っていたの、と続ける。心細かった私に、彼はそんなふうに必死になってくれていたのだ。
「ねえ、あなたのお気に入りの脚注……あの時は十箇所までだったけれど、今ならもっと教えてくれる?」
私は首をかしげながら問いかけた。彼と過ごした日々の始まりを象徴するような小さな遊び心を、もう一度味わいたくて。
「いいよ、もちろん。十箇所でやめたのは、あの頃は自制心が働いてただけだからね」
その言い草に、思わず呆れてしまいそうになる。自制心が働いた結果が十箇所。あれ以上を語られていたら、私はきっと彼の不思議な熱に呑まれていたに違いない。
「……当時のある歌劇団では、舞台上の雷鳴を出すために豆を大鍋に転がした。あと、鼠よけのために合唱隊に猫を混ぜたという記録がある」
豆が転がる乾いた音を想像すると、舞台の上にそれが響く光景がありありと浮かんだ。きらびやかな緞帳の奥で、猫がひょいと顔を出す姿まで見える気がして、私は小さな笑いを洩らす。
「……ある楽譜の脚注に、“この旋律を歌うと必ず舞台の奥から声が返ってくる”と書かれている」
その言葉を聞いた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
さっきまで穏やかだった燭火の揺らぎが、不気味な気配を孕んだように思えてしまう。広大な劇場の奥、誰もいない暗がりから、もしや本当に声が返ってくるのではないかと——。
「怖い話はやめてよ!」
思わず強い声をあげてしまった。アルフレートがこちらを見て、楽しそうに目を細めている。私は慌てて顔をそむけたけれど、頬の熱は隠しきれない。
私は深く息を吐き、視線を舞台へと戻した。幕の向こうにはもう何もない。それでも私の胸の奥にはまだ熱が残っている。
ふとそんな心の揺らぎに導かれるように、言葉が口をついて出た。
「もしあの日、別の席に座っていたら……私たちはどうなっていたのかしら」
……あの日の選択がほんの少しでも違っていたなら、今の私は存在しなかったかもしれない。そう考えると不思議なほど胸が締めつけられるのだ。
「違う席だったら、君は僕の豆知識に長々と付き合わずに済んだ」
アルフレートは淡々と言った。その声の奥に、軽やかな笑みが隠れているのを私は聞き取った。
「……そう」
小さく返しながら胸の奥で言葉が膨らんでいく。私は彼の横顔を盗み見るようにして、ひと呼吸置いて続けた。
「もしそうなっていたら、私の人生はさぞかしつまらないものだったでしょうね」
決して大げさな言葉ではない。心の底からの、真実の思いだった。
笑い合って過ごした少女の頃。夢を語り、からかわれて顔を赤らめ、また夢中で語り直す日々。
挫けて涙したこともある。もう立てないのではないかと心が折れそうになった夜もあった。
けれど——どんな時でも、私を孤独の暗闇から引き上げてくれたのはアルフレートだった。
「アルフレート」
だから私は思う。もし何万回と人生をやり直すことがあったとしても、私は必ずあの日の図書館へ行く。
必ずあの席に座り、分厚い本を抱えて途方に暮れる。そして必ずこの人に出会う。それ以外の選択など、あり得ないのだ。
「あなたは、私のいちばん特別な人よ」
その言葉以上のものは口にできなかった。きっと、この先もそうなのだろう。
本当のことを言えば、彼の名を呼ぶたびに震える感情を、すべて言葉にして差し出してしまいたい。
けれど私たちは、友人以上の名前を持つ関係にはなれない。許されない。誰のせいでもなく、私たちを取り巻く世界がそうさせている。
だけどせめて、あなたが私の一番特別な存在であることだけは知っていてほしい。それだけでも、私の心の奥にある真実を彼に届けられるはずだと信じた。
「エリザベート、僕には特別なものは何もないんだ。家柄も、肩書きも、君に相応しいものは何一つない」
アルフレートが少しの間を置いて口を開いた。低く穏やかな声が、劇場に残る静けさの中に溶けていく。
私は彼が何を話そうとしているのか、察してしまった。きっと私たちは同じ答えに辿り着いている。
ほんのひととき夢のように近づいてしまった距離を、彼はきっと元に戻そうとしている。私たちは互いに大切だと知っていながら、それ以上を望むことはできないのだ。
私は口を挟まず、そのまま彼の言葉を受け止めた。胸の奥が締めつけられていくのを感じながらも、瞳を逸らすことなく、ただ彼を見つめていた。
「……強いて言えば、机に山積みの書類と、靴下を片方なくす特技と、君の機嫌を損ねたときに素早く謝る能力くらいかな」
思わず口元が緩む。真面目な話をしているのか、ふざけているのかわからなくなってしまった。
私が泣き出しそうな時に、彼はふいに笑わせてしまう、と思い出す。いつも少しだけ常識を外れたところで、私の心をくすぐってきた。
泣きたくなるほど切ないのに、笑ってしまいそうになる。どうしようもなく、心が揺さぶられる。
「だけどね、君に捧げられるものが一つだけある」
——きっと彼は、友情だとか信頼だとか、そういう言葉を差し出すのだろう。
そして私たちは、ここで元に戻る。許された距離に立ち返る。どんなに心が惹かれても、夢を見たことはここで終わらせなければならない。
これでいいのだと、私は必死に自分に言い聞かせた。たとえ一番好きな人と結ばれることが叶わなくても、出会わなかったよりは、ずっといい。
けれど、彼が次の言葉を紡ごうと息を吸った瞬間、その動きがやけにゆっくりと見えた。口を開きかける仕草さえ、私には恐ろしく迫ってくる。
答えにこれ以上近づいてほしくないと、心のどこかで願ってしまう。矛盾だらけの自分に戸惑いながらも、私は耳をふさぐことができなかった。むしろ必死に、彼の声を求めている——。
「……僕の人生のすべてだ」
……声が、空気を震わせた瞬間、世界の針が止まったように感じた。
目の前に星が瞬いたような感覚。心臓が一拍遅れて跳ね上がり、目の前の景色が揺らいで見える。
……今、なんて言ったの?
耳に届いたはずなのに、意味を掴もうとするほど遠ざかっていく。劇場に灯る明かりも、並んだ椅子の影も、すべてがぼやけて見えた。
でも、私にはわかる。わかるはずだった。友情でも、信頼でもない。慰めでも、諦めでもない。彼は、自分の人生すべてを私に捧げられると——そう告げたのだ。
「君が笑えば僕も嬉しいし、君が怒れば……正直ちょっと怖いけど、それ以上に可愛く思える。君が困っているときは、何もかも放り出してでも助けたくなる」
アルフレートは肩の力を抜いて私を見つめていた。目を細め、口元に柔らかな笑みを浮かべ、ひとつひとつの言葉を丁寧に、慎重に選ぶようにして語る。
私は耳を澄ませながらも、必死で自分を抑えていた。彼が差し出しているのは友情ではないのだと、私の想いを終わらせる話ではないのだと、心の奥底で気づいてしまう。
涙がこぼれそうになる。叫び出したくなる。嬉しくてたまらないのに、同時に恐ろしくもある。
「だからさ、エリザベート」
呼びかけられた瞬間、胸の奥が大きく揺れた。
名前を呼ばれるだけで、どうしてこんなにも涙があふれそうになるのだろう。
私は震える指先を重ね、必死に息を整える。けれど、彼の言葉を待つ心は止められなかった。
「どうか、僕の妻になってくれないか。僕のそばにずっと君がいて、ずっと笑っていてほしいんだよ」
冗談を交えながら話す彼のことだから、軽口で和らげてくるのではないかと身構えていた。けれど、その瞳はただ真っ直ぐに私を映し、揺らぐことがなかった。
夢だと片づけてしまえば楽だったのに、彼の言葉はあまりに明確で、鮮烈で、否応なく私を生きたまま引き寄せた。
「……いいの?」
頬を伝う温かさに気づいても、もう止められなかった。涙が零れ落ち、唇が震える。口にしてはいけない問いを、抑えきれずにつぶやいてしまった。
もし彼が本当に私を選ぶとして、これからどれほどの困難にさらされるか。貴族社会の冷たい視線、血筋や階級という名の鎖、古い常識と偏見。想像するまでもなく、分かりきっていた。
私は震える胸の内で、こんな願いはわがままだと自分を責める。好きだからこそ縛りたくなかった。私と共に歩めば、アルフレートを傷つけることになる。
「もちろんだ、エリザベート」
それなのに、声には迷いのかけらもなかった。彼は私をまっすぐに見つめて、確信に満ちた響きで続ける。
「一緒にいることを間違いだなんて、僕が誰にも言わせないから」
深く澄んだ瞳に見つめられて、ふといつか胸に浮かんだ言葉を思い出す。
——決まりきった筋書きの向こうを見ようとするその目が、私に自由を与えてくれる。思えば、いつだってそうだった。彼はいつもそうして、私の世界を広げてくれたのだ。
こみ上げる笑みと涙が同時に頬を震わせ、私は嗄れた声で答えた。
「そうね……あなたは世間の常識なんてものを、なんでも飛び越えてしまうものね」
私の方が臆病だった。家に縛られて、自分を縛り、彼まで縛ろうとしていた。けれど彼は、そんな枷を軽々と飛び越えてしまう。笑って、何でもないことのように。
「君と同じだよ」
短い言葉に、私の胸は跳ねるように熱くなる。
もう、ごまかすことはできない。自分の心に嘘はつけない。私は震える手を膝の上で握りしめながら、心の底から理解した。
私はずっと、アルフレートを愛していた。ずっとずっと、愛していたのだ。夢を追う長い道のりでくじけそうになった日も、孤独に押しつぶされそうだった夜も、私を救ったのはいつも彼だった。
「あのね、アルフレート。……あなたに特別なものがないと言うなら、私にだってなにもないの」
涙に濡れながら私は言葉を継ぐ。アルフレートは一層やわらかな笑みを浮かべて、私を見つめていた。その穏やかな眼差しに包まれるたび、私の言葉はもう隠しようがなくなる。
「刺繍をすれば花のはずが毛玉になるし、片付けをすれば余計に散らかしてしまうわ。私がそばにいたら、靴下は片方どころじゃなく全部消えるんじゃないかしら」
冗談めかして口にするけれど、すべて本当のことだった。けれど彼の微笑みに触れた瞬間、私ははっきりと確信したのだ。
アルフレートのそばにいると、私はただの私になれる。夢を追いかける表現者であり、弱さを抱えた一人の人間でいられる。
弱さも欠点も、この人の前では取り繕う必要はない。彼は私を愛してくれる。欠けた私を笑うのではなく、欠けたまま愛しいと言ってくれる。
「……だけどね、あなたのおかしな話に一生付き合える根気強さだけは、きっとあるはずなのよ」
そして同じように、私もまた彼を愛していた。まっすぐに見つめてくれる眼差しも、時に自分を傷つけてしまうほどの優しさも、突拍子もない言葉で私を驚かせるところさえも。
——どんな姿の彼であっても、私は惜しみなく愛するだろう。欠けている部分も、完璧でないところも、すべて含めて。
「それなら、案外うまくいくと思わない?」
涙ににじむ視界の中で、私は精一杯の微笑みを浮かべる。言葉に力を込めて告げると、彼の瞳が柔らかく細まった。
「君がそう言うなら、言葉通り一生付き合ってもらうよ。君が僕を見て、呆れて笑う顔が好きなんだ」
軽やかな声に、私は涙に濡れた顔のまま笑った。
求婚の締めくくりがそんな言葉だなんて。普通ならもっと気の利いた台詞があったはずなのに、彼はそういう人ではない。
胸の奥にこみ上げるのは呆れであり、安堵であり、そしてなによりも深い愛しさだった。
——やっぱり、おかしな人だわ。
それでも、だからこそ。彼のそばでなら、私は笑っていられる。時には悩み、時には涙をこぼしながらも、決して孤独にはならない。未来がどれほど険しくとも、二人で越えていける。そう確信できる。
「……やっぱり、あなたはおかしな人ね」
震える声でようやくそう返すと、アルフレートは首をかしげて笑った。
「君に言われるとは思わなかったな、それ」
いつかどこかで聞いた言葉と、その笑みを見て、私の心は決まった。
笑い合って、悩んで、時には涙を流しながら——それでもずっと、この人のそばで一緒に生きていきたい。




