『ヒルデガルト・フォン・ヴェルシュタイン』
砦の訓練場には、陽射しにも似た熱気が立ちこめていた。打ち合う剣と槍の響きが石壁に反響し、荒く吐かれる息と共に地を揺らす。
兵士たちは汗にまみれ、木剣を振るい、槍を構え、砦守将ゲオルク卿の厳しい眼差しのもとで鍛錬に励んでいる。
鍛えられた兵士たちの胸には、戦場を前にした者だけが持つ緊張と昂ぶりが渦巻き、それを払うように声を張り上げる。
「戦とは男の務めだ!」
「砦こそ我らの命、この地を護って死ぬまで退くな!」
その声は粗野ながらも誇り高く、互いを奮い立たせるための叫びであった。砦に仕える男たちは皆、槍と剣こそ己の存在を証するものと信じ、口々にその信念を唱えることで、自らを戦いへ駆り立てる。
その輪の外れ、石壁の影に小さな影がひとつ。少女ヒルデガルトは、父の姿に合わせて手にした剣を振っていた。
まだ幼い腕では刃は重く、形ばかりの真似事にすぎない。それでも彼女の瞳は父と兵たちの姿を映して、烈々と輝いていた。
ゲオルク卿は鋭い声で号令を放ち、振り下ろす手の合図ひとつで十数人の兵が一斉に動く。その堂々たる姿は、幼いヒルデガルトにとって英雄譚の中の騎士にも等しかった。
「……わたしもお父様のように、強くなりたい」
小さく零れた声は、訓練の喧騒にかき消される。だがその言葉には、幼子の無邪気さと同時に確かな憧れが宿っていた。兵士たちが「男の務め」と声高に叫ぶほどに、ヒルデガルトの胸の奥では「自分もその務めを担いたい」という熱が芽生えてゆく。
その想いを知らぬ兵士たちは、今日も己を鼓舞する掛け声を響かせている。だが、砦の石壁の陰で短剣を握りしめる小さな娘こそ、その声をもっとも真剣に受け止めていた。
時は流れた。幼き日に剣を振るい、父の背に憧れていたヒルデガルトは、やがて娘らしい姿へと成長した。栗色の髪を整え、繊細な刺繍を施されたドレスを纏えば、その立ち居振る舞いは砦守将の娘として相応しく気品に満ちている。
だがその胸の奥には、今もあの頃と変わらぬ憧憬の炎が静かに燃えていた。
彼女の居場所は訓練場の片隅ではなく、石造りの城館の高窓であった。窓を押し開ければ、霧を含んだ朝の冷気が頬を撫で、砦の中庭を覆う白い靄が視界に広がる。
湿り気を帯びた空気に、鉄の匂いと男たちの声が滲む。下では兵士たちが槍を構え、剣を振り、声を合わせて訓練に励んでいた。
その中央に立つ父の姿を見つけ、ヒルデガルトの瞳は輝いた。齢を重ね髭には白いものが目立つようになっても、背筋は堂々と伸び声はなお雷のように響く。幼い日の記憶にある英雄の姿は、少しも色褪せてはいなかった。
「砦こそ我らの命、子らの未来を守るために立つのだ!」
兵士たちの応えは地を震わせるほどの力を持ち、霧に包まれた空へと昇っていく。窓辺に立つ娘は、その響きを胸に刻みながら、強く両手を握りしめた。
——自ら剣を執ることは許されぬ。それでもなお、心の奥底では、あの日抱いた願いを手放すことができなかった。
その朝、霧が少しずつ晴れゆくと、遠くの山々の稜線に黒い影が現れた。鳥の群れのようにも見えたが、やがてそれが規則正しく動く兵の列であることは、誰の目にも明らかだった。旗が翻り、甲冑が鈍く光り、戦の気配が霧を裂いて迫りくる。
「……敵軍だ!」
誰かの声が訓練場を走り抜け、ざわめきが広がる。瞬く間に砦は戦の気配に呑まれた。兵士たちは慌ただしく持ち場へ散り、矢を運び、門を固め、櫓に登る。砦全体が大きな獣のように目を覚まし、唸りを上げる。窓辺に立つヒルデガルトの胸は高鳴り、細い指先が震えていた。
そして、ついに戦が始まった。
角笛が鳴り、空気を切り裂くような号令が砦中に響く。山裾から押し寄せる敵軍は鬨の声を上げ、矢が空を覆い尽くす。城壁に打ち込まれる矢羽根の音が雨のように鳴り響き、兵たちの叫びと剣戟が渦を巻く。
城の窓からその光景を見つめるヒルデガルトは息を呑むばかりだった。幼い日の遊戯のような真似事ではない、本物の戦が目の前で繰り広げられている。血の匂いが霧と共に漂い、石畳に赤が滴り落ちる。彼女の心は恐怖と同時に、強い決意に似た熱を宿していった。
そのただ中に、父の姿があった。指揮を執り、兵を励まし、自ら剣を振るい敵を退ける。その堂々たる姿はなお健在であったが——戦は容赦なく、老将の身体にも苛烈な刃が迫る。
一瞬の隙を突かれ、敵の槍が鎧の隙間を貫いた。赤黒い血が滲み、ゲオルク卿の膝が石畳を打つ。兵たちの叫びが轟き、砦は騒然となった。
窓辺からそれを見たヒルデガルトの心臓は凍りつき、声にならぬ声が喉に詰まった。英雄であるはずの父が、血に染まり、地に倒れている——。
血に濡れた鎧は城の床に運び込まれた後も赤々と輝き、白布を押し当てても止まらぬ血は父の命を無情に奪い取ろうとしていた。
寝台に伏す父の姿を前に、ヒルデガルトの胸は張り裂けそうであった。幼い日からあれほど逞しく見えていたその人が、今は衰えた息遣いに呻き声を混じらせ、蒼白な顔で娘を見上げている。
「……ヒルデガルト……」
弱々しく呼ばれた名に、ヒルデガルトは駆け寄り、その手を握った。
「お父様!」
しわがれた声で、ゲオルク卿は懸命に言葉を紡いだ。
「砦を……守れ……私はもう……長くは持たぬ……」
震える手が、娘の頬に伸ばされる。その温もりはまだ確かに生きていたが、力はすでに抜け落ちていた。ヒルデガルトは必死に首を振り、涙をこらえてその手を握りしめる。
しかし、現実は容赦なく迫っていた。再び角笛の音が砦を揺らす。敵軍が息を整え、再び攻め寄せてくるのだ。兵士たちは動揺を隠せず、指揮を仰ぐべき将は床に伏している。混乱の声が砦全体を覆い、恐怖が兵たちの胸を侵食していく。
「どうする、誰が采配を執るんだ!」
「このままでは砦は落ちるぞ!」
ざわめきが乱れ、誰一人として前に進み出ようとしない。そのとき、立ち上がったのはヒルデガルトであった。
彼女は涙で濡れた瞳を拭い、ひとつ深く息を吸うと、着ていた繊細なドレスの裾を掴んだ。真白な絹とレースが床に散り、音もなく剥がれる。
人目を憚ることなく、彼女は戦装束を身に纏った。胸当てと革の腰帯を締め、幼き日に夢見た姿を現実のものとして纏う。
やがて高く結い上げた髪も乱れ、顔に血の匂いを帯びながら、彼女は堂々と兵士たちの前に歩み出た。
「これより私が指揮を執ります。父に代わり砦を守ります」
その声は澄んで鋭く、混乱する空気を切り裂いた。しかし兵士たちの反応は冷笑に満ちていた。
「何を言う、女の身で戦を知っているとでも?」
「剣を握ったこともないだろうに、采配など笑止千万だ」
嘲りの声は次々と飛び交い、彼女の勇気を踏みにじる。兵士たちの目には、令嬢が気丈に振る舞おうとする滑稽な姿にしか映らない。
しかしヒルデガルトの瞳は決して揺らがなかった。幼き日から胸に燃やしてきた憧れと願いが、今こそ彼女を立たせていた。
「女だからといって退きはしません。——砦を守る責は私が担います!」
その一声は男たちの笑い声を押し返すように、石造りの広間に響いた。
敵軍は砦を囲み、ついに巨大な影を押し出してきた。投石機が前線に組み上げられ、滑車がきしむ音と共に岩塊を抱え上げる。
石は一度放たれれば、城門を破壊し、砦内部を蹂躙する恐ろしい威力を持つ。
さらに、木組みの怪物——攻城塔もゆっくりと、しかし確実に城壁へと迫ってくる。塔の上には弓兵が並び、盾を掲げながら矢を放ち続ける。
城壁に並ぶ兵士たちの手は震え、声も小さくなる。恐怖に支配された者は顔を覆い、矢を放つ手もおぼつかない。
「門は持たん……石が砦を砕くぞ……」
恐慌に近いざわめきが砦を覆う中、高窓に立つヒルデガルトの瞳は冷静に戦局を見据えていた。
「地下水路を開きます。山からの流れを解き放てば、門前は濁流に呑まれ、攻城塔も泥に沈むでしょう」
彼女の言葉に、兵士たちは怒りと恐怖を混ぜて反発した。
「何を言う、無茶だ!」
「水路を開けば砦の中まで浸かる!」
しかしヒルデガルトはひるまなかった。父を見て学んだあの日の勇気、砦を守る誓い——それらが胸の奥で彼女を突き動かす。
「ならば、私が参ります!」
彼女は裾をたくし上げ、戦装束を整えて城館の奥へと駆け下りた。兵士たちの制止も耳に入らない。冷たい石の階段を抜け、湿った地下水路へと潜り込む。松明の灯が濡れた壁を照らし、霧のような湿気が呼吸を重くした。
やがて鎖で閉ざされた水門の前に辿り着く。うねる山水が扉を押し、重い鎖を軋ませる。ヒルデガルトは細腕に力を込め、歯を食いしばって引く。金属の軋む音が地下に響き、やがて鎖は外れ、扉が開いた瞬間——轟音と共に濁流が解き放たれた。
水は地下を駆け抜け、砦の門前から一気に吐き出される。攻城塔の巨輪は泥に沈み、揺れる木組みは轟音と共に泥に飲まれた。投石機も土砂に阻まれ、敵軍は後退を余儀なくされる。
砦の上からそれを見た兵たちは、息を呑んだ。歓声が湧き起こる。誰もが信じられぬ思いで互いの肩を叩き合い、安堵の涙を流した。
その中心に、地下から泥に濡れながら現れたのは、戦装束のヒルデガルトであった。髪は乱れ、頬は泥で汚れ、それでも瞳は誇り高く輝いていた。最初に嘲笑した兵のひとりが、声を失ったまま彼女を見つめる。
その視線を受けても、ヒルデガルトは何も言わなかった。砦の石壁に寄りかかり、父の言葉を思い出す。
——砦を守れ。
その誓いは、今や娘の手によって果たされようとしていた。
しかし息をつく間もなく、北方からさらに大軍が迫る。峠を守る砦の兵士たちは数の上で圧倒され、焦燥と不安の色を隠せなかった。
夜の霧に包まれた峠道は、敵の足音と遠くの角笛の響きで震え、兵たちは息を詰める。
ヒルデガルトは地図を広げ、兵の配置と地形を確認した。深く息をつき、決断を口にする。
「この峠を封鎖し籠城します。敵が進む道を封じれば、勝機は私たちにあります」
一瞬の沈黙。続いて不安と疑念のざわめきが広がる。
兵士たちの顔に恐怖が色濃く浮かぶ。しかし兵士たちは互いに小さく頷き、徐々に彼女の言葉に耳を傾けるようになった。
父の背を追い、幼き日から胸に抱いた憧れの炎は、今、指揮官としての威厳と実力によって認められたのだ。
彼女は剣帯を締め直し、冷たい夜風に髪を乱しながら、静かに声を張り上げる。
「不安に負ける必要はありません。私が夜間斥候を率い、敵の補給車列を襲撃します。物資を奪い、兵士たちの手に届けましょう」
月明かりの下、ヒルデガルトは兵士の小隊を率いて峠を進む。霧が足元を覆い、木々の間を抜けるたびに湿った土の匂いが鼻を打つ。敵の動向を観察し、静かに距離を詰める。
夜陰に紛れた斥候隊は、慎重かつ迅速に行動した。敵の補給車列が視界に入ると、彼女は手振りで指示を送る。弓兵は標的を狙い、軽騎兵は左右から包囲する。驚いた敵は慌てふためき、物資は瞬く間に我らの手に渡る。
襲撃は一瞬で終わり、彼女は兵士たちを率いて安全に戻った。夜明け前の峠には勝利の香りが漂う。敵は物資を失い、補給の遅れから後退を余儀なくされた。
戦の喧騒が去り、夜明けの光が峠を淡く染める頃、兵士たちは泥と血にまみれながらも安堵の息をつき、互いに目を合わせて微かに笑みを交わした。
その中で彼らは口々に彼女の名を讃える。最初は少女としてしか見ていなかった者たちも、今や明確に彼女を指揮官として認め、敬意を込めて名を呼ぶ。
「将軍ヒルデガルト!」
「砦の乙女に敬意を!」
砦の中央、塔の上にはヒルデガルトが立っていた。戦の疲れで汗に濡れた髪、泥にまみれた頬——しかしその瞳は揺らぐことなく、誇り高く澄み渡っている。
彼女は両手でロープをしっかりと握り、戦旗を掲げる。その旗には谷に咆哮する獅子の紋章が描かれており、谷間の霧を抜ける風に力強くはためいた。
眼下に広がる石壁、砦、そして自ら指揮した兵士たちの姿を見渡しながら、彼女の胸に込み上げるものは言葉にしがたい誇りと決意であった。父・ゲオルク卿の重傷はまだ癒えぬものの、彼の目に浮かぶ笑みと回復の兆しは、彼女に力を与えた。
長い戦い、迷い、恐怖、そして勝利——風に揺れる旗を見上げ、ヒルデガルトはそっと呟いた。
「——石壁よ、我が心よ」
その声は、谷間の霧を越え、石の城壁を越え、戦いを乗り越えた砦と兵士たちに新しい息吹を伝える。
風は谷を渡り、長い間封じ込められていた新しい季節の香りを運んでくる。旗がはためくたび、獅子は力強く翻った。




