二人きりのお茶会
私が寮の自室に着いたとき、荷物はすでに運び込まれていた。入学式を終えて学内を少し歩き回っていたら、思ったより時間がかかってしまったのだ。
扉の前で案内の者が一礼し、音もなくその場を離れる。静けさのなかに残された私は、胸に手を当てて深呼吸をした。これから暮らす部屋はどんなだろう——鍵を握りしめた手に力を込め、取っ手に手をかける。
扉を開くと、奥の窓際で一人の少女がカーテン越しに外を見ていた。レース越しに差す西日のなか、丁寧に編み上げられた亜麻色の髪が、淡く光を透かして揺れている。そういえば、寮は二人部屋だと聞いていた。もしかして——彼女が?
床に影を落とすその横顔は動きのない静けさを纏っていて、私が扉を閉めた音に振り向いても、表情はあまり変わらなかった。
「……あなたが、ローゼンハイネ家のご令嬢?」
名乗る前にそう言われ、私は一瞬だけ歩みを止める。けれど彼女の柔らかな調子に安堵して、にっこりと一礼を返した。
「はい、今日からご一緒させていただく、エリザベート・フォン・ローゼンハイネと申します。どうぞよろしくお願いいたします」
名乗ると、彼女はごく小さくうなずいた。その動きにも淀みはなく、まるで舞踏の所作のようだった。
「クララ・フォン・ミュルベルと申します。こちらこそ、本日からよろしくお願いいたしますね。お使いになる机とベッドは、そちらに整えられてございますよ」
示された窓際の机の上には私のトランクが寄せられ、蓋を閉じたまま控えめに置かれていた。金具が午後の光を受けてきらりと光り、その傍らには淡い花模様の筆箱や真新しい教材が整然と並んでいる。どの角にも折れや指紋ひとつなく、それらが今日という日のために用意されたものであることが伝わってくる。
奥に据えられたベッドはしわひとつなく整えられていた。淡いリネンのカバーにはほのかに薔薇の刺繍があしらわれており、母が馴染みの寝具店であつらえてくれたものだとひと目で分かった。
私はそっとお礼を言って、トランクの留め具に手をかける。けれどすぐには開けず、ふと吹き抜けてきた風に顔を上げた。
レースのカーテンがやわらかく揺れて、外から花の香りが届く。優しい風が気持ちよさそうで、つられるようにして窓辺へ歩み寄る。
そこから見えたのは、中庭に広がる薄紫の藤棚だった。まだ咲くには早い時期だけれど、風に揺れる枝の先にはふくらみかけた小さな蕾が無数に揺れている。
「……藤の花。もうすぐ咲きそうですね」
ふと声に出すと、ミュルベル嬢はそっと窓辺に目を戻しうなずいた。
「咲いたら、香りが風にのって毎朝ここまで届くのだそうです。お姉さま方が教えてくださったの。扉を開けた瞬間から、春の匂いが部屋の中に満ちるって」
「まあ、なんて素敵……。その香りを感じる朝のことを、私は長く忘れないような気がします」
思わずこぼれた言葉に、ミュルベル嬢は少し驚いたように目を瞬かせた。けれどすぐに穏やかに微笑んで、首を傾げる。
「ローゼンハイネ嬢は、まるで詩人のようですわね」
「いいえ、詩だなんて。ただ思ったままを申し上げただけで……」
その言葉に頬にかすかな熱が上って、私は慌てて弁明する。いけない、はしたないと思われたかしら。生家では感情のままの振る舞いをするとよくたしなめられた。
けれどミュルベル嬢ははっとしたように目を丸くしたあと、微笑んで首を振る。
「いいえ、なんて美しい言い回しでしょうと感激いたしましてよ。わたくし、本当に素敵だと思いましたの」
まるで、その朝の空気までもが目に浮かぶようで、と彼女は続けた。言葉の端にこもった柔らかな熱にからかう色などなく、ただ素直な賞賛が滲んでいて、私は少し戸惑いながらも言葉を返す。
「……ありがとうございます、ミュルベル嬢」
「お礼を言われるようなことではありませんわ。感じたままを申し上げただけでございますもの」
軽やかに笑う彼女の目にガラスの反射が映りこみ、湖水のような瞳をちかちかときらめかせていた。目元に浮かんだ笑みは、春を待つ窓辺の光とよく似ていた。
◆
「お疲れではございませんか、ローゼンハイネ嬢。少しお茶にいたしません?」
ミュルベル嬢がそう声をかけてくれたのは、私がトランクの中身をおおかた片付け終えたころだった。小さな丸机の上にはレースのクロスがかけられ、すでに布張りの箱と小花の模様のカップが二つ並べられていた。
「まあ……わざわざご準備してくださったのですか」
「お手伝いもできずに見ているばかりでしたもの。せめてお茶くらいはお淹れしたくて。お口に合えばよろしいのですが」
私は微笑みを返しながら椅子を引いた。向かいに座った彼女がポットに手を伸ばして傾ける。小さな音を立てて注がれた紅茶は、白いティーカップの中でゆるやかに波をつくり、琥珀色の光を宿した。
「お砂糖はお使いになりますか?」
「ええ、いただきます」
シュガーポットからスプーン一杯の砂糖を掬い、そっと紅茶に落とす。ひと口含むと柔らかな柑橘の香りが舌の奥に広がった。気持ちがゆるやかに解けていくような、ほっとする温かさが胸のあたりにとどまる。
ミュルベル嬢は机の上の布張りの箱の蓋をそっと開けると、私のほうに向けて差し出した。
「こちら、今朝出がけに家の者が持たせてくれたものでして。お屋敷のすぐ近くに、評判のお菓子屋さんがありますの。よろしければ、ぜひ召し上がってくださいませ」
見れば、中には小さな焼き菓子がいくつも並んでいる。淡いピンクの包み紙にくるまれたもの、シナモンの香りがふんわり立ちのぼるもの、砕いたナッツの飾りが愛らしく乗ったもの。どれも小ぶりで、口に入れればすぐにほどけてしまいそうな可憐なお菓子たちだった。
「まあ……どれも可愛らしいわ。まるで宝石を詰め込んだみたいですね」
私は心からの感嘆をこめて言い、一つのお菓子を取って口に運んだ。ほろりと崩れる軽やかな食感に、ほのかにバターの香りが広がる。
「とっても美味しいです!」
「気に入っていただけて嬉しいですわ。お菓子というのは、ほんのひと口で気持ちをやわらげてくれますでしょう。だから、すこし緊張しているときなどにもよくいただくんですの」
言いながら、ミュルベル嬢も小さな花のかたちの砂糖菓子をひとつ摘んだ。その仕草があまりに優雅で、私はつい見とれてしまった。
紅茶のおかわりを注ぎ合いながら、私たちは自分たちのことを話しはじめていた。好きなこと、嫌いなこと、今日ここへ来るまでのこと。そして寮での生活をどんなふうに想像していたか、そんなたわいもないことを、少しずつ。
「去年までエーレ学院にはお姉さまが在学しておりましたから、学院のことは少しだけ知っていて……不安も人よりは少ない方だったと思いますの。でも、今日からあなたがいてくださると思うと、もっと心強いですわ」
ミュルベル嬢はにこりと微笑み、湯気の立つカップを両手で包み込んだ。その無垢なやさしさに私もつられるように笑みを返す。
「私も、ミュルベル嬢がいらしてくださって嬉しいです。こうしてお話ししていると、これからの毎日がいっそう待ち遠しいわ」
そっとティーカップを持ち上げる。甘くかぐわしい紅茶の香りが、胸の奥までやさしく沁みてゆくようだった。
「ローゼンハイネ嬢には、ごきょうだいは?」
その問いかけに、一瞬、喉の奥がぴくりと反応した。きょうだい——なんて懐かしい響きだろう。遠い日の声が、ふいに耳の奥でよみがえった。
「兄がひとりおります。三つ上で、いまは士官学校に」
「まあ。では、軍に?」
「ええ、いずれは。父も陸軍におりますから」
言いながらふと視線が手元に落ちた。紅茶の表面に自分の顔が揺れていた。ゆらゆらと波打つその輪郭はどこか頼りない。
「ご立派ですわね。お兄様とは仲がよろしいんですの?」
変わらず穏やかにミュルベル嬢は言った。答えるにはごく普通のことのはずなのに、私はまっすぐに彼女の目を見られなかった。
「……昔は、よく一緒に遊びました。でも士官学校は全寮制ですから、今はほとんど顔を合わせていなくて。手紙もあまり……」
語尾がかすかに揺れる。つないでいた指先を、そっと解いて膝に置いた。
……士官学校から時折屋敷に届く便箋の文字は整いすぎていて、必要なことしか書かれていない。健康でいるとか、試験に合格したとか、淡々と報せるだけのそれは、兄ではない知らない誰かが書いたようにも思える。
子どものころはあんなに近かったのに——そんなふうに思い出そうとすると、まるで霧の中に手を伸ばすようで、確かだったはずの記憶の輪郭すらあやふやになってしまう。
今の兄が、何を思い、何を望んでいるのか。どんなふうに過ごして、どんなふうに私のことを見ているのか。わからない。
私より先に生まれ、先に世間を知った兄は、きっともう、私よりもずっと遠くへ行ってしまったのだと思う。
「まじめで立派な人なんです。小さいころは、よく庭で私のために花を摘んでくれました。——いまでは、もうそんなこと、なさらないでしょうけれど」
そこまで言って、はっと唇を閉じた。こんなこと、言うつもりじゃなかったのに。思っていたとしても、言葉にするつもりなどなかった。まるで油断した拍子に小石を蹴ってしまったように、本音がぽろりと落ちてしまった。
「……ごめんなさい、変なことを申しました」
かすかに笑ってごまかそうとした私に、ミュルベル嬢は首を横に振り、そっと言った。
「……わたくし、あなたのお兄様にお目にかかったことはありませんけれど」
そこまで言って、彼女は柔らかく微笑んだ。
「お兄様も、きっとあなたのことを誇りに思っていらっしゃるでしょうね。こんなに生き生きした妹さんですもの」
ほんの少しだけ身を乗り出すようにして、彼女は私の顔をのぞき込んだ。その仕草には押しつけがましさも詮索じみたものもなくて、ただこちらを気遣うひとひらの風のようなやさしさがあった。
私は何も返せずに目を瞬いた。すぐには言葉が出てこなかった。言えそうな気もしたけれど、言えばなにかが崩れてしまいそうで、できなかった。
「……ありがとう」
沈黙ののち、私の口からでた言葉はそれだけだった。頬のあたりがほんの少しだけ熱くなっていた。
「よろしければ、わたくしのことはクララと呼んでくださいませ。名字ばかりでは堅苦しゅうございますでしょう?」
「ええ……では、クララ」
初めて呼ぶその音の感触に、ほんの少しだけ胸の奥が波立つ。その波はおだやかに広がって、やさしい余韻だけを残していく。クララはうれしそうに目を細めて微笑むと、そっと手を伸ばし、私の手の上に自分の指先を重ねた。
「ありがとう、エリザベート。わたくしも、これからはそうお呼びしてもよろしいかしら?」
「もちろんよ。そのほうがずっと素敵だわ」
やわらかな声が、ふわりと私の名前を包んだ。形を与えられたその響きが、ようやくこの場に根づいてゆくのを感じる。
いつか春がほんとうに訪れたら、彼女と並んで、朝の空気の中に咲きたての香りを感じたい。その朝を、私はきっと生涯忘れずにいるだろう。
窓の外では、夕映えがゆっくりと石壁を朱に染め始めていた。ここでの最初の夜がもうすぐ訪れようとしている。私の暮らしは確かに変わりはじめていた。けれど、それを少しも怖いことのようには思わない。
だってこの世界には、まだ知らないことがたくさんある。扉の向こうにも、風の彼方にも、私の知らない朝が待っている。そのすべてに、いつかこの手で触れてみたいのだ。




