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未来へ続く願い

 日はすっかり落ち、窓の外は藍色に沈んでいた。執務室の机には書類の束とインク壺、それに二つの湯気の消えかけたティーカップが置かれている。

 紙の上を走る万年筆の音と、時折アルフレートが紙をめくる音だけが部屋に満ちていた。


「ここはもっと強く打ち出したほうがいい」


 アルフレートが書きかけの草案を指で押さえながら言う。


「『建国祭は王国の礎を築いたすべての人々を称える行事である』。この文を冒頭に置こう。これが芯になる」


「わかったわ」


 私は新しい紙を引き寄せ、彼の言葉をなぞるように書き写す。その文字が並ぶほどに、この企画の輪郭が少しずつくっきりしていくのがわかる。


「次に公募の意義を明確にする。宮廷声楽家や貴族の推薦者だけでは、建国祭の精神が一部しか表現できないと説明するんだ」


「……農民も、職人も、兵士も、それぞれの立場で王国を支えてきた。その精神を再現することが、本当の意味で建国を偲ぶ祝祭になる……そんな感じかしら」


 私たちは文章を組み立てながら、反発をどう和らげるかも考える。全員を公募にすれば貴族層から必ず反発が出る。けれど——。


「数名を公募から選び、残りは従来通りの選出者で構成する。これなら保守的な人たちも納得しやすいはずだ」


 アルフレートはそう言って、公募枠の割合を紙に図として描いた。


「それに、公募となれば民衆の関心は高まるわ。きっと噂も広がって……建国祭への期待が大きくなる」


「そこも資料に入れよう。関心と支持の向上、民衆の士気の高まり。人は数字と効果に弱いからね」


 机の上で何枚もの紙が入れ替わり、推敲を重ねた文章が積み重なっていく。時折、二人して文の語尾を巡って議論し、書き直し、また笑い合う。やがて最後の一文を書き終えたとき、机の端には整然と綴じられた一束の資料が置かれていた。


「……通るかしら」


 私は深く息をつき、背もたれに身を預ける。長い時間をかけたけれど、受け入れられる保証はない。


 アルフレートは万年筆を置き、私の方を見てわずかに口元を緩める。


「通すさ。僕たちで作ったんだ、通らないはずがない」



 ◆



 交渉の日は、朝から空が澄み渡っていた。街の通りには花の香りが漂い、石畳に落ちる影はくっきりと長い。

 その日、私たちは練り上げた提案資料を抱えて、文化省の長い廊下を進んでいた。壁には歴代の大臣や功績ある芸術家の肖像画が並び、窓から差し込む昼前の光が古い絨毯の色を淡く照らしている。足音は厚い織物に吸い込まれ、遠くで扉の開閉音がかすかに響いた。


 手に抱えた資料の束が少し重く感じられたのは、紙の重さというより、これから向かう場の重みのせいだろう。そんなとき、ふと胸の奥からひとつの疑問が浮かび上がった。


「ねえ、あなたが私のオペレッタを推薦してくれた時は、どうやって説得したの?」


 ほんの一瞬、彼の歩みがごくわずかに遅くなった気がした。けれどすぐに元の速度に戻り、前方を見据えたまま低く笑う。


「あれは大変だったな。上層部を三日三晩部屋に閉じこめて口説き続けたんだ」


 あまりに予想外な言葉に、腕に抱えていた資料を思わず握り直す。紙の端が指先に食い込み、歩みが一瞬途切れそうになる。

 アルフレートはその反応を見逃さず、振り返りはしないものの、前を向いたまま片方の口角だけをわずかに引き上げる気配を見せた。


「冗談だよ」


 軽く投げられた言葉は、廊下の静けさにさらりと溶けていく。けれど、その口調の裏に本当のところが隠れていても不思議ではない——この人なら、本当にやりかねない。そんな確信めいた想像が、胸の奥で小さく息を潜める。


 何にせよ、そのくらいの覚悟を持って挑まなければならないのだと思った。机上の理屈だけでは動かない相手に、どこまで踏み込み、どこまで言葉を尽くせるか。それは生半可な気持ちでは到底届かない。


 廊下の先、突き当たりには重厚な両開きの扉が待っていた。彫り込まれた蔦模様は、まるでこれから挑む交渉の堅牢さを象徴しているかのようだった。

 高い天井の下で、私たちの靴音だけが澄んだ響きをもって延びていく。歩調は自然と揃い、互いに無言のままその扉へと近づいていった。


 扉の向こうに足を踏み入れた瞬間、空気の密度がわずかに変わる。厚い絨毯の沈み込みと、机を挟んで並ぶ顔ぶれの視線が、否応なしにこちらの胸を引き締めた。そこには文化省の上層部に加え、儀典局の重鎮たちが揃っていた。


 やり取りは案の定容易ではなかった。こちらが一つ理由を挙げれば、相手は二つの懸念を並べ立てる。重鎮たちは一度顔を曇らせれば、そこから首を縦に振らせるのに倍以上の労力を要する。

 私は何度も深呼吸をし、アルフレートと短く視線を交わしてから、別の角度から話を切り出した。彼もまた、相手の眉の動きを逃さず拾い上げ、言葉を重ねていく。


 説得は何度も行き詰まりかけ、そのたびに互いが互いを支え合うようにして切り抜けた。やがて、ようやく「検討」という言葉が口にされたとき、私たちはほとんど同時に肩の力を抜いた。

 決して承認ではない。それでも、ここまで漕ぎつけたこと自体、大きな前進だという実感があった。


 さらに幸いなことに、題材そのものについては反対の声は上がらなかった。私が提案したヒルデガルト・フォン・ヴェルシュタインの名が出ると、ある白髪の官僚が眼鏡越しに小さくうなずいた。


「立派な人物ですな。陸軍ともゆかりが深いし、観兵式とも好相性だ」


 別の官僚が机上の書類を軽く指先で叩き、口元にわずかな笑みを添えて続ける。


「ローゼンハイネ嬢のお父上は、陸軍第一師団の参謀長を務めておられましたね。こうした題材なら、お喜びになられるのでは?」


 唐突に父の肩書が口にされ、心臓がひとつ脈を強めた。視線がわずかに揺れるのを、自分でも抑えきれなかった。

 けれど、ここで表情を変えるべきではない——そう思い直し、息を整えてから答える。


「……そうだとよろしいのですけれど」


 努めて穏やかに、語尾まで崩さぬように返す。しかし、心の奥底では別の思いがふくらんでいた。

 父は家の名誉と軍務を何よりも重んじる人だ。帰国してからというもの、舞台に立つことを面と向かって否定されたことはないが、真に賛同しているとも感じられなかった。

 その立場からすれば、この公演も単なる戯れと映るかもしれない。そう考えた瞬間、胸の奥に小さな影が落ちるのを感じた。



 ◆



「今回は閉じ込めずに済んでよかったよ」


 庭園のガーデンチェアに腰を下ろすなり、アルフレートは肩の力を抜いた声でそんなことを言った。

 長い交渉を終えたのはちょうど昼を過ぎたころで、私たちは文化省の近くにあるベーカリーで昼食を買い求めた。バゲットの香ばしい匂いや、バターをたっぷり含んだクロワッサンの甘い香りが袋から漂ってくる。


『せっかく天気がいいから、外で食べましょう』


 そう言い出したのは私だった。緊張がようやくほどけたせいか、昼の光がやけに柔らかく、風も心地いいように思えたのだ。


「……やっぱり本当にやったんじゃないでしょうね」


 私はバゲットを袋から取り出しながら、ちらりと彼を横目で見る。


「さあ、どうだったかな」


 軽く片眉を上げるその表情は、否定とも肯定ともつかない。答える気などさらさらない様子に胸の奥がむずがゆくなるが、確かめようとすればするほど、きっとこの人は口を割らないのだろう。


「……まあ、いいわ」


 軽く息をついて、代わりに焼きたてのバゲットサンドをひと口かじる。バジルとチーズの香りが口いっぱいに広がり、自然と表情が緩んだ。


「題材も認めてもらえたし、公募の件も検討に値するところまで持っていけた。上出来だよ」


 彼は紙袋からクロワッサンを取り出しながら、ほっとしたような口調でそう言った。その声に、胸の奥で小さな安堵が広がる。


「これで脚本も本格的に進められる。あとは君の腕の見せどころだ」


「……がんばるわ」


 小さく返して、視線を空に向ける。青がどこまでも澄んでいて、まるで何の曇りもない未来みたいに見える。

 準備は順調に進んでいて、交渉も成果を出した。あとは、やるべきことをやるだけ——。


 けれどその時ふと、ひとすじの影のような思いが胸をよぎった。

 私たちは今、建国祭記念公演の劇作家兼主演と、統括の担当官としてここにいる。同じ目的に向かって言葉を交わし、歩を並べてきた。

 だけど——ひとたび舞台の幕が下りれば、この関係はそこで役目を終えてしまうのだろうか。


 ……そのときになってしまえば、もうアルフレートに会う理由はなくなってしまうのだろうか?


「エリザベート?」


 隣から優しい声がかかって、はっと我に返った。慌てて顔を上げると、アルフレートがほんの少し身を乗り出して私の顔を覗いている。


「どうかした?」


 柔らかく響いたその声に、私は思わず視線を逸らした。心のなかで揺れている感情を知られたくなくて、咄嗟に笑顔を作って誤魔化す。


「なんでもないのよ」


 言葉は小さく震えていたけれど、必死に平静を装った。こう言えばもうこれで終わるだろうと思っていたのに、アルフレートは変わらずじっと私の顔を見つめている。


「本当に?」


 彼はまた少し身を乗り出すようにして、もう一度だけ問いかけた。その言葉に心臓が大きく脈を打つ。

 深く澄んだ瞳は私の表情をじっと捉え、まるで言葉にしなくても、考えていたことを全部見透かされてしまいそうで怖かった。


「本当よ。ただ、その……」


 慌てて言葉を繋ごうとするけれど、どうしても上手くまとまらなくて、焦ったまま口を開く。


「そう、建国祭がずっと続けばいいのにって思っただけ……」


 言い終えた瞬間、思わず顔が熱くなった。そんなこと、あり得るはずもない。変なことを言ってしまった、と思うのに、もう取り繕う余裕はなかった。

 慌てて目を伏せると、ぽかぽかと暖かな日差しが優しく頬を撫でる。庭の緑がゆらゆらと揺れていて、空はどこまでも澄み渡っている。こんなにも穏やかな昼下がりの中で、胸の中だけがこんなに騒がしい。


「……それはちょっと、財務省が悲鳴をあげそうだな」


 アルフレートはそう言って、ふっと軽く笑った。力の抜けた響きに、私も思わず声を上げて笑ってしまう。ほっとした空気が胸を満たし、自然と緊張の糸がゆるゆると解けていくようだった。


 そのときふと、胸の内に小さな波紋が広がるのを感じた。ずっと言葉にできずにしまい込んでいた想いが、少しずつ輪郭を結んでいくのを感じる。

 ああ、私、ずっとこうしていたいんだ。アルフレートと隣に並んで、ささやかな話を続けていたい。


 目の前の彼が、ただ隣にいるだけで心が満たされる。何気ない笑顔、軽やかな仕草、穏やかな声の響き。

 そのすべてが私にとっての宝物だったのだと、胸の奥で震えるように気づいた。逃げようとしていた気持ちが、柔らかく優しい光に照らされてほどけていく。

 どうして今まで気づかなかったのだろう。自分の心の不器用さに、ついまた笑いがこみ上げてくる。


「ねえ、アルフレート」


 まだ微かに笑みを湛えながら、声を震わせずに言葉を紡ぐ。こんなに自然に、そしてこんなにも心が軽くなるのは久しぶりだった。顔を少し上げて彼の瞳を覗き込むと、その真っ直ぐなまなざしに自分の想いが溶けていくのがわかった。

 

「私、あなたといるとすごく楽しいのよ」


 アルフレートの瞳が一瞬だけ揺らいだ気がして、その瞬間、私の心も揺れた。澄んだ瞳に曇りなく真っ直ぐな光が宿り、私の想いをやさしく受け止めてくれているのがわかった。


「僕も君といると退屈しないよ、エリザベート」


 言葉に、胸の奥にぽっと温かな灯がともるのを感じる。まるで長い冬の終わりに、ひだまりの陽射しがそっと頬を撫でるように。

 こうして隣で穏やかな時間を重ねていけたら、どんなにか幸せだろう。どれほど難しいことかはわかっていても、そう願わずにはいられない。

 これまでに流した涙の重さに、ふと立ち止まりそうになることもある。だけど先に怯えて、いま手にしている小さな幸福を台無しにするなんて、そんなことはしたくなかった。

 過去がどうであれ、未来にどんなことが待っていようと、今ここでアルフレートが隣にいることに嘘はない。彼の瞳が私を映し、その声が私の名前を呼ぶ——それはたしかに、いまこの瞬間の真実なのだ。


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