再会と創作
——日ごとに陽射しが強まり、木陰に入ると風の涼しさにほっとするような日が続いています。お元気でお過ごしでしょうか。
長らく筆を取れずにおりましたことを、どうかお許しください。
帰国してからの日々は、慣れ親しんだ景色の中で、自分の心と向き合う時間でもありました。
日々を重ねながら、自分がこれからどこに立ち、どこへ向かうべきかを問い続けてまいりました。
けれど今、ようやく一つの道を思い定めることができたように思います。
このたび、建国祭において、私が手がけた新作のオペレッタを上演させていただける運びとなりました。
夢のようなお話ですが、目の前に差し出されたこの機会を、私は精一杯受け止めたいと思っています。
私はこの国で、私の夢を叶えます。
私には、たくさんの人々の支えがありました。言葉にならない孤独を誰かの一節が救い、霧の向こうにある光を誰かのまなざしが照らしてくれました。
あのとき、あなたが私に向けてくれた眼差しも、またその一つです。
オペレッタという世界を教えてくださったこと、そして共に舞台を作ってくださった日々を、私はずっと忘れません。
心からの感謝を、この手紙に添えてお伝え申し上げます。
どうかあなたのこれからの日々が、健やかで穏やかでありますように。
遠く離れていても、あなたが幸せであることを願っております。
敬具
エリザベート・フォン・ローゼンハイネ
◆
「それでね、建国祭に上演するわけだし、やっぱり国の成り立ちに貢献したような英雄の話がいいんじゃないかと思うの」
机の上に軽く手を添えたまま、私はアルフレートにそう言った。
閲覧室の窓は少しだけ開いていて、古い硝子越しに午前の陽ざしが木の葉の揺れを映している。
建国祭で私のオペレッタを上演させていただけることが決まってから、私はほぼ毎日のように文化芸術局へ足を運んでいる。まずは、建国祭という大きな祝典にふさわしい物語を紡ぐための題材を見つけること。それが私とアルフレートの最初の課題だった。
「建国の英雄となると、たとえばラミュエル将軍とか、マリア・ヴァルトフート、あるいはヨアヒム・ハルツ……あたりかな」
静かな声でいくつかの名を挙げながら、アルフレートは書棚のほうへ目を向けた。名前はどれも耳にしたことがあるものばかりだったけれど、頭の中にはっきりとした像は浮かばない。
私が曖昧に首を傾げていると、アルフレートが苦笑まじりに言った。
「王国史の基礎で習うはずだけど」
「それじゃあ私、忘れちゃったみたいね」
苦笑いを返しながら答えると、彼は少し肩の力を抜いて笑う。
「じゃ、学び直すにはちょうどいい機会だ」
そう言ってアルフレートは書棚に歩み寄り、背表紙を指でなぞるようにして数冊を見てまわった。そして厚みのある革表紙の一冊を抜き出すと、埃を払って私の机の上にそっと置いた。
「この本ならきっと退屈しないと思うよ。建国期にまつわる人物が割と読みやすくまとめられてる」
差し出された革表紙は濃い青色で、表題は金の箔押し。長年の重みによるものか、角がやや丸くなっている。
「ありがとう。お言葉に甘えて、少しお勉強させてもらうわ」
私は本の表紙をゆっくりと開いた。厚手の紙が一枚ずつ指先に心地よくかかる。
最初に目に飛び込んできたのは、ラミュエル将軍についての記述だった。峠を守る砦の司令官として、遊牧系の傭兵団との幾度もの攻防を指揮した人物。
北東の峠道は、王国成立以前から侵略を受けやすい場所だったという。遊牧系の軍勢や傭兵団が季節の移り変わりと共に南下し、狭く曲がりくねった山道を抜けて、山岳地帯の村々を襲った。
ラミュエル将軍はその要衝に築かれた石造りの砦に拠り、少数の兵を率いて繰り返される侵攻に耐え抜いたと記されている。
国の礎を築いた者のひとり。きっと尊敬に値する人だったのだろう。けれど舞台の上で彼がどんな言葉を発し、どんな苦悩を抱え、誰と何を選び取るのか。その姿まではまだ見えてこない。
それに今回の記念公演では、主演を私が務めるようにとの話がすでに通っている。ラミュエル将軍のような壮年の戦士を私が演じるというのは……どうにも想像がつかなかった。
物語にふさわしい人物であるだけでなく、私自身がその役を生きられるかどうか。それもまた、題材を選ぶ上で大きな鍵になる。
頁をめくると、今度は海の話が現れた。
シルマ湾海戦。私の目は、その見出しの上でしばらく止まる。
交易都市の港を襲撃しようとした敵艦十隻に対し、王国側はわずか四隻で迎え撃ったという。艦隊を率いていたのは、マリア・ヴァルトフートという女性の船長だった。潮の流れを読み、入江に敵艦を誘い込んだ上で包囲し、一隻ずつ撃沈したとある。
この勝利によって北海の交易路は安全を取り戻し、王国はのちに商業の黄金期と呼ばれる時代へと進んでいったという。
まさに英雄と呼ばれるにふさわしい偉業だった。冷静な判断力と、揺るがぬ胆力。
……なのに、心はなぜかそれほど強く動かない。
私は手を止め、本の角をなぞるように撫でた。どうしてなのだろう。どの名前にも、何かが足りない気がする。十分に立派な偉人たちなのに、どこか舞台の上で演じるには遠い気がしてしまうのだ。
次の頁、さらに次の頁と、私は指先でゆっくりと紙を繰りながら思った。この物語は、ただ歴史をなぞるためのものじゃない。
建国祭に捧げるという重みを持ちながらも、その場に立つ私が心の底から言葉を発せられるような……そんな意味を持つ人物を見つけたいのだ。
頁をもう一枚、めくったところだった。
——ヒルデガルト・フォン・ヴェルシュタイン。
山岳地帯の要衝ヴェルシュタイン砦。その名を冠した砦の守将の娘として生まれ、負傷した父に代わり指揮を執り砦を守り抜いた人物だという。
私はなぜか彼女の記述にすぐに目を奪われて、その行を指先でそっとなぞった。
投石機による城門破壊を試みた敵に対して、ヒルデガルトは地下の水路を開放し、ぬかるみをつくり敵の攻城塔を沈めた。
ホルン峠の戦いでは、北から迫る大軍に対し、彼女は峠道を封鎖して籠城を決断。補給が断たれ兵たちの間に不安が広がる中、彼女は自ら夜間斥候を率い、敵の補給車列を襲撃して物資を奪取した。
記録によれば、彼女が初めて指揮を執ったとき、砦の兵たちの多くはその決定に難色を示したらしい。娘に何ができる、と。
けれど結果が全てだった。砦は陥ちず兵たちは生き延びた。やがて反対の声は聞こえなくなり、彼女の命令には誰もが迷いなく従ったという。
頁の隅には、彼女の軍旗が載っていた。谷に咆哮する獅子。その獅子の意匠は、やがて王国陸軍の山岳旅団の紋章となった。
想像する。砦の石壁にもたれて、凍てつく夜にひとり目を閉じる彼女の姿を。風の音に紛れて聞こえてくる遠い蹄の響き、震える兵士たちの沈黙の奥で、それでも崩れぬよう胸に刻まれた命の重さを。
私は思った。
この人の物語なら、語れるかもしれない。演じることができるかもしれない。
それはただの個人的な好みかもしれないし、演じ手としての直感かもしれなかった。それでも、歴史に残る火種を今再び、ひとときだけでも燃やしてみせることができたなら——。
「ねえ、アルフレート。この人のことどう思う?」
私は少しだけ緊張を隠しながら、開いた頁をそっと彼のほうへ差し出した。指の先には、獅子の紋とともに刻まれた名がある。——ヒルデガルト・フォン・ヴェルシュタイン。
アルフレートは椅子に深くもたれたままそれを一瞥した。ほんの一秒かそこら。しかし頁に書かれた文字を読み込むより早く、彼の口は動き出していた。
「ああ、軍史を語る上では外せない名前だよ。ヴェルシュタイン砦の攻防戦、ホルン峠の夜襲、地下水路の戦術……あれは地形と水路の知識がなければ不可能だったはずだ。書簡を見る限り、同時代の兵たちの信望も厚かったらしい」
私は目の前の彼の姿を思わず見つめてしまっていた。名前を見ただけでここまで語れるなんて。いや、きっと彼にとっては語るというより、思い出したに近いのだろう。
「知っていたのね」
「もちろん。王国の北辺を守り抜いた名将だ。功績は一級だし、文献も豊富だよ。建国祭に十分ふさわしい人物だと思う」
「ほんとうに? 異論なし?」
思わず身を乗り出してしまう。表情だって、きっと必死な顔をしていたに違いない。けれど彼は否定しなかった。微笑みを深めて、首を縦に振った。
「君の決めたことなら、僕は最初から反対するつもりはないよ」
その口調に迷いはない。けれどそのあとに、ふと思いついたように彼は言葉を継ぐ。
「仮に反対したところで、君は僕を置いて勝手に書き始めるだろうし」
その声色に、わずかに眉をひそめた。
やっぱりこの人はすぐにそうやって、真顔で言いながらこっそり笑っているような言い回しを選んで、私の反応を探るように軽くからかう。その癖は昔から変わらない。
だけど私は、もうそれに目くじらを立てて言い返すような子どもじゃない。
「そんなことしないわ。だって、統括の担当官さまの意見を聞き入れないだなんて……怖くて、とてもとても」
さらりとした口調で返しながら、わざとらしく肩をすくめてみせると、アルフレートはほんの一瞬眉を上げ、それから堪えきれないといったふうに笑った。
……こうしてふたりで笑い合うのは、いったいどれほどぶりだろう。言葉にすればありふれた冗談でも、またこうして話ができていることがたまらなく嬉しい。
私はそっと息をついて、本を閉じた。机の上に戻したその背表紙には金のかすれた文字で、建国初期人物誌と刻まれている。
これで決まった。今回のオペレッタの題材はヒルデガルト・フォン・ヴェルシュタイン——山岳要塞の守護者。
「……じゃあ、これで題材は決まりね」
私がそっと一言そう告げると、アルフレートは深くうなずいた。軽々しくない、その頷きの重さが嬉しかった。
それから、私は少しだけ身を乗り出し声の調子を変える。話が決まった今だからこそ、もうひとつぜひとも聞いてもらいたいことがあった。
「……それと、アルフレート」
「うん?」
「担当官さまに、ぜひお願いしたいことがあるの」
言いながら、私は姿勢を少しだけ正した。冗談まじりだったやりとりの空気がすっと変わるのを自分でも感じる。
アルフレートもその気配を察したのか、穏やかな笑みを引きながら、少し真面目な表情に戻った。
「今回のオペレッタ……役者はすべて、公募で決めたいの」
言葉にするその瞬間まで迷いがなかったとは言えないけれど、それでも口にしたときには、もう決めていた。
どんな反応が返ってくるか予想はついていたし、案の定、アルフレートは眉をひそめた。反対というよりは、少し考えるような表情だった。
「どんな背景の人でも、どんな立場の人でもいい。その人自身の実力と、舞台に立ちたいという意志で選びたいの」
私が言い終えると、アルフレートは一息おいて、目を見つめ返しながらやや慎重に言った。
「……建国祭の公演となると、伝統的な手順や慣例がある。国王陛下と王妃陛下の御前となれば、起用されるのは貴族層からの推薦か、オペラ座の専属歌手だよ。もしくは宮廷での実績がある声楽家……ごく限られた、いわば“間違いのない顔ぶれ”から選ばれてきた」
「そうね。だからこそ、変えたいの」
私はすぐに言い返した。勢いだけで押し切るのではなく、言葉を選びながらまっすぐに。
「身分で決まる世界がどれほど不公平で、どれほど人の可能性を狭めているか、私もあなたもよく知っている。夢を叶えるのに、生まれや立場は関係ないということを、この舞台で証明したいの」
思いの丈を丁寧に紡ぐようにして伝える。熱意はできるだけ穏やかに、けれど揺るがぬ芯を込めて。
アルフレートはすぐには答えなかった。けれど視線の奥に浮かぶ色が、静かに変わっていくのを私は見た。
思慮深いその目が、私の提案を真剣に受けとめようとしているのがわかる。
「……なるほど」
ようやく落とされたその言葉は、否定でも肯定でもなかった。けれど、その声色にはわずかな笑みが滲んでいた。
「さすが、勝手に書き始める人は発想も自由だ」
ふっと笑いながらそう言うその顔に、私もつられるように微笑んだ。
「お願い担当官さま。どうか、反対だけはしないで」
「反対するつもりはないよ」
彼は即座にそう言ってくれた。けれどそのあとで、少し困ったような苦笑いを浮かべる。
「ただし、関係各所の説得は大変になる。君は僕の仕事をこれ以上増やそうとしてるんだな?」
やれやれとでも言うようなその表情に、私は少しだけ唇を結んでしっかりと彼の目を見上げた。
「それでも、あなたとならできると思うの」
揺るがぬ想いをこめて言ったその言葉に、アルフレートの目がわずかに見開かれた。それから何かを飲み込むように目を伏せて、次に顔を上げたときには、彼の瞳の奥に確かな決意の光が宿っていた。
「よし、やってみよう。前例がなければ、前例にするまでだ」
その一言が、私の胸の奥に真っ直ぐ届いた。
長く難しいことになるかもしれない。誰かに非難されるかもしれない。それでも、きっとこの人はやり遂げる。そう思えるだけの信頼が私にはあった。
机の上に広がるのは、まだ白いままの原稿用紙。私たちはこれから、その上になんでも描くことができるのだ。




