表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
76/101

名もなき推挙者

 翌朝目を覚ましたとき、最初に思い出したのはあの手紙の文面だった。

 夢ではなかった。机にはあの封筒と便箋がまだきちんと置かれていて、封蝋の赤も政府の紋章も、現実のものとして私を見つめ返していた。


 どうしても心のどこかで信じきれずにいた。あまりに突然で現実離れしていて、まるで舞台の筋書きのようだったから。

 私はただの貴族の娘であり、劇作家としてはほんのひよっこでしかない。なのに——どうして、私に。


 それでも、私は行かなくてはならなかった。

 王国文化省からの正式な招待状。それを黙って放り出すような無礼は許されないし、それ以上に、もしこれが本当に新たな扉ならば——私はそれを自分の手で開きたいと思う。


 午前十時を少し回った頃、私は屋敷を出た。いつもの馬車に乗り込み、ゆっくりと石畳を進んでいく。窓の外に流れる王都の景色は何ひとつ変わらないのに、胸の奥に広がる感覚だけが昨日までとはまるで別のもののようだった。


 文化省の建物は、王宮の外郭からそう遠くない場所にあった。白く磨かれた大理石の外壁と、威厳ある列柱。高いアーチの門をくぐるとまっすぐな石畳の道が伸びていて、両脇には青々とした芝が整えられていた。


 玄関で馬車を降りるとすぐに案内係が現れた。私が少し緊張しながら名を告げると、係の方は驚いた様子を見せることもなく、ごく自然に「お待ちしておりました」と言って一礼し、私を中へと案内した。


 館内は静かで、外の眩しさとは対照的に少しひんやりとした空気が漂っていた。高い天井には装飾の施された漆喰が美しく広がり、長い回廊には省の職員らしき人々が時折行き交っていたが、皆口数少なく整然としていた。

「こちらでお待ちくださいませ」と案内された応接室は、こぢんまりとした部屋ながらも、椅子や書棚のひとつひとつに品格が感じられる空間だった。深い緑のカーテンの隙間から差し込む光が手袋に淡く影を落としている。


 応接室の時計の針が一つ、音もなく進んだ頃だった。控えめなノックの音がして、扉が開いた。

 

 現れたのは五十代ほどの、背筋の伸びた男性だった。深緑の仕立ての良い上衣に、控えめな銀の刺繍が施された飾緒。威圧感はないが重みのある佇まいに、私は思わず椅子から背を離し身を正す。


「お待たせいたしました、ローゼンハイネ伯爵令嬢。文化芸術局長のエルマー・フォン・グリュックでございます」


 彼は軽く会釈をしながら、私の正面の椅子へと腰を下ろした。その動作は洗練されていたが、どこか温かみのあるものでもあり、緊張しきっていた私の肩の力がほんの少しだけ抜けた。


「まずは、突然のお呼び立てとなってしまったことをお詫び申し上げます。本日はお越しいただき、誠にありがとうございます」


 彼は礼儀正しく丁寧に頭を下げた。私もそれに倣って深く一礼し、改めて椅子に腰を下ろす。


「今回の建国祭の記念公演につきまして、貴嬢にぜひ脚本と主演をお引き受けいただきたく、正式にお願い申し上げます。承諾していただける、ということでよろしいでしょうか?」


 静かに告げられたその問いは、まるで水面に一滴落ちる雫のようだった。穏やかに、それでいて決定的に胸の深いところに波紋を広げていく。

 目の前の局長のまなざしは真摯で、威圧ではなく、ひとりの創り手としての私に向けられた問いかけだった。


 私はそっと息を吸い、静かに頷いた。


「……はい。光栄に存じます。喜んでお引き受けいたします」


 口にしたのは覚悟の響きだった。自らの足で選び取ったこの道を、さらにもう一歩先へと進めるなら、迷う理由はない。

 夢を語ることすらためらっていた私に、いつも誰かが道を開いてくれた。私はいま、その手や心に応える術があるのだ。


 局長は穏やかな笑みを浮かべると、傍らの鞄から書類を数枚取り出した。


「ありがとうございます。公演は建国祭の夜、王立フェルディナント劇場にて行われます。国王陛下と王妃陛下がご臨席されることも、すでに内定しております」


「……王宮の、すぐ傍の……あの劇場で……」


 思わず、小さく呟いていた。

 その名を知っている。あの由緒ある王立劇場。貴族階級の観客を主に迎える格式高い舞台で、私がかつて立ったどの劇場よりも、ずっと大きく、ずっと重い意味をもつ。


「劇場側とはすでに連携が取れております。舞台装置、楽団、稽古場の確保、衣裳の手配なども、文化省が責任をもって支援いたします」


 局長は資料の一部を私のほうに押し出しながら、丁寧に説明を続けていた。ひとつひとつの言葉が、公演という大きな船を水面に浮かべるための確かな足場を築いてゆく。

 国を挙げて行われる建国祭。その夜に上演されるたった一度の舞台に、どれだけ多くの人と力が関わるかを思うと、胸の内に確かな熱が宿ってくる。


「今後の具体的なやり取りにつきましては、専任の担当官を通して詳細を詰めていく形となります。いずれにせよ、本日こうしてお話ができたことは、我々にとってもたいへん光栄です」


 ひと通りの説明が終わり、卓上の資料を整えると、局長は一息ついたようにティーカップに手を伸ばした。そして紅茶を一口含むと、ふと何かを思い出したように、柔らかな声で続けた。


「……ところで、これはあくまで余談になるのですが」


 不意に変わった語調に、私は身を正す。


「実は今回の一件は、我々文化芸術局の若い官僚が強く進言したのですよ」


 その言葉に、私はわずかにまばたきをした。


「進言、ですか?」


「ええ。正直、前例がないことでしたから、上層部では慎重な意見も多く、かなりの議論になりましてね。しかし、彼が押し通したのです。大変な熱意でしたよ」


 局長の語り口は穏やかだったが、その内容は、私の中に小さなざわめきを生む。

 この国で、まだ殆ど名も知られていないオペレッタの上演を、しかも貴族の娘に任せるという決定。その影には誰かの確かな意志と、揺るがぬ働きかけがあったというのだ。


 静かだったはずの胸が、にわかに脈打ち始めた。


「なかなかの才覚です。文化芸術局でも若手の筆頭と見なされておりましてね。聞けば、王立エーレ学院を首席で卒業したとか」


 その言葉を耳にした瞬間、私の中の時が、ふと止まる。


 誰にも気づかれぬほど小さな震えが、背筋をつたってのぼってゆく。呼吸を忘れたように胸が凪ぎ、私はその場に、ただ深く沈みこんでいた。

 体はきちんと礼儀正しく座っているはずなのに、心のどこかがふらついたように、静かに重心が傾くのを感じる。


 王立エーレ学院。首席。若手の官僚。文化省で、私のオペレッタを進言した人物。


 ほんの短いあいだに、いくつもの記憶が頭の中を駆け巡る。

 そんなはずは、と、私はあらゆる可能性を否定しようとした。けれど、心の奥のどこかで、それはもう分かっていた。

 分かりたくなかったけれど、分かってしまっていた。ほんのわずかな手がかりだったはずなのに、予感は、確信へと変わっていた。


「……あの、その方の……お名前を、伺ってもよろしいでしょうか」


 震えるように胸の奥から湧き上がってくる思いが言葉になるまでには、少しばかり時間が必要だった。

 やっとのことで発した声は掠れて、震えているのがわかる。

 けれど局長は気に留める様子もなく、何気ない口調でさらりと応えた。


「ああ———。アルフレート・ヴァイスと申します」


 瞬間、息を飲んだ。胸の奥に、鋭く光が差し込んだような衝撃だった。


 世界がふっと静まり返って、目の前の全てが遠ざかる。

 差し込む光の輪郭がにじみ、壁の装飾も、革張りの椅子も、局長の口元の動きさえ遠のいて、ただその名前だけが、胸の中で何度も、何度も、こだました。


 ——アルフレート。


 視界がにじみそうになるのを、私は寸でのところで堪えた。感情は波のように押し寄せていた。驚きや、戸惑いや、喜びがないまぜになって、どうにもならない奔流になっていた。


 あの朝、白い薔薇の香りのなかで言われた“さよなら”の代わり。そばにはいられないと、背を向け去っていったあなた。私の未来を守りたい、と告げて、離れていったあのひと。

 涙が溢れそうになった。けれど、ここで泣いてはいけない。声にならない想いを喉の奥に押しとどめ、私は静かに身を起こした。


「……どうか、その方に、お会いできませんか?」


 自分の声が、自分のものとは思えなかった。それでも、ちゃんと届いていた。局長は朗らかに笑みを浮かべて頷いた。


「ええ、そのつもりでしたよ。何を隠そう、記念公演の担当官とは、彼のことですから」


 その言葉に、また心が波を打った。

 それから私は席を立ち、局長に続いて長い廊下を歩いた。文化省の建物は古く、磨かれた石床には高い窓からの光が射していた。

 やがて、文化芸術局のプレートが掲げられた執務室の前で立ち止まる。局長が軽くノックをして、扉を押し開けた。


 部屋の中は静かだった。整然と並ぶ机と背の高い書類棚、壁には地図と計画表のようなもの。万年筆が紙をなぞる音が絶え間なく聞こえてきて、木の香りに混ざってインクの香りが漂っていた。


 机がいくつか並ぶ一角、ひときわ日差しのよく差す窓際の席に、一人の青年が座っていた。


 最後に会ったときより、少しだけ広くなった肩幅。明るい栗色の髪は変わらず、けれど前よりも落ち着いた雰囲気を帯びていた。見慣れた制服ではない、落ち着いた色合いの背広の背中に、時間の流れが確かに刻まれている。


「ヴァイス君。お客様ですよ」


 青年の指がぴたりと止まり、書類からそっと目を上げた。少しだけ、ゆっくりと、ためらうような間を置いてから、彼は椅子から身を起こし、こちらに向き直る。


 窓からの光が、彼の横顔を照らしていた。私の姿を見とめたその瞳に、柔らかな光がさす。深く澄んだ、灰茶色の瞳。光を吸い込みながら、どこまでも真っ直ぐにこちらを見つめていた。

 その瞬間、まるで扉が開かれるように、目の前にたくさんの思い出が翻る。

 花冠をくれた日のこと、白いナズナと、机に広げた花言葉の本。並んでオペラを書いたこと、物語の断片を並べて、万年筆を走らせた。

 クララとの最後の夜、三人で囲んだ小さなテーブル。紅茶と焼き菓子の香りの中で笑い合いながら、永遠にこのままでいられるよう願った。


 椅子が音もなく後ろへ引かれ、彼はゆっくりと立ち上がる。まっすぐこちらへ歩み寄ってくるその足取りは、急ぐでもなく、ためらうでもない。姿勢は変わらず真っ直ぐで、歩幅には揺らぎがなかった。


 名前を呼びたいのに、声が出ない。涙がこぼれそうになるのを、またしてもこらえた。

 どこにいても忘れることなどできなかった。夢の中ですら、その瞳に会いたいと願っていた。

 あの朝、白い蔓薔薇の咲く東屋で、私たちはたしかに別れた。彼の手が差し出されたのは、触れるためではなく、拒むためだった。

 私にはそれが悲しくて、悔しくて、そばにはいられないと言ったあなたを責めた。夢を守ると言いながら、どうして私のそばにいてくれないの、と。


 だけどあなたは、そばにいないことで、私を見捨てたのではなかった。あの時背を向けたのは、私を遠ざけるためではなかった。

 あなたは今でもこうして、私の夢を信じて支えてくれていた。誰にも踏み潰されないように、この国の風のなかで、私が自由に歌えるように。


 目の前で立ち止まった彼は、前に会ったときよりもほんの少し背が伸びたように思った。気づけば私は自然に顔を上げて、見上げるようにしてその瞳を見つめる。


 私は何も知らなかった。どれほどの重さを、あなたが黙って背負ってくれていたのか、想像さえできていなかった。気づけるほど冷静じゃなくて、素直でもなかった。


 差し伸べられた手が視界に入る。迷いのない、まっすぐな仕草だった。


 この手を再び取ることが、もし許されるのなら。このぬくもりに、もう一度触れることができるのなら。

 私は変わる。どんな困難があっても、どんな痛みがあっても、逃げずに立ち向かえるように、ちゃんと強くなる。

 あなたを守れるように。遠くにいても、声も届かない場所からでも、あなたが私の夢を守って、未来に灯をともしてくれたように。


 ——だからお願い。どうかあなたも今度こそ、私の手を離さないで。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ