オペレッタの依頼
薔薇の蕾がようやく色づきはじめた頃、屋敷に一通の手紙が届いた。
日差しはやわらかく、風はまだ春の名残を運んでいる。けれど木々の葉にはすでに初夏の気配が滲みはじめ、季節がまた一歩、次へ進みつつあることを告げていた。
手紙を持ってきたのは執事だった。午後の陽が傾きかけた居間で、私は紅茶を前に本を読んでいた。気持ちの良い風に、しばらく庭で過ごそうかと考えていた矢先のことだった。
「お嬢様、フィヒテ子爵夫人よりお便りが届いております」
名前を聞いた瞬間、手にしていた本を静かに閉じ、私は顔を上げた。フィヒテ子爵夫人といえば、社交界の中心にある人物のひとりだ。
封を切る指先に、わずかに力がこもる。便箋を開いた途端、心臓がふいに大きく脈打った。
——来たる初夏の夜会にて、新作のオペレッタをご披露いただけませんでしょうか。ご帰国後、夜会の折々にお話を伺い、ぜひあなた様のお手による新たな舞台を拝見したく存じます。
——新作を。
心の奥で、何かがひそやかに、しかしはっきりときらめいた。
留学から戻ってまだひと月ほど。まさか、こんな依頼が届くとは思いもよらなかった。
けれどそれは不安よりも、何よりもまず、胸を震わせるようなよろこびを連れてきた。
——この国で、新しい舞台を生み出せるのだ。
私は立ち上がり、窓辺に歩み寄って庭を見下ろした。風に揺れる若葉と、花の香りに包まれた午後の光。そのすべてが、まるで新しい始まりを祝福してくれているように思えた。
「……ええ、もちろん。喜んでお引き受けいたします」
◆
フィヒテ子爵夫人とのやりとりは、手紙を通して進められていった。
——アメリ・ド・ロシュブランのような、希望に満ちた物語を紡いでいただければと思っております。
その一文を目にしたとき、私は思わず胸の前で便箋をそっと閉じた。
この国で悲劇ではない物語が、幸福な歌劇が少しずつでも受け入れられているという事実は、何度思い返しても夢のようだった。
夫人は、作曲家と楽団、そして共演者の手配はこちらで行います、と申し添えていた。けれど、脚本と主演だけは、ぜひあなたに務めてほしいのですと。
それから数日、私は机に向かい筆を取った。
インクの香り、窓から差し込む午後の光、庭先を通り抜ける風の音。すべてが物語の一滴となって、紙の上に描かれていく。
物語の題名は、まだ決めていない。けれど心の中にはもう、登場人物たちがはっきりとした輪郭をもって生きはじめていた。
——主人公の名はユリア。
小説家を父に持つ、想像力豊かで、少し空想癖のある娘。日常のすべてを物語にしてしまうような感性の持ち主。
物語は春の訪れとともに始まる。ある日、父がふとした調子で告げるのだ。
「知り合いの若い作家が怪我をしてしまってね。口述筆記をしてくれる人を探しているんだ」
ユリアはその申し出に胸を躍らせる。自分の知らない世界に足を踏み入れるような予感に、好奇心が膨らむ。しかし、父は言う。
「くれぐれも真面目にやるように。あの青年は少々、気難しいところがあるからな」
青年の名はヨーゼフ。
父の弟子のような存在で、筆致に鋭さを持つ将来有望な作家。だが人付き合いは不得手で、冷たくも感じられるほど無口な青年だという。
ユリアとヨーゼフの出会いは、きっと穏やかなものではないだろう。すれ違い、気持ちが通じ合わず、苛立ちもあるかもしれない。けれど——だからこそ、彼らのあいだに生まれる変化の瞬間はきっと美しいものになる。
私はふっと小さく息を吐いた。筆を置いて、窓の外へ目をやる。薔薇の蕾がそよ風に揺れていた。
一週間後、脚本はようやくすべての頁を描き終えた。私は一枚一枚の紙を重ね、厚紙の表紙で丁寧に綴じ、薄紅色のリボンで束ねる。
それを封筒に納め、フィヒテ子爵夫人へ、と宛名を書き添えた。
この物語が夫人のご期待に添うものでありますように、と願いながら封を閉じ、使いの者に託された封筒は、午後の陽射しの中へと運ばれていった。
返事が届いたのは数日後、ちょうど庭に出て薔薇の様子を見ていたときだった。侍女が手渡してくれた夫人直筆の便箋を受け取り、私はその場で封を切った。
——なんて愛らしく、心温まる物語でしょう。まさに、今この季節にふさわしいオペレッタです。
優美な筆致で綴られていた温かい言葉。夫人はたいそう気に入ってくださったようで、すぐに本格的な準備が始まった。
稽古場には、フィヒテ子爵家の広間が提供されることとなり、そこに作曲家や演奏家、夫人のつてで集められた役者たちが少しずつ顔を揃え始めた。
私は作曲家とともに、脚本に沿って音楽をつけていった。
ユリアの語ることばに、ヨーゼフの沈黙に、ふたりのやりとりに、旋律が生まれていく。
ときにピアノの鍵盤に指を走らせながら、ときに譜面にじっと目を凝らして、台詞の間にどんな音が差し込まれるべきかを、ひとつひとつ確かめていった。
「ええと……この場面はふたりが語り合うだけで、歌はないんですね?」
台本を見ながら作曲家が問いかけてくる。
「はい。あえて歌詞をつけずに、旋律は背景だけに流したいのです」
彼は数拍のあいだ黙って台本をじっと見つめていたが、やがてにっこりと微笑んだ。
「面白い。これがあなたのオペレッタなんですね」
そこから先は、驚くほどの速さで日々が転がっていった。
稽古は日を追うごとに熱を帯び、最初はたどたどしかった演技も旋律も、やがて自然と形を得て、広間に響く声と言葉に物語の輪郭がくっきりと浮かび上がっていく。
「……そこはもう少し控えめにしてください。怒っているというより、呆れてる感じで」
「この台詞のあとに音を足しましょうか。彼女の台詞に呼応するようなものを」
作曲家とのやり取りも、すっかり息が合うようになっていた。彼は最初こそ少し距離を取っていたものの、今では「ここをこうしたいんですが」と先回りするような提案までしてくれる。
役者たちも真剣な眼差しで台本を読み込み、衣裳に袖を通すと自然と役柄のまなざしになっていた。
初夏のある宵、陽が落ち夜の帳が静かに降り始めたころ、フィヒテ子爵家の屋敷には、社交界の名だたる令嬢や貴婦人、貴族たちが次々と馬車で到着していた。
薔薇の生垣に灯された無数のランタンが風に揺れ、遠くからもそれとわかる華やかな気配が通りを包んでいる。
客人が案内される大広間は、舞台に見立てて設えられた特別な空間。
豪奢な絨毯の上に、柔らかい照明と布の仕切りで奥行きを演出し、手製の書斎の大道具や調度が静かに据えられていた。
——一人の娘が、そっとそこに現れる。
静かな足音をたてて舞台へ進み出た私は、客席を見ないまま、机の前に立った。袖から照らされる灯がドレスの光沢を淡く浮かび上がらせる。
深く吸い込んだ息は肺の奥を撫でるようにして広がり、やがて旋律となってこぼれた。
——物語の主人公は、小説家を父にもつユリアという名の娘。
明るくおしゃべりで、空想が大好きな少女だ。舞台が始まると、軽やかな序曲にのせて、彼女の朗らかな日常が描かれていく。
ある日、ユリアの父がこう告げる。
「知り合いの若い作家が怪我をしてしまってね。原稿の口述筆記をしてくれる人を探しているんだ」
次の場面、ユリアは原稿用紙と万年筆を手に、やや緊張した面持ちで大きな屋敷の扉を叩く。そして出迎えるのは、右手に包帯を巻き、書斎にこもった気難しげな青年ヨーゼフ。
「あなたが代筆ですか……もっと落ち着いた人が来ると思っていました」
やや不機嫌なヨーゼフと、おしゃべりなユリアの息の合わない初対面。口述筆記のはずが、想像力豊かなユリアはすぐに登場人物に文句をつけ始める。
「このヒロイン、ここで泣くだけですか? どうせなら、花瓶でも投げてから泣いたほうが面白くないですか?」
ヨーゼフは真っ赤になって怒鳴る。
「勝手に話を変えないでください!」
舞台上のふたりが言い争いを始めるたびに、音楽がぴたりと止まったり、不満そうなヨーゼフのテーマが低音で流れたりと、演出も巧みに観客の笑いを誘っていく。
——次第に描かれていくのは、奇妙な共同作業の日々。
「この台詞、ちょっと堅苦しくないですか?」
「……そうですか? どこが?」
「ぜんぶです!」
真面目なヨーゼフが頭を抱え、ユリアが得意げに微笑む場面。
はじめは苛立ってばかりいたヨーゼフが、ふとした拍子に彼女の言葉に耳を傾け、やがて「うるさいけど……まあ、悪くない」とぼやく場面では、客席から小さな拍手さえ起こった。
音楽もまたふたりの関係と共に色合いを変えてゆく。ユリアのテーマははじめこそ跳ねるような旋律だったが、次第にヨーゼフの旋律と絡み合い、穏やかな調和を帯びていった。
そして、雨の午後——舞台は静かな転換点を迎える。
濡れた傘をたたむ音、窓を打つ雨のリズム、筆が紙をなぞる音だけが聞こえる静寂。ユリアが疲れて眠り、ヨーゼフがそっと毛布をかける場面。
彼の目に宿る、かすかな柔らかさ。ユリアの無防備な寝顔。
——ああ、これは恋なのだ、と誰もが思う。
でもそれを口にしない、口にできないまま、ふたりの日々は流れていく。
やがて季節は巡り、長く続いた口述筆記の日々にも終わりが近づいていた。
ヨーゼフの腕にはもう力が戻り、万年筆を握る姿もすっかり元通りになった。机の上には、厚みのある完成原稿が積まれている。
「……これで、本当に完成ですね」
ユリアがそう言うと、ヨーゼフは短くうなずいた。その顔には達成感と、言葉にならない寂しさが混じっている。
「……あなたに頼らずとも、原稿はもう書けます」
彼は、息を整えるように短く言葉を切った。
「だけど、これからもここにいてほしい」
ユリアは思わず瞬きをした。胸の奥に、あたたかい驚きが波のように広がる。何か言おうとして、そして——いつもの調子で、にこっと笑った。
「……じゃあ、次の原稿も私が口出ししていいってことですね?」
一瞬の静寂。それから、ヨーゼフの口元に苦笑が浮かぶ。次の瞬間、ふたりは目を合わせ、こらえきれずに笑い出した。
——最後の音がふっと消え、灯りが舞台を包む。
観客席はしばしの沈黙のあと、ゆっくりと温かい拍手に満たされた。拍手は次第に大きくなり、笑い声や感嘆のささやきが混ざり合いながら広間に広がっていく。
私はまだ、舞台の上にいた。ユリアの役のまま、頬にほのかな熱を残しながら、幕が下りる気配もないその場所に立ち尽くしていた。
ほんの数秒が、胸の奥でやけに長く感じられる。目の前の光景をどう受け止めてよいかわからないまま、私はそっと視線をめぐらせた。
客席には上品な装いの貴婦人たち。夫人たちの瞳が細められ、扇子が膝の上で揺れて、唇には微笑が浮かんでいる。その隣で紳士たちが感嘆の声を漏らし合い、何かを話し込んでいた。
「まさか、あの伯爵令嬢が……」「こんな可笑しみのある劇だとは」「見事なものですな……洒落ていて、心が和んだ」
あちらこちらから洩れるその言葉の一つひとつが、私の胸に降り注いでくる。理解されないかもしれない、笑われるかもしれない、そう思っていた恐れが少しずつほどけていくのを、私は舞台の上で静かに感じていた。
ここはあの国とは違う。あちらにはオペレッタを愛する人々がいて、劇場があり、人々にとっては慣れ親しんだ文化だった。
だけど、この国にだって何もないわけじゃない。格式張った広間に椅子を並べて、貴族たちが耳を傾けてくれた。拍手をくれた。誰一人、嘲るような視線など浮かべていない。
ヨーゼフを演じた役者とともに、私は一礼した。胸に手を当て、舞台の上で、客席に向かって深く頭を下げる。
——この国にも、きっと、オペレッタは受け入れられる。
そう思った。そう信じた。誰に何を言われても、もう自分の中に疑いはなかった。拍手の音に包まれながら、私はひとり、静かに確信していた。




