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噂の伯爵令嬢

 道沿いに咲くすみれの花が、ゆるやかな陽光のなかで揺れている。馬車の窓を少し開けると、懐かしい花の香りが胸いっぱいに広がった。

 枝々をかすめる風の音、石畳を踏みしめる車輪の響き、そして、遠くから聞こえる鐘の音——すべてが懐かしい国の色と匂いに包まれている。


 やがて見慣れた通りを過ぎ、馴染みの門が視界に入る。鉄細工の装飾が施された正門がゆっくりと開き、青みを帯びた並木道が私を迎える。春の芽吹きに彩られた樹々の向こう、石造りの屋敷が以前と変わらぬ姿で佇んでいた。


 玄関前では召使たちが整列して出迎えていた。その中に幼い頃から世話になっていた侍女の姿を見つけて、少しだけ微笑む。扉が開いた音と同時に階段の上から足音が下りてきて、やがて母が現れた。


「よく戻りました、エリザベート」


 言葉は、思っていたよりもずっと優しかった。背筋を伸ばしてこちらを見下ろすその姿には、かつての厳しさの面影があったけれど、その瞳の奥に柔らかい色が灯っているのを見た気がした。


 私はドレスの裾をさばきながら、母に向かって礼をした。微笑みを浮かべると、母もまたわずかに目元を和らげた。


 それから、母は留学中のことをあれこれ尋ねることはなかった。けれど、咎めるような視線もどこにもない。

 兄が手紙で言っていたとおりだった。口には出さずとも、母はきっと、私の夢を受け入れてくれているのだろう。


 あれほど心配していた「縁談が決められているのでは」という不安もまったくの杞憂だった。両親の口からそれらしい話が出ることもなく、ただ私の帰国を喜んでくれているようだった。


 その夜、久しぶりに戻った自室に通され、ほっと息をつく間もなく、部屋の机の上に山と積まれた封筒が目に入った。

 どれも金の押し模様や家紋があしらわれた厚手の紙で、封蝋の色はさまざまだった。差出人には侯爵家、子爵家、宮廷付きの婦人方の名が連なり、内容はいずれも夜会への招待だった。


 あまりの多さに、私は思わず目を丸くする。呆然としながら手に取っていくつかを開いてみると、そこには同じような文面が並んでいた。


「ご帰国を祝し、当家の夜会にぜひお運びを」

「留学中のご活躍、オペレッタ《アメリ・ド・ロシュブラン》のご成功、風の噂にて伺いました」

「ご公演を拝見できず残念でなりません。ぜひ一度、お話を伺えればと存じます」


 アメリ・ド・ロシュブラン——あの舞台の名が、この国でも語られている。信じられない気持ちだった。

 場のざわめき、緞帳の裏で交わした声、仲間と共に作り上げた日々。あの眩しい時間が、遠く離れたこの地にも、確かに伝わっていたのだ。


 椅子に腰を下ろし、日付が重なっているものをひとつひとつ確認していく。断るわけにはいかない。けれど、全部に応じるのも難しい。

 丁寧に選びながら、承諾の返事を書き始める。書き慣れた筆運びが、不思議と今は少しぎこちなかった。

 返事を書き終えた手紙の束をまとめ、侍女に早馬での手配を頼む。


 ——こうして私の帰国後の日々は、社交界という別の舞台へと移り変わっていった。


 絹のドレスを身に纏い、侍女の手を借りて髪を整え、馬車に揺られて向かう先々では、豪奢なシャンデリアが天井に輝いていた。

 きらびやかなドレスと宝石、交わされる笑顔、軽やかな音楽。そしてどこへ行っても決まって耳にしたのは、あのオペレッタの名だった。


「新聞で拝見いたしましたわ。ルシェーヌの舞台に出演なさったとか」

「伯爵令嬢が主演を務められるなんて、素晴らしいわね。私の娘にもぜひ音楽を習わせようかしら」


 思わず「ありがとうございます」と頭を下げたものの、内心は驚きでいっぱいだった。舞台に立つことは、一部の人からすれば好ましくないことのはず——少なくとも、伯爵家には似つかわしくないとそう言われる覚悟でいたのに。

 ところがこうして声をかけてくるのは、他でもない母と並んで歩いていたような貴婦人たちであり、社交界の重鎮とも言うべき名家の奥方たちだった。


 しかし、批判の声ももちろんあった。夜会の隅、絹の裾がふれあうような距離で、私には聞こえないと思っているかのような声色でささやかれる言葉。


「伯爵令嬢ともあろうお方が、舞台にお立ちになるなんて」


「上演されたのは隣国ですもの。向こうの流儀なのかしら。あまり真似してほしくはないけれど」


「お父上のご心痛を思えば、胸が痛みますわね」


 耳の奥に残る言葉の棘に胸がふっと痛んで、会話に加わることを避けるようにして、グラスを手に会場の片隅へと足を運ぶ日もあった。

 けれど、たとえそんな視線が向けられていたとしても——そもそも、こんなにもたくさんの人が私のことを知ってくれていて、しかも好意的に受け入れてくれる人がいるという事実は、それだけで夢のような話だった。


 もちろん強くなどなれない。聞こえないふりをしても、胸はやっぱり少し痛むし、自分を守るために笑顔を貼りつけるのもそれなりに疲れる。

 けれど俯いてばかりもいられないのだ。それよりも私は、今この手にあるものをもっと大切にしたかった。私の歌を、私の物語を、応援してくれる声に耳を澄ませていたかった。



 ◆

 


 ある日のこと、私はその夜もとある貴族の夜会に招かれていた。 

 満開の花で飾られた会場には、幾重にも重ねられたシャンデリアの光が降り注ぎ、銀の燭台がキャンドルの灯を揺らめかせている。

 音楽家たちが奏でる緩やかな舞曲が、絹の衣擦れと控えめな笑い声に紛れて聞こえてくる。


「まあ、本当にいらしてくださったのですね。ローゼンハイネ伯爵令嬢」


 背後からかけられた声に振り返ると、上流階級の夫人が数人、こちらへ歩み寄ってくるところだった。扇を軽く唇に当てながら、楽しげな微笑をたたえている。


「アメリ・ド・ロシュブラン——拝見できなかったのがなんとも残念ですわ。新聞には“伝説の一夜”とまで書かれておりましたのに」


「たしか、国王陛下の御従兄弟がご観劇されたとも……?」


 噂に尾ひれがついているものもあるのだろう。それでもあの舞台がほんとうにこの国まで届いていたのだと実感するたび、胸の奥が震える。


「光栄です。本当に、身に余るほどに」


 控えめにそう口にすると、夫人たちの間にいっそうの笑みが広がった。とくに何かを求められているわけではないと知りながらも、私の方が背筋を伸ばして、声の調子を整えようとしてしまう。


「で、そのお役柄……どのようなお話だったのでしょう? ご自身で書かれたとか?」


 そっと扇を畳みながら尋ねられ、私は微笑みを浮かべたまま小さくうなずいた。


「脚本は留学先の学友と共に手がけました。昔ノルトハルデンからルシェーヌの王子殿下に嫁がれた、アマーリエ・フォン・ライヒェンバッハ嬢の実話をもとにしております」


「まあ……それはまた、なんてロマンチックなお話でしょう」


 貴婦人たちが一斉に声を上げ、目を輝かせるのがわかった。王子殿下に見初められ、異国へと旅立った一人の女性。そうした伝説めいた物語は、いつの時代も人の心を掴んでやまない。


「ぜひ、こちらでも上演なさってはいかが? 王都の劇場であれば、私たちも是非足を運びますわ」


 そう勧められたとき、私は胸が少しだけ熱くなるのを感じた。こんなにも歓迎されるなんて、夢のようだった。


「ありがとうございます。……本当に、そうできたら素敵ですわ」


 戸惑いながらも、私はその場にふさわしい笑顔を浮かべ、穏やかな調子で話した。演じたときの気持ち、仲間とのやりとり、舞台裏の緊張。話しているうちに、遠く離れたあの劇場の灯りが、心の中でふたたび揺らめいていた。


 ほんの一年。けれどその一年が、すべてを変えてしまった。留学前の私だったら、この場に立って、こんなふうに称賛を受けることなど想像もできなかった。


 ——貴婦人たちとの談笑がひと段落し、その場をそっと離れた矢先のことだった。


「ローゼンハイネ伯爵令嬢」


 名前を呼ばれて振り返ると、黒の燕尾服に身を包んだ若い貴族の令息が、恭しく一礼をしていた。年の頃は二十を少し過ぎたばかりだろうか。柔和な笑みをたたえたその表情は、社交の場に慣れていることを物語っている。


「もしよろしければ、次の曲をご一緒していただけませんか」


 ……変わった、といえばもうひとつ。夜会のたびに、貴族のご子息方から声をかけられることが増えた。


 私はもう十七。そういう年頃なのだと、頭ではきちんと理解していた。年頃になれば、やがて家の名にふさわしい誰かと出会い、家柄を見て釣り合う相手を見つけるのが貴族の常。

 夜会で声をかけられることも、舞踏の誘いを受けることも、そう驚くべきことではない。


 差し出された手には一分の揺らぎもなく、洗練された礼儀と誠意がこもっていた。……けれど、どうしてだろう。こうして手を差し出されるたびに、胸の奥がひやりと冷たくなる。

 しかし、不要な波風を立てる真似はしたくない。微笑みを浮かべて、私はそっと手を重ねた。


「……ええ、喜んで」


 すぐに音楽が変わり、舞踏の流れに沿って足を進めていく。螺旋状のシャンデリアが放つ光の下で、私たちは静かに回り始めた。


 右足、左足、そして半歩後ろへ。目線を逸らさぬようにするのも、そろえた呼吸に合わせて動くのも、身体が自然に覚えている。

 けれど舞踏の輪の中で踊りながら、どこか遠くを見てしまう自分がいる。いつもそうだ。丁寧に言葉を返しながらも、どこかで距離を保ってしまう。


 そんななかで、ふとラウルのことを思い出す。——ラウルと踊ったときは、こんな気持ちにならなかった。

 彼といる時の私は、笑いたいときに笑い、驚いたときに素直に驚いて、誰にどう思われるかを気にして、自分の言葉を選んだりはしなかった。


 ——やっぱり、あの申し出を受けた方が、私は幸せになれるのかもしれない。


 私の夢を尊重してくれて、背中を押してくれて、そして今度は人生そのものを共に歩もうと申し出てくれた人。あの夜、星の降る展望台で言われた言葉を思い出すたび、心が揺れる。


 けれど、それでもまだ私は決断しきれずにいた。

 ——この国でも、オペレッタは受け入れられるかもしれない。そう思える瞬間が確かにあった。

 夜会で笑顔で語りかけてくれる婦人たち、新聞で私の舞台を取り上げたという記事、温かな言葉。あのときとは違う未来が、今なら手の届くところにあるかもしれない。


 そんなことを考えていると、いつの間にか曲は終わっていた。最後の一歩まで踊りきり、軽く一礼を交わすと、私はそっとその場を離れる。

 ドレスの裾が静かに床をすべり、会場の隅へと身を寄せると、賑わいから少しだけ距離を置くことができる。燭台の灯りも遠く、音楽と話し声がぼんやりと混ざって聞こえてくる。


 ふと、誰かの足音が近づいてくる気配がして振り返ると、同じくらいの年頃の令嬢が、扇を手にしてこちらへ歩いてきた。

 顔見知りではなかったけれど、彼女はごく自然な笑みを浮かべ、優雅に首を傾げて声をかけてきた。


「ごきげんよう、ローゼンハイネ伯爵令嬢」


 礼儀正しく微笑むと、彼女は扇を唇に当てて、あくまで柔らかな口調で続けた。


「……お噂はかねがね。わたくしもアメリ・ド・ロシュブランについては耳にしておりますの。とても話題になっているとか」


「ありがとうございます」と応じると、彼女の微笑がほんの少しだけ深まった。


「ですが正直なところ……少し驚きました。あなたほどの身分の方が、わざわざ舞台に立たれるなんて」


 その声には棘などない。ただ澄んだ鈴のような響きがあるだけだった。

 しかし次に口にされた言葉は、冷たい刃のように胸に突き刺さった。


「……舞台に立つだなんて、あれはつまり、“見せ物”になるということではなくて?」


 その言葉を皮切りに、令嬢は声を潜めるでもなく、けれど控えめな笑みを崩さぬまま続けた。

 まるで花の香りでも語るように、落ち着き払った声音だった。


「……わたくし、正直なところ、伯爵令嬢がそうした場に立たれるのは、あまりよろしくないのではと存じますの。人々の話の種になるのは避けられませんし、なかには心ない者もおりますわ。噂を面白おかしく言い立てて——あら、失礼」


 彼女は、さも気遣わしげに眉をひそめ、扇で唇を隠しながら、なおも言葉を続ける。


「……そういったお話は、もう随分と広まっておりまして。まあ、お耳に入っていないのなら、それはそれで——幸せなことですわね?」


 まるで同情でもするような目を向けながら、彼女は小首を傾げた。他意はないとでも言いたげなその態度が、むしろ剣より鋭く胸を突いてくる。

 息を呑んだわけではなかったのに、喉が固くなるような気がした。微笑の形を保とうとする唇が、わずかに引き攣れる。


 舞台に立つことが、この国でどう見なされるかなんて、覚悟の上だった。でも今までこんなふうに、面と向かって言われたことはなかった。喉の奥に冷たいものが降りていく。何かを言いたいのに、声にならない。


 ——あの国では、こんなこと一度も言われなかったのに。

 稽古場でも、劇場でも街角でも。誰ひとり、私にそんなふうに言う人はいなかった。

 舞台は、誰かの心に触れる場所だった。身分も家柄も関係なく、ただ、ひとりの人間として、歌い、演じ、笑い、涙を流す。あの場所なら、私はもっと自由でいられた。


 けれど。


 私は、今ここにいる。

 生まれ育ったこの国で、オペレッタの舞台に立つ伯爵家の令嬢としてこの地に立っている。ここに帰ってきたときから、批判なんて、とうに覚悟のうえだった。

 

 ここで立ち止まってはいけない。沈黙して、また貴族らしく微笑んで、胸のうちを飲み込んではいけない。

 今、あの国で私が築いたものが、ほんの少しずつ、この国にも波紋を広げている。足元につながっている道の途中には、数えきれないほどの人の支えがあった。

 私は、その人たちまでを否定させてはいけない。軽蔑を黙って胸に収めてしまったら、それは私の道だけでなく、共に歩んできた誰かの道まで、否定することにしてしまう。


 夢を見ることを恐れずに進んだ日々が、舞台に立つことの意味が、私の中に確かに根を張っている。だから私は胸を張って、信じる道を進んでみせる。


「その“見せ物”が人を幸せにできるのなら、私は喜んで舞台に立ちます」


 声が静かに、けれどはっきりと会場のざわめきに溶けていく。

 令嬢の手にしていた扇が、わずかに止まる。けれど私は視線を逸らさず、そのまま言葉を継いだ。


「だれかの悲しみに寄り添い、だれかの胸に灯をともす。舞台とはそういう力を持つものだと、私は信じています。舞台に立つことは、私にとって誇りにこそなれ、恥にはなりません」


 心臓の鼓動が、少し速くなるのを感じていた。

 けれどその高鳴りは、不安からくるものではなかった。言葉の一つ一つに、自分自身を重ねるようにして、私は静かに語った。

 令嬢は黙って私を見つめていた。沈黙が流れ、それでも私は背筋を伸ばして、彼女の前に立っていた。

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