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雪解けの終曲

 季節は名残惜しくも歩みを進め、やがて風の匂いが春へと変わっていった。

 気がつけば、留学の最後の月。暦の数字を眺めるたび、胸の奥で何かがそっと鳴る。

 私ひとりが音楽舞踏学院を去るわけではなかった。この春、卒業を迎える生徒も多い。廊下ではたびたび来年からの進路の話が聞こえ、食堂には最後の思い出にと語り合う声が満ちていた。


 《アメリ・ド・ロシュブラン》に出演していた学生の中には、すでに正式に劇団への入団が決まった者もいる。公演の反響は想像以上に大きくて、ある学生は公演後に劇団の関係者から直接声をかけられたのだという。


「君がいたから道が開けた」「夢を叶えられた」


 そう言って頭を下げられるたび、私は首を振って答える。


「あなたの実力よ」


 でも、彼らは少しも譲らなかった。


「違う。エリザベートがいたからだよ」


 思わず泣きそうになったことは、一度や二度ではなかった。

 この学院の人たちは、いつだって夢にまっすぐだった。舞台の上でも、降りたあとも、ずっと。


 ——私は、ここで過ごした日々を、きっと一生忘れない。


 そしてついに、今年度の授業期間が終わった。

 最後の講義の日、教室を出るときに窓辺から外を見た。薄く芽吹いた新緑が、風に揺れている。もう何度通ったかわからない回廊も、居心地のよかったアパルトマンも、あと少しで手の届かないものになってしまう。


 名残惜しい、という言葉があるけれど、こういう気持ちを指すのだろう。

 この一年で私は多くを得て、多くを知った。季節がめぐるたびに、この国の色も、空気も、私の中に溶け込んでいたのだと気づく。離れがたくて、でも見つめるしかない。



 

 それから私は、旅立ちに向けて荷造りに追われることになった。とはいえ、実際にこの部屋を出るのは、もう少し先になる。すぐに使わないものだけを選んでトランクに詰めていった。


 けれど、いざ物をまとめはじめてみると、この一年でずいぶんと荷物が増えていることに気づいた。服や本だけじゃない。劇場のチラシ、稽古の合間に皆でもらった差し入れの包み紙、授業で使った譜面……どれもこれも、思い出の手触りが残っている。ひとつひとつ手に取っているうちに、箱の中がまるで時間のかけらを詰めるような感覚になって、荷造りはちっとも進まなかった。


 そんな日々の合間にも、ミレイユやラウルとは頻繁に会っていた。

 「最後だから」と言って、二人がバレエとオペレッタを見に連れて行ってくれた日もある。席に腰かけて幕が上がるのを待つ時間、かすかに響く調律の音、観客の静けさまでもが美しく思えた。


 やっぱり——この国の芸術や文化が、私は好きだと思う。

 心が自由になるような舞台の数々、誰かと一緒に観て、感想を語り合える喜び。舞台の上だけではなく、日常のなかにも芸術が息づいている。

 私はこの国に惹かれていた。名残惜しいのは、人も、空気も、文化も、すべてだった。




 ある日の午後、晴れた空を見上げながらアパルトマンに戻ると、郵便受けの隙間に一通の封筒が挟まっていた。見覚えのある筆跡だった。裏を見るまでもなく、兄からの手紙だとすぐにわかる。


 部屋に入り、いくらか片づいた荷物の間を縫うようにして椅子に腰をおろす。少し息を整えてから、封を切った。中からは丁寧に折りたたまれた便箋が現れ、あの懐かしい、どこか理知的な字面が目に飛び込んできた。


 ——そちらのオペレッタ公演の話は、風の便りに聞いている。大きな成功だったそうだな。よくやった。

 ——両親も誇らしく思っている。安心して、自分の道を進みなさい。


 胸の奥に、何とも言えないざわめきが湧いた。

 驚きはあった。でも、兄がただ慰めのために嘘を書くとは思えない。期待を抱かせるようなことを、根拠もなく口にする人ではない。


 ならば、本当に——私の選んだ道を、あの人たちも、遠くから見守ってくれていたのだろうか。


 封筒のふちをそっと指でなぞる。どこかでずっと、許されないことのように感じていた。芸術に惹かれる自分を、家の名のもとに否定されなければならない気がしていた。


 もし本当に両親が認めてくれているのなら——帰ってからも夢を諦めずにすむ。オペレッタをこの手で根づかせることも、いつか本当に叶うかもしれない。


 選ぶべき道は、まだ見えていなかった。けれどどちらを選んでも、私の中に積み重なった日々が消えることはない。

 そう思うと、少しだけ窓の外の景色が違って見えた。この空の向こうに、確かな春が待っているような気がした。



 ◆



 旅立ちが数日後に迫ったその日、私は劇場へ向かっていた。季節は春に差しかかっていたけれど、朝晩はまだ冷える日が多く、外套の留め具をしっかりと押さえる。

 隣にはラウルがいて、いつも通りの足取りで私に合わせてくれていた。

 こんなふうに並んで歩くのも、あと何度あるだろうかと考える。それが終わりを数えるための問いであることに、胸の奥が痛んだ。


 ラウルは終始快活だった。

 劇場へ向かう道すがら、彼は今夜のオペレッタについて語ってくれた。元になった古い寓話の話、主演を務める役者がどんな稽古を積んできたかという裏話。ひとつ話すたびに、次の話がぽんぽんと出てくる。


「脚本を書いたのは、あのマドモワゼル・ニコレットと同じ人なんだ。だから、今回も期待していいと思う」


 そんなふうに、彼の声が途切れず続くのを聞きながら、私はただ頷いたり、微笑んだりしていた。

 きっと、彼なりにいつも通りを保ってくれているのだと思った。今日が特別だと意識すればするほど、別れが輪郭を持って迫ってくるから。


 劇場の明かりが近づくにつれ、胸の奥がすこしずつざわついた。


 あの公演以来、何度か劇場に足を運んではいたけれど、こうしてラウルとふたりきりで幕の上がるのを待つのは、もしかしたらこれが最後になるかもしれなかった。


 それでも幕が上がれば、私は自然と背筋を伸ばしていた。

 明るい音楽、華やかな衣装、役者たちの熱のこもった歌声と、笑いを誘う軽やかなやりとり。


 劇中のひとつひとつの場面が、胸にしみるようだった。誰かの恋、誰かの決意、誰かの笑顔。それが物語の中の出来事であるはずなのに、どこかで自分の思い出とも重なって、時折、まばたきの合間に視界がにじんだ。


 終演後、劇場の扉を出ると、夜風が頬に冷たかった。

 私は深く息を吸って、吐き出した。光に縁どられた街の通りは、人通りがまばらになっていて、劇場の余韻をそのまま引きずっているように静かだった。


「エリザベート、少し、君について来てほしいところがあるんだ」


 歩き出した道すがら、ラウルがふと立ち止まって、こちらを振り返った。私は驚いて彼の顔を見る。いつも通りの笑みにうなずいて、彼の隣に並ぶ。


 石畳を踏みしめながら、ゆるやかな坂をのぼっていく。

 やがてたどり着いたのは、小高い丘の上の展望台だった。

 開けた空間の先に街の明かりが広がっていて、灯火のひとつひとつがまるで星のように瞬いている。

 空を見上げれば、星々が同じように空にまたたいていた。地上の街と、天上の空が、地平線の先で重なり合っているようだった。


「……すごい。きれいね」


 思わず漏れた言葉は、夜風に溶けていった。私はゆっくりと足を進め、展望台の縁に立った。

 見下ろす先には、金糸を織った絨毯のように、街の灯りが折り重なっていた。光の粒が星々と呼応するように、静かにまたたいている。


「こんなところがあるなんて知らなかったわ」


 足音が止まり、ラウルが私の隣に立つ。


「ここがこの街で一番好きな場所なんだ」


 そう言ったラウルの視線の先を追うと、遠くに低く連なる建物の輪郭が見えた。劇場通りだった。あの通りのひとつに、私たちのアメリ・ド・ロシュブランを上演した劇場がある。


 私は黙ったまま、眼下に広がる街を見下ろした。まるで一年間の思い出が、灯りのひとつひとつになってそこにあるように思えた。

 歩いてきた道も、夢中で作った舞台も、たくさんの笑い声も——すべてが、この光の中にあるような気がしてならなかった。


「エリザベート」


 名前を呼ばれて、私はそっと振り返った。ラウルはそこに立っていた。姿勢はいつも通り気負いなく、ほんの一歩分だけ距離を詰めて、真っ直ぐに私を見つめていた。

 その瞳には、さっきまでの穏やかさとは異なる色があった。何かを決意した人間の目——まっすぐで迷いがなくて、でも少しだけ不安も滲んでいるような。


 口元は引き結ばれていて、視線は私に向けられている。

 何かを伝えようとする人の表情だった。言葉を投げかける前の、一瞬の静けさ。私はその気配に、かすかに息をのんだ。


「……ここに残ってくれないか」


 その声は大きくもなければ、芝居がかった熱もなかった。ただ静かに真剣に、ラウルはそう言った。


 胸の奥で、なにかが揺れた。言葉を返そうとしても、すぐには口が開けなかった。それがどういう意味なのか、瞬時には理解できなかったのだ。わからないはずなどなかったのに。


「俺は君と、これからもずっと舞台を作っていたい。君となら、何度でも幕を上げられると思うんだ。だから、ここにいてほしい」


 また少し、風が吹いた。丘の上の空気が動いて、スカートの裾を揺らした。ラウルの言葉はそれに乗って、確かに届いた。


「……ここに残れたらって、何度も考えたわ」


 ようやく言葉をつむいだとき、自分の声が少し震えているのがわかった。


「でも、両親が許してくれるかどうかはわからない。私が自由に生きることを、望んでもらえるかはわからないの」


 語尾がかすれた。ラウルは何も言わずに私の言葉を受け止めてくれて、そして、それでもなお、静かに言った。


「俺と結婚してほしい」


 その瞬間、時が止まったようだった。


 夜の静けさが、耳に染みるほど深くなった気がした。風の音も、遠くで響く馬車の車輪も、まるで別の世界の出来事のように遠ざかっていく。


 目を見開いたまま、私は何も言えなかった。返事もできなかったし、たぶん、表情も動かせなかった。私の世界は今、ラウルのその言葉だけに満たされていたのだ。


「……どうして?」


 しばらくの沈黙ののち、やっとのことで出てきた声は答えではなかった。何かがはっきりするのが怖くて、逃げるように問いを投げたのかもしれない。それでもラウルは、目をそらさなかった。


「俺は君のことが好きだ」


 ラウルは少しも誇張のない声で、ただひたすらまっすぐに私を見ていた。


「君がここに来て、笑ってくれて、俺と舞台を作ってくれて……その全部を見てるうちに、そばにいてほしいと思うようになった。これからも君と未来を作っていきたいって、心から思ってる」


 私は唇を閉じたまま、彼の言葉を胸の奥に沈めるように受け取っていた。


 ラウルのことは嫌いじゃない。むしろ、好きだと思う。


 その思いに嘘はない。けれど、愛しているかはわからない。

 それでも、わかることもある。ラウルは私を大切にしてくれる。たとえ恋の熱に浮かされていなくても、きっと幸せになれる。

 私の心がまだ揺れていても、それを急かしたりはしない人だということも、よく知っている。


 それに、両親も反対などしないだろう。むしろ喜ぶかもしれない。隣国の格式ある貴族の家に縁ができるとあれば、父も母も誇らしく思うに違いない。


 それに、もし——もしこのまま彼と共に歩んでいくのなら。


 私は、ここに残ることができる。この国に。劇場に。音楽と踊りと、舞台に生きる人々のそばに。

 私は舞台に立ちたい。もの語る歌を作りたい。そして今、その道の隣にラウルがいてくれる。


「返事は急がなくていい」


 私は思わず顔を上げて、その目を見つめる。声は夜気に溶けるほど柔らかい。焦らせようともしないし、気持ちを試そうとするそぶりもなかった。


「帰ってからゆっくり考えてくれたらいい。……もし君が承諾してくれるなら、そのときは正式にご両親のもとへ縁談を申し込む」


 考えれば考えるほど、答えはひとつしかないような気がしてくる。

 けれど私はまだ、その言葉を口にすることができずにいた。視線を落として彼の手を見つめる。

 

 ——あの夜、オペレッタの舞台で取ったのと同じ手。私は今、この手を取るべきなのだろうか。


 

 ◆



 アパルトマンの扉を閉めたとたん、胸の奥に詰め込んでいた何かがほどけて、足元から力が抜けていった。

 外套を脱ぐのも忘れて、私はまっすぐに机の前まで歩いた。灯りを点ける気にもなれず、そのまま両腕を広げて、机の上に身を投げ出す。硬い木の感触が額に伝わり、ぬくもりを残したままの掌が頬に触れていた。


 窓は少しだけ開いていた。カーテンの隙間から、夜の空気が入り込んでくる。

 ひんやりとした風が頬を撫でていくたびに、ほんのわずかに熱が引いていく気がした。


 ——私は、どうしたらいいの。


 心の中で呟いたその言葉が、どこか遠いところから返ってくる気がして、私は目を閉じる。

 胸の奥で、ラウルの言葉が何度も何度も反響していた。

 ゆっくりと身を起こす。椅子の背に凭れ、薄暗がりの部屋を見回した。

 何も変わらない。けれど、何もかもが変わってしまったような気がする。


 おもむろに手を伸ばし、机の引き出しを引いた。そのいちばん奥に、小さな箱がある。両手にすっぽり収まってしまうような、革張りの箱。

 別の引き出しに小さな鍵が入っていて、私はそれを慣れた手つきでそっと差し込む。

 カチリと音がして、蓋が開いた。中には、白いハンカチに包まれたものがひとつ。私はそれをそっと取り出して、膝の上でほどいた。


 現れたのは、丁寧に畳まれた一通の手紙だった。

 ここに来る前、アルフレートに宛てて書いたもの——私が道に迷ったとき、この手紙が背中を押してくれる。そう信じて、私はこの手紙をお守りのように携えてきたのだ。


 迷っている。何を選べば、私は大切なものを失わずに済むのか。私の未来は、どこに続いているのか。

 もう、あのころのように“好き”だけでは進めない道の上で、私は途方に暮れていた。


 けれど今この時ばかりは、手紙を見つめても答えは出そうにない。今立ち尽くす岐路の先は、きっと、私自身で決めるしかない。


「どうしたらいいの……」


 声に出すと、余計に苦しくなった。気がつけば窓から冷たい風が吹き込んでいて、手紙の端をかすかに揺らしている。


 そのとき、窓の外から一際強い風が吹き込んできた。


 思わず手を緩めてしまった。指先からするりとすり抜けて、手紙はふわりと宙に浮かび、そのまま風に乗って飛ばされていく。


「あ……!」


 慌てて手を伸ばした。けれど、指先は紙の端に触れることすらできない。


 ——目の前に、ふとあの日の光景がよみがえる。

 初めて出会った日のこと。誰よりも真っ直ぐな目で私を見たあなた。

 いつもからかってばかりで、でも優しくて、私の知らなかったたくさんの世界を教えてくれた。


 あのころ、私たちは子どもだった。まっすぐに夢を語り、手放しに未来を信じていられた。


 けれど大人になって、身分だとか家のことだとか、そんなものが私たちの間に立ちはだかって、ただそれだけで、一緒にはいられなくなってしまった。


 さっきまで手の中にあったはずの手紙は、風にさらわれるようにして、私の手からこぼれ落ちた。

 軽やかにためらいなく、まるで最初からそうすることが決まっていたかのように、窓辺から遠く夜の空へ舞い上がっていく。


 もう、どうしたって取り戻せない。どんなに願っても、どんなに手を伸ばしても。


 アルフレート。あなたは私を、忘れてしまっただろうか。

 私はまだ忘れられずに、いまだってあなたのことを考えている。


 だけど、たった一枚の紙に託した気持ちが、こうして私の手から離れていったのなら、心に残る面影も、名前を呼ぶたび痛む胸の内も、いっそすべて風に委ねてしまえばいいのだろうか。

 

 忘れてしまえば楽になれるのだろうか。あの日々のことも、憧れたこともなかったふりをして、なかった過去に変えてしまえたなら——。


 どこまでも静かで、どこまでも遠い空に、手紙はもう影も形もなかった。


 ——アルフレート。私はあなたを、忘れるべきなの?

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