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王立エーレ学院

 人はみな、春を新たな人生の始まりだと言う。

 そんなことがほんとうにあるのかしら、とこれまで私は思っていた。季節が一つ巡ったからといって、昨日までの悩みや憂いが消え去るなんて信じられない。人生が魔法みたいに塗り替わるなんて、想像もできなかった。


 ——なのに。


 今朝、門の前に立った私は、胸の奥で小さな火花がぱちぱちと弾けるような期待のざわめきを覚えていた。

 冷たい風が頬を撫でるたびに、目の奥が冴えていく。青すぎるほどの空の下、陽の光が制服の襟を照らして、なんだか落ち着かない。


「ここが、王立エーレ学院……!」

 

 13になった私は重々しい金色(こんじき)の門扉の前に立ち、今まさにその敷居を跨ごうとしていた。思っていたよりずっと大きい。いいえ、大きいなんて言葉では足りない。いつか本で読んだ象だって通れてしまいそう。


 ……ここが、私の新しい世界。


 王立エーレ学院——王国が設立した教育機関の中でもとりわけ名誉あるその名を、私は幼い頃から何度も耳にして育った。ここで学ぶことは、未来への道を約束されるのと同じ意味を持つのだと人々は言う。

 母は「貴族の娘として相応しい知識と作法を身につけるのよ」と扇を揺らして言った。父は「ローゼンハイネ家の名に恥じぬよう励みなさい」と短く告げた。


 けれどそんな立派な理由は、私にとって心を震わせる理由にはならなかった。


 ようやく——ようやく屋敷の外へ出られる。息の詰まるような決まりごとや、いつも誰かの目が光るあの窮屈な空気ともお別れ。

 決まった椅子に座って、決まった言葉で話すだけの日々とは違う、新しい風の匂い。知らない人たち、知らない景色。私の胸はそれだけでいっぱいだった。


 門は朝の光を受けてまばゆく輝いていた。蔓の彫飾が絡んだ鉄の骨組みが柔らかな金色を帯び、蕾を象った装飾が春の陽射しの中できらめく。脇に立つ軍の礼装を纏った衛兵が頷き、「お通りください」と告げる。

 ゆっくりと門扉が開かれる。重厚な蝶番が低くうなるような音を立て、鋳鉄の構造物がわずかずつ開いていく様は、まるで重厚な劇場の幕が上がるような錯覚を覚えさせた。


 一歩を踏み出すと、靴底が石畳を叩いて軽い音を立てる。門の奥には白い石を敷き詰めた道がまっすぐに伸びていた。両脇には手入れの行き届いた芝が朝露を抱いて輝いている。

 その先に見える校舎はまるで壮麗な中世の城のようで、尖塔が青空を突き、窓という窓が光を跳ね返していた。


 私は手にしていた入学案内の小冊子に視線を落とす。入学式は敷地の中央にある大聖堂で行われるという。正門からまっすぐ進み、噴水の広場を抜けて、講堂を通り抜けた先。


 制服の裾を整え直し、背筋を伸ばして再び歩き出すと、涼やかな水の音が微かに聞こえはじめる。導かれるようにして進んでゆくと、王都の広場に据えられているような大きな噴水があった。陽をきらきらと反射する水盤が中央に据えられ、そのまわりを小さな花壇が彩っている。


 ここが噴水の広場ね。すごい、きれいだわ。何かしら? あの花、初めて見る——。


 私は足を止め、水の跳ねる音と花々の色とを夢中で目に収めた。時間の感覚がどこかへ消えてしまいそうになって、ふと我に返ると少し早足で再び歩き出す。

 広大な敷地を抜けて進んでゆくと、ついに道の向こうに大聖堂の尖塔が姿を現した。鐘楼を支える石積みの骨格が空の蒼を背にして伸び、堂々たる気配を放っている。

 

「エリザベート・フォン・ローゼンハイネです」


 正面に構える扉の前で名を告げると、門番は名簿に視線を落とし、記された文字をひとつひとつ追うように確認してから小さく頷く。年代を感じる彫刻の施された扉が開かれ、冷ややかで澄んだ空気が頬をかすめる。


 大聖堂の中は、ひとことで言えば沈黙の広がる場所だった。

 人の声も足音も確かにあるのに、どれも石造りの壁に吸いこまれてしまう。話している人の口の形だけが見えて、音はその輪郭を残したまま遠のいていく。


 左右に並ぶ石の柱は森の幹のように高くそびえ、その先に続く天井のアーチはひとつひとつが見事に重なり合っていた。見上げていると目が吸い込まれそうになる。

 高窓のステンドグラスからは色とりどりの光が射し込み、床に淡い模様を散らしていた。青、赤、金、緑——まるで水面の上を小鳥が飛んでいくみたいに、きらめきが絶えず揺れている。


 息をするのも忘れそうだった。けれどきょろきょろしているのは私くらいで、周りの新入生たちは皆お行儀よく祭壇のほうを見ている。

 案内の者が私を先導し、軽く手を添えて一つの椅子を示した。私は小さく頭を下げて、その席に腰を下ろす。椅子の背もたれは思っていたよりも硬く、布張りのない木肌が背中に直接当たった。背筋が自然とまっすぐになる。


 しばらくすると、低く重たい鐘の音が天蓋の高みに響き渡った。

 石の壁を這い、柱を伝い、床の隅々までも撫でるようにして音の波が広がってゆく。

 衣擦れの音がした。前の方に座っていた来賓たちがゆっくりと立ち上がる。壇上に式の進行を担う司祭や教師たちの姿が現れはじめる。

 鐘の音が七つを数えて、やがてその尾を引くようにして静けさが戻ってくると、壇上に一人の人物が立った。

 白髪を丹念に撫でつけた額の広い老紳士で、深い藍色のガウンが体の線に沿って滑らかに揺れる。その人こそが、この王立エーレ学院の学院長だった。

 

「新入生諸君。王立エーレ学院へようこそ」

 

 その第一声は決して大きなものではなかったのに、不思議と人を黙らせるような力があった。大聖堂の空気がすっと引き締まり、私も息を止めて耳を傾けた。


 この学院の由緒、そしてここに学ぶ者たちに託された責務について。誇りと品格が等しく求められること。知は力であり、力には倫理が伴わねばならないこと。

 そんな言葉が一つずつ、重みを持って響いた。けれどだんだんと内容が難しくなってきて、話がどこまで続くのか気になってくる。

 背中がすべり、木の椅子の上で姿勢が少し崩れた。こっそり直そうとすると布の擦れる音が思ったより大きく響いて、慌てて動きを止めた。

 学院長の声はまだ続いている。真面目な顔で頷いてみせながらも、頭の中では外に出たら何を見ようかと考えてしまう。


 ようやく締めくくりの言葉が聞こえ、学院長が一礼すると、全員がそれに倣って頭を垂れた。長かった、と胸の奥でこっそり呟く。姿勢を正して腰を伸ばすと、張りつめていた背筋が小さく軋んだ。

 荘厳な式はまだ続いているけれど、ひとまず息をつける。けれどそうやって気を緩めたところで、再び司祭の声が響いた。


「続きまして、在校生代表による歓迎の辞——アルフレート・ヴァイス君」


 その名が読み上げられた途端、聖堂の奥でひそやかに揺れる空気の気配を感じた。私のすぐ近く、右手斜め後ろから、小さく押し殺した囁きが耳に届く。

 

「……あれ、平民の奨学生らしいわよ」


「まあ、信じられない。代表って、貴族から選ばれるものじゃなかったの?」

 

 侮蔑を隠そうともしない言葉だった。けれど、そんな声はうすら寒いほど無力に感じられる。だって、私はもう目の前の光に目を奪われていて、古びた常識の声など耳に入らなくなっていたからだ。


 整えられた式服の胸章が、階段を上がるたびに微かに揺れた。足取りは焦ることも誇示することもなく、ただ自分の歩幅で前へ進む。

 不思議な静けさが宿った横顔に、彼を軽んじる理由はどこにも見つからなかった。演壇の前に立った彼は淡く光を受けながら、ゆったりと頭を下げた。淡い栗色の髪が、光に透けて少しだけ赤みを帯びている。

 顔を上げたとき、聖堂に満ちていた無数の視線をひとつひとつ受けとめるように、目を配った。その光景がどうしようもなく目を引いて、ほんのさっきまで退屈にあくびをこらえていたのが嘘のように、気づけば視線を離せなくなっていた。

 

「新入生の皆さん。ようこそ、王立エーレ学院へ。今日から皆さんはこの場所で学び、育ち、自らの在り方を試すことになります」


 声はひとつひとつの語を拾い上げるように、慎重に手渡すように紡がれた。威厳を振りかざす演説でもなければ、詩人のように朗々とした調子でもない。けれど、不思議と耳を澄ませてしまう。

 

「この学院には、多くの価値観があります。受け継がれた家名も、誇り高い伝統も、それぞれに重みを持っています。でも、ここではそれだけではありません。生まれがどうであれ、人は学ぶことができます。そして、自らの力で未来を選ぶことができます」

 

 言葉は理想を並べ立てるでもなく、無責任な慰めを投げかけるでもない。聞いているうちに私は、じっと胸の奥を覗かれているような気持ちになった。

 ——そうだわ。飾り気のない声だからこそ、心の奥の柔らかなところにまっすぐ届く。この人の言葉には嘘がない。そう思った瞬間、さっきまでの退屈がどこかへ消えていた。


「今日、皆さんがここに来たのは偶然ではありません。選ばれ、導かれ、そして自らの足で門をくぐってきた。ならばこの学院での時を恐れず、臆せず歩んでください」

 

 言葉が進むにつれ、彼の声はわずかずつ熱を帯びていった。静かでまっすぐなまなざし。その奥にある感情が、少しずつ場の空気を変えていくのを私は感じる。アルフレート・ヴァイスは誰の目も逸らさず、真正面から壇上の空気と向き合っていた。

 

「この学院で過ごす年月が、一人一人にとって己の輪郭を広げる旅であることを。名の重みではなく、心の広さによって他者と手を携える強さを得られることを。どうか皆さん、恐れずにあなた自身で在ってください。この学院はその勇気を讃える場所であってほしいと願っています」

 

 その言葉に応えるように、大聖堂のステンドグラスが陽光にきらめいた。微かな拍手が起こり、それが次第に大きくなっていく。

 私はその場に座ったまま動けなかった。彼の言葉が、自分の奥深くにある感情に触れていたからだった。

 私のことなど知るはずもないのに、まるで私のために選ばれた言葉のように聞こえた。胸の奥の触れてほしくなかった部分に、誰よりも丁寧に手を差し伸べられたような気がする。

 

 アルフレート・ヴァイスが一礼して演壇を離れると、再び聖堂の空気は静まり返った。彼の背が見えなくなるまで目で追いかけながら、胸の鼓動は止まらなかった。


 恐れずに、あなた自身で在ってください。


 私はずっと、そうしたいと願ってきた。誰にもしばられず、自分の声に従って生きていたい。けれど、それがどれほど難しいことかも知っている。周囲の期待や家の名の重さの中では、たったひと言すら選ばなければならなかったから。屋敷での暮らしは、息をひそめて言葉を整える日々だった。


 でも、あの人は言った。生まれがどうであれ、人は学ぶことができると。そして、自らの力で未来を選ぶことができると。


 私はもう、あの息苦しい屋敷にはいない。思えばこの日を、どれほど待ち望んできたことだろう。窓から見た空の向こうに、本当の世界があるような気がしていた。

 

 きっと、私の人生は昨日までとはもう違っている。だって、今日まで願い続けた夢がやっと叶ったのだから。門をくぐったその瞬間に、新しい世界は動き出したのだ。

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