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王立エーレ学院

 人はみな、春を新たな人生の始まりだと言う。

 そんな言葉を本気で信じたことはこれまで生きてきたなかで一度もなかった。

 季節が一つ巡ったからといって、目に映る世界が劇的に変わるわけでもない。昨日までの悩みや憂いが魔法のように消え去るわけでもない。人生がそう簡単に塗り替えられるとは、とうてい思えなかった。

 しかしこの朝、私は門の前に立ち、己の胸のうちが静かにその否定を裏切っているのを感じていた。

 肌を撫でる風のかすかな冷たさ。晴れ渡った空の、そのあまりに高く遠い蒼。肩口まで差し込む陽光に、今さらのように気づいた体の芯のこわばり。それらが何か大きな出来事の兆しを、言葉にならぬかたちで囁いていた。

 

「ここが、王立エーレ学院……」

 

 13になった私は重々しい金色(こんじき)の門扉の前に立ち、今まさにその敷居を跨ごうとしていた。

 王立エーレ学院。

 王国が設立した教育機関の中でもとりわけ名誉あるその名を、私は幼い頃から何度も耳にして育った。軍人を志す者は士官学校へ、政治・法・学術の道を志す者はエーレ学院へ。父や母たちは口を揃えて「ここでの学びが、王国の未来を形作っていくのだ」と語った。

 あらゆる思惑がこの場に私を運んできた。家名、序列、伝統、義務。

 けれど私がこの門の前に立つとき、胸のうちに静かに湧き上がっていたものは、家の誇りでも、義務でも、ましてや将来の肩書きへの憧れでもなかった。もっと素朴で、もっと個人的で、誰にも譲れない思い。

 私はただ世界を知りたい。閉ざされた屋敷の中では届かぬ空の色や、人の言葉や、異なる思想の手触りに触れて、自分自身の輪郭を、自分の目で確かめてみたかった。

 だれの娘でもなく、だれかのための存在でもなく、「私」としてこの世界の中に立つということが、どれほど困難で、どれほど豊かな営みであるのかを、この学びの場で探ってみたい。

 

 正面にそびえる門は、陽に照らされ、まるで金箔を幾重にも重ねたように柔らかな光を返していた。

 鋳鉄の骨組みには繊細な蔓の彫飾が絡み、蕾を象った意匠が、節目ごとにしとやかな華やかさを添えている。

 門の脇には王国軍の礼装を纏った衛兵がふたり厳粛に立っていた。

 そのうち左手のひとりが、小さく顎を引いて「お通りください」と言い、ゆっくりと門扉が開かれる。重厚な蝶番が低くうなるような音を立て、鋳鉄の構造物がわずかずつ開いていく様は、まるで巨大な劇場の幕が上がるような錯覚を覚えさせた。

 内側に足を踏み入れ靴底が地面を叩くと、固く小さな音がする。敷石が濡れているわけではないのに、滑りそうな不安が足元にまとわりついた。背を伸ばして歩こうとするたび、どこか不格好になる。力の入れどころを間違えた手先が手袋の内側で震えていた。

 胸のうちにふくらんでいるものを言葉にするのは難しかった。

 嬉しい。誇らしい。胸が躍る。

 そのすぐ隣で、どうしようもなく心細く、寒さにも似た感情がじっと私を見つめている。


 門の奥へとまっすぐに続いているのは、白い石を緻密に敷き詰めた幅広の石畳であった。朝の陽を受けたその表面はほのかに乳白色の光を宿している。その両脇には隅々まで手入れの行き届いた芝が、春先の朝露を抱いたまま広がっている。

 広大な敷地の中央を貫くようにしてその石畳は伸び、その果てに建っているのは、壮麗な中世の城のような校舎だった。

 左右対称に配置された尖塔が天をつき、青空の中にくっきりと浮かび上がっている。石造りの外壁はどこまでも白く、そこに差し込む光が窓枠の陰影を引き立たせ、建物全体を一枚の古い版画のように見せていた。


 私は手にしていた入学案内の小冊子に視線を落とす。入学式は敷地の中央にある大聖堂で行われるという。正門からまっすぐ進み、噴水広場を抜けて、講堂を通り抜けた先。

 私は制服の裾を整え直し、背筋を伸ばして再び歩き出す。

 やがて、涼やかな水の音が微かに聞こえはじめた。水音に導かれるようにして進んでゆくと、王都の広場に据えられているような大きな噴水があった。ここが噴水広場であろう。陽をきらきらと反射する水盤が中央に据えられ、そのまわりを小さな花壇が彩っていた。

 広大な学内を進んで行けば、ついに道の向こうに大聖堂の尖塔が姿を現した。

 鐘楼を支える石積みの骨格が、空の蒼を背景に確かな存在感を放っている。

 大階段をひとつずつ丁寧に登ってゆき、エントランスに辿り着く。

 正面に構える扉は、黒檀のような深い色合いを湛えた厚い木材で造られ、その表面には年代を感じさせる彫刻がほどこされていた。


「エリザベート・フォン・ローゼンハイネです」


 門番が名簿に視線を落とし、記された文字をひとつひとつ追うように確認してから、小さく頷く。

 私は礼を返し、顔を正面に向け直した。次の瞬間、厚みのある扉が左右へと静かに押し開かれ、その内側から、冷ややかで澄んだ空気が頬を撫でた。 

 

 大聖堂の中はひとことで言えば沈黙の広がる場所だった。

 誰かが話していないわけではない。出席者たちのざわめきや足音、衣擦れの音は確かに耳に届いていた。けれど石造りの天蓋のもとでは不思議と反響せず、空気そのものが声や音を穏やかに包みこんでしまうかのようだった。

 高く突き上がる天井には、幾重にも重なるリブ・ヴォールトが美しい曲線を描いており、その隙間を縫うようにして光が差し込んでいる。

 高みに張られたステンドグラスの窓から降り注ぐ色彩は、床に水面のような揺らぎを映していた。青、赤、金、緑——どれもがきらきらと絶え間なく動いている。

 左右にはすでに席に着いた新入生たちの姿があり、皆一様に祭壇のほうを見つめていた。中には少し緊張した面持ちで隣とささやきを交わす者もいたが、その声すらもこの聖域が吸い取ってしまうかのように、小さな泡となって消えていった。

 案内の係が私を先導し、軽く手を添えて一つの椅子を示した。私は小さく頭を下げて、その席に腰を下ろす。

 椅子の背もたれは思っていたよりも硬く、布張りのない木肌が背中に直接当たった。背筋が自然とまっすぐになる。

 

 ——ゴォン。

 

 低く、重たい鐘の音が、天蓋の高みに響き渡った。

 石の壁を這い、柱を伝い、床の隅々までも撫でるようにして振動が広がってゆく。

 それは時を告げるというより、時の向こう側から何かが近づいてくるのを知らせるような音だった。

 長い冬の眠りから目を覚ましたものが静かに息を吐くような、古い記憶がひとつ音に乗って解かれてゆくような、そんな響きだった。

 

 ゴォン。


 二つ目の鐘の音が天井を満たしたとき、私の背筋に、ごく細やかな寒気が走った。

 自分でも気づかぬうちに、手のひらをぎゅっと握っていた。手袋の内側でこわばった指先が、ようやく自分の意思で動くのを感じる。深く息を吸い込むと、聖堂の中に満ちた石の匂いが肺の奥まで満ちてきた。古い雨と、蝋燭と、そして白い紙のような乾いた香り。


 衣擦れの音がした。前方に座っていた来賓たちがゆっくりと立ち上がる。壇上に、式の進行を担う学院長や教師たちの姿が現れはじめる。

 鐘の音が七つを数え、やがてその尾を引くようにして静けさが戻ってくると、正面の壇に一人の人物が立った。

 白髪を丹念に撫でつけた額の広い老紳士で、深い藍色のガウンが体の線に沿って滑らかに揺れる。その人こそが、この王立エーレ学院の学院長だった。

 

「新入生諸君。王立エーレ学院へようこそ」

 

 その第一声は決して大きなものではなかったが、不思議とすべての耳がそこに引き寄せられた。何百人もの視線が壇上に集まるなか、学院長はひと呼吸置いて、ゆっくりと口を開いた。

 この学院の由緒、そしてここに学ぶ者たちに託された責務について。

 誇りと品格が等しく求められること。

 知は力であり、力には倫理が伴わねばならぬこと。

 そんな言葉が一つずつ、きれいに磨かれた真鍮の鍵のように聴く者の胸中に静かに収まっていく。

 学院長の言葉が結びを迎えるころ、あたりの空気は引き締まり、学院長が一礼すると、場内がそれに倣って静かに頭を垂れる。椅子の軋みさえ吸い込まれていくような、まるで礼そのものが一つの祈りであるかのような、厳かな一瞬だった。

 そして、司会の教員が次の進行を告げた。


「続きまして、在校生代表による歓迎の辞——アルフレート・ヴァイス君」


 その名が読み上げられた瞬間、聖堂の奥でひそやかに揺れる空気の気配を感じた。私のすぐ近く、右手斜め後ろから、小さく押し殺した囁きが耳に届く。

 

「……あれ、平民の奨学生らしいわよ」

「まあ、信じられない。代表って、貴族から選ばれるものじゃなかったの?」

 

 侮蔑を隠そうともしない貴族の言葉だった。けれどそんな声はどこかうすら寒いほど無力に感じられた。私は既に目の前の光に目を奪われていて、古びた常識の声などもう耳に入らなくなっていたからだ。

 整えられた式服の胸章が、階段を上がるたびに微かに揺れた。歩みは過不足なく、焦ることも誇示することもない。

 不思議な静けさが宿った横顔に彼を軽んじる理由はどこにも見つからなかった。

 演壇の前に立った彼は、淡く光を受けながら、静かに頭を下げた。淡い栗色の髪が、光に透けて少しだけ赤みを帯びている。

 顔を上げたとき、壇上に満ちていた無数の視線をひとつひとつ受けとめるように、目を配った。その仕草には奇妙な威圧も気負いもなく、しかし見落とすことを許さない意志のようなものがあった。

 

「新入生の皆さん。ようこそ、王立エーレ学院へ。今日から皆さんはこの場所で学び、育ち、自らの在り方を試すことになります」


 ひとつひとつの語を拾い上げるように、慎重に、手渡すように紡がれる声だった。朗読のように整えられたものではない。しかしその語りには、何よりも誠実さがあった。偽りのないものだけが持つ静かな重み。そう思ったのは私だけではなかったのだろう。次第に、参列する誰もが彼の声に耳を澄ませていった。

 

「この学院には、多くの価値観があります。受け継がれた家名も、誇り高い伝統も、それぞれに重みを持っています。でも、ここではそれだけではありません。生まれがどうであれ、人は学ぶことができます。そして、自らの力で未来を選ぶことができます」

 

 言葉は、理想を並べ立てるでもなく、無責任な慰めを投げかけるでもなかった。

 聞いているうちに私は、じっと胸の奥を覗かれているような気持ちになった。

 顔を上げて彼を見つめた。アルフレート・ヴァイスは誰の目も逸らさず、真正面から壇上の空気と向き合っていた。


「今日、皆さんがここに来たのは偶然ではありません。選ばれ、導かれ、そして自らの足で門をくぐってきた。ならば、この学院での時を恐れず、臆せず、歩んでください」

 

 言葉が進むにつれ、彼の声はわずかずつ熱を帯びていった。静かでまっすぐなまなざし。その奥にある感情が少しずつ場内の空気を変えていくのを私は感じていた。

 

「この学院で過ごす年月が、一人一人にとって、己の輪郭を広げる旅であることを。名の重みではなく、心の広さによって、他者と手を携える強さを得られることを。

 どうか皆さん、恐れずにあなた自身で在ってください。

 この学院は、その勇気を讃える場所であってほしいと願っています」

 

 その言葉に応えるように、大聖堂のステンドグラスが陽光にきらめいた。

 微かな拍手が起こり、それが次第に大きくなっていく。

 私はただ、その場に座ったまま動けなかった。彼の言葉が、自分の奥深くにある名もない不安に触れていたからだった。私のことなど知るはずもないはずなのに、まるで私のために選ばれた言葉のように聞こえた。胸の奥の触れてほしくなかった部分に、誰よりも丁寧に手を差し伸べられたような気がした。

 

 アルフレート・ヴァイスが一礼して演壇を離れると、再び聖堂の空気は静まり返った。彼の背が見えなくなるまで目で追いかけながら、私は自分でも気づかぬほど深く指を組んでいた。

 静かに流れる儀式の時間のなか、私は一人、自分の内側を確かめるように彼の言葉を繰り返していた。


 恐れずに、あなた自身で在ってください。


 それは簡単なようでいて、きっとこの場所では何度も試される言葉なのだろう。誰かの期待に応えることと、自分の声に従うことは、時に残酷なほどすれ違ってしまう。

 でも、あの人は言った。生まれがどうであれ、人は学ぶことができると。そして、自らの力で未来を選ぶことができると。

 この場所で、私は何を見つけるのだろう。誰と出会い、何を交わし、どのように変わっていくのだろう。予感にも似た想いが、胸のうちをそっと揺らしていた。

 私は思った。私はこの場所で、自分の足で歩いていきたい。この手で掴んだものに、意味を見出していけるように。迷いながらでも、少しずつでも、自分の道を歩いていけるように。

 誰の名の下でも、誰の庇護のもとでもなく。

 私の人生は、もう昨日までとは違っているのだと思った。誰が定めたわけでもない。

 ただ、門をくぐったその瞬間に、何かがゆっくりと動き出したのだ。

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