表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
68/100

奇跡の物語

 翌日。昼の鐘が鳴る頃、私は食堂の隅の席に腰を下ろして、ランチのトレイを前にノートを開いていた。

 ラウルが隣の席にいて、時おり視線をよこしてくる。向かいにはミレイユもいた。サラダにフォークを差し込んでいた彼女は、ふいに顔を上げて眉をしかめる。


「なんでラウルがいるのよ」


 あからさまな不満の声音に、私は少しだけ眉を下げて答える。


「私たち、オペレッタを作りたくて……だけど、私がここにいられる期間は限られているから、使える時間は全部使いたいのよ」


 ちらりとミレイユの顔をうかがう。彼女はわかりやすく呆れたようにため息をつきながらも、私の言葉に耳を傾けてくれていた。


「それにミレイユ、あなたの意見も聞きたいの」


 そう告げると、ミレイユはフォークを止めたまま、私をじっと見た。けれどすぐに肩を竦め、再びため息を吐く。


「ふうん。まあいいけど」


 許してくれたのか、それとも面倒くさいと思って流したのか、どちらともつかない返事だったけれど、それでも私はほっとした。スープを口に運びながら手元のノートを見やる。


「でもね、ただ物語を考えるだけじゃ足りない気がしてるの。“話題になるオペレッタ”を作るには、もう一つ、何かが必要なのよ。観た人の記憶に残るような……」


 そこまで言ったとき、ミレイユがフォークを置いた。少しだけ真剣な目でまっすぐ私を見てくる。


「だったら、バレエを入れれば?」


「バレエ?」


「夜の嘆きみたいに。群舞の演出が目を引いたんでしょ?」


 なるほど、と思った。たしかに、あの幻想的なシーンは私の記憶にも残っている。音楽が静かにうねるなか、吸血鬼たちが歌いながら暗い舞台を滑るように舞う場面。


 私ははっとして、机の上のノートに急いでペンを走らせた。「バレエ」とだけ、とりあえず大きく書いて丸をつける。それから顔を上げて、ふと思う。


 ——どんなオペレッタなら、記憶に残るだろう?


 物語の筋だけではない。視覚的な印象や、音楽の起伏、舞台上で起こるすべての動き。どんな物語で、どんな演出なら、人の心に焼きつくのだろう。私は何を伝えたくて、どんなふうに笑ってもらいたいのか。


「それなら、歌のない場面も入れてみる?」


 パンをかじりながら、ラウルが何気ない声で言った。だけどその一言が、思いがけないほど私の思考を揺さぶった。


「……歌劇なのに、歌がない?」


 私は小さく眉をひそめて問い返す。ラウルは「冗談だ」と笑ったけれど、私はすぐに、そこに可能性の芽のようなものを感じていた。


 ——たとえば。


「……それなら、台詞で語れる場面は、台詞にしてしまうとか。歌を“特別な場面”にしてしまうの。そうすれば、その歌は観る人の印象に強く残るはず」


 口にして、自分でも驚いた。

 それはたしかに、私がこれまで観てきたどんな歌劇とも少し違う。でも、だからこそ、今までにない何かが生まれるかもしれないと思えた。

 私のノートには、少しずつ書き込みが増えていく。物語の断片。アイデアの種。

 ミレイユの視線がそのノートの上に落ち、ほんの少しだけ口元が綻んだ。


「……面白くなりそうじゃない?」



 ◆



 オペレッタの構想を練りはじめてから、しばらくの月日が経っていた。

 人々の記憶に残る演出は形を見せはじめていたものの、軸となる肝心の物語はまだ思いつかなかった。ノートの余白には走り書きの単語や曖昧な情景の断片ばかりが並び、核心にはなかなか手が届かない。


 オペレッタの特徴は明るい物語に幸福な結末。観る人を笑顔にするには、どこまでも陽の光を浴びたような話がふさわしい。けれどどんなに考えても、それらしい筋立てはどこか借り物のようで、心にしっくりと収まってくれなかった。


 ——何か、もっと特別な物語がほしい。


 そう思って、私は時間さえあれば王立図書館へ足を運ぶようになった。

 煉瓦造りの高い天井、柱に囲まれた静かな閲覧室、棚という棚を埋め尽くす本の海。私はその合間を歩きながら、まるで何かを祈るような気持ちで頁をめくりつづけていた。


 探していたのは、小さな奇跡のような話だった。

 童話でもいい、民間伝承でもいい。誰かが語り継いできた幸福のかたちに、物語の始まりの糸口が潜んでいる気がしたのだ。


 ある午後、曇った空の光が窓越しに落ちるなか、私は偶然一冊の本に目をとめた。

 中背の棚の中段に、可愛らしい花柄の装丁がそっと埋もれるように並んでいた。他の歴史書や記録集の無骨な背表紙とはまるで違って、まるで花束のように柔らかなその一冊が、ふいに私の指を止めた。


 『歴史を彩った恋物語——王侯貴族の結婚と情熱』


 淡いピンク地に小花が散りばめられたクロス装丁。その手触りはどこか懐かしく、指先でそっとなぞると布のあたたかさが伝わってくる。私は静かに本を引き抜き、窓際の席へ持ち込んだ。


 頁をめくるごとに、異国の宮廷、政略結婚、許されぬ恋、駆け落ち、誓いの言葉……さまざまな物語が、絵入りの見出しと共に紹介されていた。

 そのひとつひとつに、時代を超えて語り継がれる力があったけれど、私の目が吸い寄せられるように止まったのは、ある短い章だった。


 アメリ・ド・ロシュブラン公妃——ルシェーヌ王子の愛を射止めた侯爵令嬢


 その見出しに、私は息を呑んだ。見開きには、繊細な線で描かれた一人の女性の肖像が載っていた。静かに微笑む表情。高く結い上げられた髪と、肩を覆う刺繍のショール。そしてその名の下には、出自と略歴が添えられていた。


 出生名:アマーリエ・フォン・ライヒェンバッハ。ノルトハルデンの侯爵令嬢。

 青年時代のレオポルド王子——のちのロシュブラン公——と恋に落ち、政略ではなく恋愛により婚姻。異国の公妃として長年民に愛された。


 ——ノルトハルデン。

 私と同じ国、同じ空の下で育った女性。


 ページを押さえる手に、思わず力がこもった。

 政略が常である貴族家に生まれ、自らの意志で異国の王子と結ばれたというその事実は、きっと多くの人々にとって希望となったに違いない。

 そしてアメリ公妃がその後、長く人々に愛されたという経緯もまた、物語の終わりをあたたかなものにしていた。


「アメリ・ド・ロシュブラン……」


 その名前を、声に出して読んでみる。愛を貫いた令嬢。異国の王子に嫁いだ、自由な心を持つ女性。彼女の人生は、きっと誰かの希望になりえる。


 頭の中に光が射したような心地がした。彼女の物語を、オペレッタにしたい。あたたかくて、愛に満ちていて、笑顔で終わる舞台を。

 それに、彼女の出自は私自身の原点にも近い気がした。ノルトハルデンの空の色、貴族の家庭、そしてそこで過ごした少女時代の感覚すべてが、物語の骨格になってくれる気がしたのだ。




 翌日、私は急ぎ足で学院の廊下を抜け、ラウルの姿を探して歩いた。ちょうど中庭のベンチに腰かけていた彼を見つけて、私は胸に抱えたノートを両手で握りしめたまま声をかけた。


「ラウル、相談があるの」


 顔を上げた彼は、いつもの快活な表情を見せながらも、私の様子に何かを察したようにまっすぐな視線を向けた。


「いいよ。どうしたんだ?」


 私は彼の前に立ち、ノートを差し出すようにして言った。


「オペレッタの主人公にしたい人ができたの。アメリ・ド・ロシュブラン公妃——ノルトハルデンの侯爵令嬢で、ルシェーヌの王子と恋愛結婚した人。彼女の物語を舞台にしたいの」


 ラウルはノートを眺めて少しだけ考え込むようにしてから、ぽんと手を打って頷いた。


「なるほど、いいな。アメリ公妃は今でも人気があるんだ。肖像画が使われた紅茶缶を母が持ってた。たしか“幸福を運ぶ花嫁”って売り文句だったっけ」


 彼は記憶を引っ張り出して笑うように言ったけれど、その目の奥は真剣だった。


「それに、君が作ることにも意味があると思う。ノルトハルデン出身の君が、同じ土地から来た彼女の物語をオペレッタにする——それだけで話題性は十分だし、何より説得力がある」


 ラウルはまっすぐな目をして、ためらいのかけらもなく続けた。その言葉が、不思議なほど心の奥にすとんと落ちてきた。

 私は胸の前でノートを抱え直し、ラウルを見る。彼の瞳はあいかわらず快活で、その奥にある芯の強さが、私の背を強く押してくれた。




 再び王立図書館を訪ねると、調査室の係員が親切に案内してくれた。アメリ・ド・ロシュブラン公妃についての記述は思ったより多く、彼女が広く知られ、愛されてきた存在だったことがわかってくる。


 古い宮廷年鑑や手紙の写し、書簡集、日記の断片……書架の奥から引き出された資料に目を通すうち、私は次第に、文字の向こうにひとりの女性の輪郭を感じるようになっていった。


 曰く、彼女は幼い頃から快活で、お転婆な性格で知られていたという。

 曰く、宮廷の規律よりも自由な舞踊や乗馬を好み、よく兄たちと野原を駆けていたという。


 曰く、ルシェーヌのレオポルド王子がノルトハルデンを訪れた際、宮廷の舞踏会で彼女と出会った。

 その場で一目惚れしたのは王子の方だったとする記録もあれば、いや、彼女の方から熱心にアプローチしたと記された文もある。


 どちらが先であったにせよ、ふたりが周囲の反対を押し切って婚姻に至ったのは確かだった。

 王家に嫁いだあとも、アメリ公妃は生国の言葉と文化を大切にしながら、ルシェーヌの宮廷で人々に愛される存在となったらしい。


 書物のなかに綴られた逸話のひとつひとつが、読み進めるほどに色彩を帯びて私の心を満たしていく。

 ——この人の物語を、私は舞台にしたい。史実をなぞるだけではなく、そこに歌と踊りをのせて、観る者の心をあたたかく照らす物語に。



 ◆



 翌日の昼休み、私はいつものように食堂の隅の席に座って、トレイの横にノートと万年筆を広げていた。

 ラウルがその隣に腰を下ろして、スープを掬いながら私の書いた文字を覗き込んでくる。私たちがこうして並んでオペレッタの相談をするのも、もうすっかり日常になっていた。


 向かいにはミレイユ。彼女はフォークを滑らせながら、いつものように私たちの会話を黙って聞き流している。何も言わないけれど、「また始まったのね」という空気はひしひしと伝わってくる。


「……二人が出会ったのは、ノルトハルデンの宮廷舞踏会だったそうよ」


 私は顔を上げてラウルを見た。


「だったら、物語の始まりは宮廷がいいんじゃないかしら。舞踏会から始まるのって、きっと華やかで印象に残るわ」


「うん、絵になるよな。衣装も音楽も豪華だし、舞台の始まりとしてはすごく惹きつけられる」


 ラウルは相槌を打ちながらペンをくるくると指で転がし、それからふと視線をノートに落とした。


「だけど、アメリ公妃の生い立ちとか、そういう背景にも触れた方がいいんじゃないか?」


 私は手を止めて、ノートの余白に視線を落とす。


「それなら……幕開けの場面は、アメリ公妃の生家にしましょう。舞踏会の朝。彼女が支度をしているところから始めるの」


 万年筆の先が紙の上をすべる音だけがしばらく続く。窓の外には秋の光がのどかに揺れ、遠くから中庭の芝生ではしゃぐ学生の笑い声が聞こえていた。


「舞踏会より馬に乗っていたいって顔をしていそうだ」


「……ええ、そうかもしれないわ。髪を結われて、気乗りのしないままドレスに腕を通すの」


 万年筆を走らせながら、私はじっと想像を巡らせた。まだ少女の面影を残す侯爵令嬢が、レースのガウン姿で鏡の前に座りながら、じっとりとした表情で侍女の手を煩わせている——そんな場面が目に浮かぶ。


「でも、そういう彼女だからこそ、自分の心に従って王子を選んだって説得力が生まれると思うの」


 ここに来て物語の輪郭がひとつ、はっきりと見え始めた気がした。貴族の娘に生まれながら、好んで野に出るような少女が、名も知らぬ王子と出会って、人生そのものの選択として彼を選ぶ——そんな物語。


「……あんたたち、ここのところずっと書いてるけど、飽きないの?」


 そのとき、ミレイユがサラダをつつきながら、呆れたような目を向けて言った。


「飽きてる暇なんてないのよ」


 私は少しだけ笑って返した。


「今、やっと本当に作りたいものに出会えた気がしてるの。だから、ひとつも逃したくない」


 ノートに視線を戻すと、さきほど書いた「舞踏会の朝」という言葉の下に、新しい行を引いて書き足す。


 ──“私はドレスなんて着たくない。このまま抜け出して、馬に乗って遠乗りにでも出かけたいくらい”──


 これが、彼女の物語の始まり。快活でお転婆で、宮廷のしきたりが嫌いな女の子の、本当に幸せな物語の始まり。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ