貴公子の誘い
やがて馬車が速度を落とし、扉の外に御者の声が響いた。扉が開けられ、ラウルが一歩先に立って手を差し伸べてくれる。その手を取って外へ降り立つと、目の前には息を呑むほどの邸宅が建っていた。
装飾の施された石造りの外観に、蔦の絡まる高い塀、鉄の門扉の向こうにはゆるやかな階段と、玄関へと続く赤い絨毯。門前にはすでに数台の馬車が停まり、煌びやかな衣装に身を包んだ人々が階段を上っていくのが見える。
ラウルの手をとって馬車から降り立つと、そのまま自然な動作で腕を差し出される。洗練された所作に導かれるようにして、私は彼の隣に並んだ。燕尾服の布地越しに伝わる体温が、不思議と頼もしい。
邸宅の玄関では制服に身を包んだ案内係が控えていて、ラウルが内ポケットから封筒を取り出して差し出す。
「ラウル・ド・ヴァロワと申します」
慣れた口調で告げられたその声に、係の者が恭しく頭を下げる。瞬き一つ分の間のあと重厚な扉が開かれ、広間へと至る空間がその奥に姿を現した。
その先に広がっていたのは、まさしく夢のような光景だった。
大理石の床は蝋のように滑らかで、天井には複雑な装飾を纏ったシャンデリアが吊るされていた。無数の燭が淡く、けれども豊かに広間を照らしている。
音楽は絶え間なく流れていた。管弦楽の旋律が空間を優雅に包み込み、会話のざわめきさえもどこか音楽の一部のように耳に心地よい。
客人たちはグラスを手に談笑し、色とりどりのドレスがまるで花の園のように広間を彩っている。小さな楽団が片隅で演奏を奏で、その横には給仕たちが銀の盆を携えて立ち並び、シャンパンとワインの芳香がほのかに漂っていた。
私はラウルの腕を頼りにしながら、その光に満ちた世界へと足を進める。ラウルは慣れた様子で足を踏み出すと、すぐに来賓のひとりに目を留めて微笑みかけた。
「ご無沙汰しております。お元気そうでなによりです」
彼がにこやかに声をかけると、相手も気さくに応じ、視線を私の方へと向けてくる。その瞬間私は自然と膝を折り、小さく礼を添える。幼い頃から叩き込まれた貴族式の挨拶は身体に染みついていた。
「そちらの方は?」
そう問われると、ラウルは笑みを浮かべながら、私の方に軽く視線を向けた。
「エリザベート・フォン・ローゼンハイネ嬢です。音楽舞踏学院の留学生で、今宵は私のパートナーを務めてくださっています」
ラウルの紹介に、相手は礼儀正しく微笑んで頷く。そのままラウルは会場を移動しながら、次々と来賓に挨拶を交わしていった。紋章の入ったカフスを留めた年配の紳士、艶やかなドレスに身を包んだ貴族の令嬢——彼らと自然に言葉を交わしてゆくラウルは、まさしくその世界に生きる人間だった。
私はその隣に寄り添いながら、必要に応じて礼を添え言葉を選び、なるべく穏やかな表情を保とうとした。緊張していたのか、それとも絢爛な広間に飲まれていたのか、視界は少しずつ熱を帯びていたけれど、ラウルの落ち着いた物腰がそれを不思議と和らげてくれる。
そんな折、少し年配のご夫妻が目の前に現れた。ご婦人は手元のグラスを掲げたまま、ふと私に視線を移し、瞬きを一つ。
「あら……あなた、もしかして……『夜明けの国の王女』でカミーユを演じていた方じゃありません?」
その声に驚いて顔を上げると、華やかな赤いドレスをまとった女性が、目を輝かせながらこちらを見つめていた。隣には紳士然としたご主人が穏やかな笑みをたたえて立っている。
「はい。……ご覧くださったのですね。光栄です、マダム」
私がそう答えると、ご婦人は嬉しそうに口元に手を添え、ほんの少しだけ身を乗り出すようにして言った。
「本当に素晴らしかったわ。あの役はきっと、とても難しかったでしょう? 強さと脆さのあいだを行き来するような、まるで硝子細工のような少女。なのにあなたが演じると、ごく自然にその姿が浮かび上がるの」
私は不意に息を呑んだ。自分が舞台の上で追い続けていたカミーユという少女。その複雑さも、その影の深さも、ほんのひとときでも、誰かに伝わったのだとしたら——それはもう、十分すぎるほどの報いだった。
「ありがとうございます……。彼女のことは、最後まで悩みながら演じました。けれどきっと、彼女もこの場にいたら、マダムのお言葉を喜んでくれると思います」
胸に手を添えて深く礼をすると、ご婦人は嬉しそうに小さくうなずき、ラウルの方へちらりと視線を送った。
「なんて素敵なこと。芸術に身を捧げるお二人。あなたたちほど理想的な恋人同士は他にいないわ」
その言葉に私は息を呑み、返す言葉が咄嗟に見つからず頬を染めてしまう。けれど隣に立つラウルはというと、否定もせず穏やかに微笑んでいた。
ご主人の方も軽くグラスを掲げて言う。
「ラウル君、彼女をしっかりエスコートしなさい。いや、実にお似合いだよ」
軽口交じりのその言葉に、ラウルは「もちろんです」と笑って頭を下げる。私はますます言葉に詰まり、視線を落としてドレスにそっと指を添えることしかできなかった。
そのとき、ふいに楽団の奏でる旋律が変わった。どこかで弦が鳴り、管がそれに応えてふくらみ、拍の取りやすい華やかなワルツへと切り替わる。それを合図に、人々の視線が自然と広間の中央に向き、手を取り合ったパートナーたちがゆったりと歩を進めていくのが見えた。
絹の裾が、宝石が、髪飾りが、あちらこちらで優雅な光を放ち始める。舞踏の時間だと、誰が言うまでもなくわかる。
「エリザベート、よければ一曲踊ってくれないか」
言い終えるより早く、ラウルは片手を差し出していた。その所作があんまりにも綺麗で洗練されていて、私はまるで舞台の上で一度きりの名場面に差しかかった女優のような気持ちになった。
「ええ。よろしくてよ、ムッシュ」
気取った冗談まじりの返事にラウルが笑う。軽く手を引かれて、私は舞踏の輪の中へと歩み出す。
広間には絹の裾が擦れる音、グラスの鳴る音、ほのかに香る香水の気配。華やかな音楽の調べが耳を包み、蝋燭の光が磨き上げられた床やドレスのビーズに反射してきらきらと揺れる。
ラウルがそっと私の腰に手を添え、もう片方の手を軽く持ち上げる。その手に導かれるまま、一歩、また一歩と歩み出すと、自然と体が音楽の流れに溶け込んでゆく。
彼の足取りは軽やかで迷いがなかった。足元を気にせずついていける安心感があって、まるで音に乗せて運ばれているようだった。
私はそっと視線を上げる。ラウルはいつもの快活な笑みを浮かべたまま、私を見つめていた。
音楽が優雅に弧を描く。ラウルの腕に導かれて回転すると、スカートが広がり、空気の流れが風となって身を包む。
一曲が終わると、ラウルが軽く私の手を握り、そっと輪の外へと歩き出す。二人して静かな隅へ向かい、いつしか会場のざわめきが遠のいていた。
やがて夜会の喧騒が少し落ち着いた頃、私たちは邸宅の二階にあるバルコニーへと出た。夜の空気はひんやりとして、頬にかすかな冷たさを運んでくる。庭には仄かな灯りがともり、低く茂った草木が風に揺れていた。
ラウルはバルコニーの手すりに片肘をついて夜の景色を見下ろしながら、振り返るように私の方へと視線を向けた。
「今日は付き合ってくれてありがとう。本当に助かったよ」
「いいのよ。私も楽しかったもの」
静かに答えてから、少し視線を外して夜空を仰ぐ。満ちかけた月が雲の間に浮かんでいる。
「『夜明けの国の王女』をご覧になった方にも会えたし……あんなふうに声をかけてもらえるなんて思ってもみなかった。すこし、夢みたいだったわ」
「言っただろ? 君はすごいんだよ。カミーユは君にしかできなかった」
ラウルの言葉はあたたかく、何気ない口調なのに不思議と胸に残る。私は小さく息を吐いて、「ありがとう」とそっと答えた。
しばらくして、彼がふと思い出したように問いかける。
「そういえば、君の国にオペレッタを広める方法は浮かんだ?」
その声に、私はゆっくりと顔を向けた。月明かりがラウルの頬を照らしていて、その表情は真剣とも、少しだけ戯けているようにも見えた。
私はラウルの方を向いたまま、けれどすぐには答えられずにいた。手すりの上に指を添えて、視線だけそっと月へと移す。
「……まだ、わからないの」
ぽつりと、胸の奥にある悩みの欠片を吐き出すように言った。
「この国の劇団に頼んで、私の国で公演をしてもらうことだって、やろうと思えばできると思う。上演の許可を取って、歌手を呼んで、舞台を整えて……」
そこまで言って、私は眉を少しひそめた。心に浮かんだのは、あの国の劇場の重たく格式ばった空気。観劇に訪れる貴族たちの正装と、ほとんど義務のような礼儀作法。私はその中で育ったのだと思い知らされる。
「だけど、悲劇が主流の劇場に突然明るい物語を持ち込んでも、きっとすぐには受け入れてもらえない」
声を落として続ける。
「それに言葉も違う。翻訳するにしても、訳された歌詞じゃきっと元の音楽には乗り切れない。かといって原語のままだと……楽しめるのは限られた人だけになってしまう」
月明かりの下、胸の中に溜まっていた言葉たちが、ぽろぽろとこぼれていく。
舞台を愛しているからこそ、その難しさがよくわかる。誰かの心に届くには、ただ美しいだけじゃ足りない。
「……誰にでも楽しめるものを、って考えているのに。考えれば考えるほど難しくて。ねえ、ラウル」
私はゆっくりと、彼を見つめ直した。
「私は、どうしたらいいのかしら」
ただの悩みではない。舞台の端に立つ一人の役者として、そして遠い祖国の舞台に思いを馳せる一人の人間としての心の奥からの問いだった。
風がすこし吹いて、髪の端をそっと揺らした。窓の向こうでは、まだ夜会の灯がゆらめいている。
ラウルは少しのあいだ黙っていた。けれど、すぐにいつもの調子で真っすぐに言った。
「君が作ればいい」
あまりにあっさりと、そして迷いなく言い切られて、私は言葉を失う。月明かりの下で見上げたラウルの横顔には、からかいでも慰めでもなく、本気の色が浮かんでいた。
「……そうね。そうできたらとても素敵ね」
それが叶えばどんなに素敵だろうと、なんのためらいもなくそう思う。けれど、現実は簡単にはいかないのだ。苦笑まじりに返した声は、自分でも少し情けなく思えた。
「だけど私には、そんな影響力はないの。たとえ書いたって、劇場で上演させてもらえるとは限らないわ」
「じゃあさ」
ラウルがこちらを向いて、一歩、私のほうへ近づく。
そして彼は、まるで自分の中ではもう答えが決まっているかのように言った。
「こっちで作ればいい。君のオペレッタを。こっちで話題の歌劇作家になって、それから帰ればいいんじゃないか?」
私は思わず彼を見つめ返す。ラウルの目には、まるでその未来を心から信じているような光が宿っていた。
私が、作る? オペレッタを。あの明るく賑やかな物語を。
考えて、私は視線を落とし、静かに息を吸った。
この国の劇場で見てきた煌びやかな舞台を思い出して、自分にその色彩を写し取るだけの手腕があるのか、不安がよぎる。
それでも——やってみたい、と思った。
ひとつの可能性にすぎなくても、それが未来へつながるのなら、私は恐れずに手を伸ばしたい。
失敗しても、誰に笑われてもかまわない。舞台に立つことを選んだあの日から、きっと私はずっとそういう人間になりたかった。
月の光が静かにバルコニーを照らすなか、私はそっと顔を上げて、彼に問いかける。
「……できるかしら」
ラウルは驚いたように眉を上げ、それからふっと笑った。
「できるさ」
そして一歩、私の隣に立って迷いのない声で言う。
「俺と作ろう。君のオペレッタを」
その言葉に、私は今度こそためらいなく頷く。
できるかどうかは、やってみなければわからない。これがどれだけ夢のような話だとしても、ラウルの言葉は、舞台の幕が上がる瞬間のように、どうしようもなく私の胸を高鳴らせたのだ。




