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『夜明けの国の王女』

 陽の光が絹のカーテン越しに揺れていた。王城の南棟、三階の小さな一室は花咲く温室のように柔らかく、静けさと甘やかな空気に包まれていた。風がひととき木々を騒がせると、庭のバラがさらさらと葉を鳴らし、窓辺で絵本を読んでいた少女がぱたんと本を伏せた。


「おとうさま!」


 まだあどけなさの残る声が白亜の天井に明るく響いた。リボンで結わえた金の髪が、小鹿のような身ごなしに揺れる。

 レティシア王女。この国の王と王妃の一人娘であり、まだ六つになったばかりの陽だまりのような存在だった。


 王は膝を折ってレティシアの背丈に合わせると、その小さな額に口づけた。王妃が微笑みながら椅子を引き寄せ、少女の髪にそっと指を入れる。


「今日はどんな本を読んでいたんだ?」


「昔の王女さまの話。遠い国へお嫁に行くの。ちょっとさみしいけれど、すてきなお城が出てくるのよ」


 王妃が笑った。「あなたも、いつかそんなお城に?」


「うーん、でもわたし、遠くへは行きたくない。おとうさまとおかあさまと、ずっといっしょにいたいもの」


 王と王妃は目を合わせ静かにうなずいた。その日常がどれほど貴重なものであるかを、大人である彼らは知っていた。

 だからこそ何度でも抱きしめた。少女の手を、温かく包み込んだ。


 けれど。


 その安らぎは、そう長くは続かなかった。


 それは夜明け前のことだった。遠くから低い地鳴りのような怒声が響き、王城を取り囲んでいった。革命軍の先鋒が城門を突破し、火が投げ込まれ、叫び声がこだました。兵士たちは次々に倒れ、侍女の悲鳴が夜に裂けた。


 近衛騎士団の隊長であるロランは、剣を帯びたまま寝所に駆け込んだ。


「レティシア様をお連れします!」


 血の匂いと硝煙に満ちた廊下を、彼は少女を抱いて駆けた。

 夜が明けきらぬ薄明のなか、鐘が鳴った。王政の終焉を告げる音として。


 人々が押し寄せる広場に、曇天が覆いかぶさっていた。

 処刑台の上で、国王と王妃はただ前だけを見据えて立っていた。罪人として群衆の前に晒されても、彼らは王家の誇りを捨てなかった。


 断頭台の刃が上がる。その瞬間、民衆の中から革命の讃歌が上がった。それは歓喜にも似た狂気であり、血で染められた祝祭だった。こうしてこの国に、革命軍による恐怖の時代が始まった。



 ◆



 あれから、十回の冬が過ぎた。王都から遥か南、かつて貴族たちの避暑地として栄えた丘陵地帯に、ひときわ古びた石造りの館がある。

 灰色の屋根瓦は何年も修繕されておらず、蔦が絡んだ壁にはひび割れが浮かんでいた。それでも、そこに人の気配は確かにあった。わずかな明かりと抑えた足音、そして静かな祈りの声。


 レティシアは窓辺の椅子に腰かけ、羊毛を手繰り寄せていた。繕い物をする手つきはすでに慣れたもので、針の動きには無駄がなかった。

 膝の上には継ぎ当てを待つリネンのハンカチ。外から風が吹き込むたびにカーテンがそっと揺れた。


「レティシア様、今日はこのあたりで……お身体が冷えますわ」


 そう声をかけたのは、元侍女頭のエレオノールだった。王政が倒れたのち身を隠し、姿を変えてなおレティシアに仕えている数少ない旧臣のひとりである。彼女は黒いドレスに身を包み、皺の寄った手で少女の肩に薄いショールをかけた。


「ありがとう。でもまだ針目が整っていないの」


 レティシアの声は大人びて澄んでいた。昔のように華やかでも、無邪気でもなかった。六歳のときに途切れた時間の続きなど、もう戻ってはこない。


 館には他にも数人の旧臣が潜んでいた。皆それぞれの身分を偽りながら、密かに彼女を守っていた。

 屋敷の主はかつて伯爵の称号を持っていた家の未亡人であり、今ではただの老女としてひっそりと暮らしている。彼女の好意と忠誠により、レティシアの身は今日まで守られてきた。


 だが、外の世界は苛烈だった。


 街には密偵が溢れ、広場では今なお処刑台が組まれている。民衆は革命の恩恵よりも粛清の影に怯え、声を潜めて生きている。神父の説教にも検閲が入り、子どもがうっかり口にした言葉ひとつで家族が連行される。

 それでも時折、広場の片隅や農村の小道で、誰とも知れぬ人間が耳打ちするという。


 ——王女は、生きている。


 真偽の定かでないその噂が、ある日、館にも届いた。


「……奴らの内部で亀裂が走っている。地方の司令官と中央の委員会が対立しているらしい。権力闘争のはざまで、統制がゆるんでいる。いまなら、……動けるかもしれん」


 そう口にしたのは、ロランだった。


 夜の談話室。暖炉にわずかな火を焚いて、老女主人と数名の旧臣、そしてロランが椅子を囲んでいた。壁にかけられた地図には、複数の地点に印が打たれている。

 ロランの黒髪には雪のような白いものが混じり始めていたが、その瞳に宿る意志は変わらなかった。レティシアが逃げおおせたあの夜から、彼はずっと彼女のそばにいた。


「民衆の間でも、王政復古の声が高まっている。搾取と処刑に疲れ、秩序を求める声が出始めた。……今こそ、レティシア様を——女王を、王都へ送り出す時です」


 言葉が落ちたその瞬間、静かに扉が開いた。


 軋む蝶番の音に、皆が一斉に振り向いた。

 部屋の入り口に立っていたのはレティシアだった。深い藍色のマントを肩に羽織り、髪は背中で一つに結われていた。

 灯火に照らされたその姿は、もはや幼さを残した少女ではなかった。長い沈黙を抱えながら育った者の、底知れぬ影を湛えた眼差し。


「それは、再び革命を起こすということですか」


「レティシア様……」と、老女主人が口元に手を当てて立ち上がる。


「話の続きを聞かせてください。これは、私のことなのですから」


 ロランは椅子から立ち上がると、レティシアに向き直って静かに頷いた。


「国民はもはや王政を憎んでいるのではありません。憎まれているのはかつての贅沢と、民を顧みなかった政治です。今、民衆が求めているのは安定と公正、そして信じられる象徴です」


 レティシアは一歩、部屋の中へ足を踏み入れた。床板がかすかに鳴る。誰も彼女を止めなかった。誰一人、異を唱えなかった。


「私は、父や母が築いた時代を取り戻したいわけではありません」


 彼女の声には、かすかな震えがあった。迷いを押し隠すこともせず、ただそのままに。


「今、民が苦しんでいることもわかっています。家を焼かれ、家族を失い、何を信じればいいかわからずにいることも。でも、それを救う手立てを私は持っていない。この手には剣も法もなにもない」


 ロランは口を開きかけたが、思いとどまった。レティシアはふと顔を上げ、暖炉の灯に照らされた壁の地図に目をやる。


「“信じられる象徴”と言うけれど、それだけで人は救われるのでしょうか。誰かの希望になることで、また誰かを絶望させることにはならないのでしょうか」


 問いは明確だったが、答えはどこにもなかった。ロランはゆっくりと椅子から立ち上がった。まるでその問いにこれまでの年月すべてを注いで応えるように、深く言葉を選ぶ。


「象徴だけでは人は救えない。けれど象徴がなければ、人は集まることもできません。……レティシア様、革命の名のもとに始まったこの時代は、もはや正義を失い、ただの支配と恐怖に成り果てた。だからこそ、我々には新たな秩序が必要なのです」


 彼の目は真っすぐに、ただ彼女を見ていた。


「それを示せるのは、あなただけです。旧き王家の血筋を、新たな指導者を民は待っている」


 レティシアは目を逸らさず、静かに息を吐いた。答えは出ていない。胸のなかにあるのは、冷たい霧のような迷いだけだった。

 でももう、誰かが決断しなければならないことは、理解していた。


「……私は、王女として帰るのではありません」


 それだけを残して、彼女はゆっくりと踵を返した。部屋を出ていく背に誰も言葉をかけなかった。ロランは目を閉じ、ゆっくりと膝をついた。



 ◆



 それから数日後、旅支度が整った。

 同行を許されたのは、ロランと忠誠を誓う少数の騎士たち、そして旧王政派の大司教。身を隠すための護衛も兼ねていたが、実際にはレティシアが“誰であるか”を証言しうる者でもあった。


 出発の日、朝露に濡れた馬蹄の音が中庭に響いた。レティシアは旅装に身を包み、マントの襟元に指をかけた。心は重く、足取りは軽くなかった。


 王都へ向かう街道は、かつては行き交う馬車や市の行列で賑わっていたが、今ではまるで死に絶えた血管のように、ひっそりと枯れた風を通しているだけだった。

 レティシアの一行は、荒れた小道を辿って北東へと進んでいた。目立たぬように農夫に扮した騎士たちが先を進み、荷車には穀物のふりをして装備や食料を隠していた。彼女の姿を誰にも悟られぬよう、万事に注意が払われていた。


 時折立ち寄る村には、同じように漂う者たちがいた。

 行き場を失い、昨日と同じ空腹を抱えながら野宿する者たち。

 母を失い、弟と手をつないで何日も歩き続ける少女。身を売ることで生き延びた女たちと、信じるものを見失って抜け殻のようになった兵士。

 彼らは声をひそめて語り合っていた。


 ——王女は生きているらしい。

 ——いや、もうとっくに殺されている。

 ——それでももし戻ってきたなら、信じてみたい。


 その夜、月のない闇に村はずれの広場で火が焚かれた。誰が始めたとも知れぬ歌が、静かにその火のまわりでうたわれはじめる。


 もしも、あの朝に戻れたら。小さな手をまたつないで、干し草の匂いがする納屋で母と眠ったあの時間に。


 だけどそれはもう叶わない。家は焼け、家族は処され、今あるのは逃げ延びた命。


 それでも願う、もしもまたこの国に戻れたら。血ではなく声で治める人の足音が聴こえたなら。——それだけで私たちは今日を生き延びられる。


 その歌に、ひとり、またひとりと声が重なってゆく。酒をすすりながら膝を抱える老兵。十字を切りながら泣き崩れる女。明日死ぬかもしれない子どもを抱きしめて黙っている男。


 レティシアは、焚き火の影から彼らを見ていた。彼女は膝の上でそっと拳を握る。ただ恐れを抱えていた心が、ほんのすこしだけ別の色に揺れた。



 ◆



 焚き火の熱がまだ地に残る夕方、薄靄に包まれた森の入り口で一行は足を止めていた。道は細くぬかるみがちで、車輪がときおり泥にとられる。夜通し歩いた疲れが、馬にも人にもたまりはじめていた。


「……今から森に入るのは無理だ。馬も限界だ」


 ロランが地図を確かめ、騎士たちに目配せした。


「北の村に泊まる。明日、朝のうちに渡る」


 一行は荷車を引き直し、小道を外れて森の縁をなぞるように進んだ。

 やがて、白小さな家々が点在する村が現れる。名もなき宿場町。かつては商隊の中継地としてそこそこ栄えていたらしいが、今では幾つかの家が焼け落ち、畑には人の気配もない。

 それでも宿屋はまだ営業していた。老婆がひとり、つっけんどんに鍵を渡し、暖炉に火を入れただけで言葉少なに去っていった。


「人の目が多い。必要以上に口を利くな」


 ロランの声に騎士たちがうなずく。レティシアはマントの襟を深くかぶった。


 夜の帳が村を包むと、それまで沈んでいた家々のいくつかに灯がともった。

 宿屋の裏手、くぐもった笑い声と音楽のようなものが、細い路地を抜けてかすかに届いてくる。いくつもの足音、がたつく扉の開け閉め、誰かが咳き込み、誰かがくすくすと笑う。

 窓の外に目をやった若い騎士が、ちらりとロランを見る。ロランは何も言わなかった。それがどういう場所なのかは、言うまでもないことだった。


 一行は人目につかぬよう、宿屋の裏手にある物置を食堂代わりに借り、交代で食事をとっていた。粗末なテーブルに、豆の煮込みと乾いたパン、それに水。気取った会話も冗談もなく、ただ腹を満たすだけのひとときだった。


 そんな空気を裂くようにして、入口の板戸が軋んだ。とん、と靴音が一つ。


「……いいにおい。あんたたち、村の連中じゃないわよね」


 声の主は、明らかに場違いだった。


 若い女が、ふらりと物陰から現れた。陽に焼けた栗色の髪、擦り切れた裾、腰に巻いた薄いストール。

 どこにも媚びのようなものはなかったが、目だけは獣のようによく動いた。ただ生き抜くために覚えた距離感。言葉と気配の選び方。


「森を越えるんでしょ? この先の。あそこ、暗くなると狼が出るのよ。知ってた?」


 にやりと笑って、女は手近な木箱に腰をかけた。誰も言葉を返さなかった。

 ロランは黙ったまま彼女を睨んだが、それさえ気にした様子はない。


「夜中に馬の足を食いちぎられた旅人もいる。森の奥には沼もあって、何も知らない人間が足をとられて沈むの」


 誰かが不自然にスプーンを止めた。レティシアは顔を伏せたままだったが、足元の空気が緊張に包まれたのを感じた。


「案内してあげようか? 森に慣れてるし、どのあたりがぬかるんでるかも知ってる。……もちろん、見返りはいるけど」


 ロランはしばし黙ったまま彼女を見下ろしていたが、やがてひとつ息を吐いた。


「本当に森を抜けられる道を知っているのか」


「知ってる。わざわざ言わないけど、何度も越えてる。狼の穴も、兵士が隠れてる廃屋も」


「……ならば、一度だけ使う。案内役としてだ。報酬は払う。ただし、こちらの指示に従え。道中、余計なことをしたらその場で放り出す。いいな」


 その言葉に、女は口角をわずかに上げてみせた。彼女は立ち上がり、軽く腰の埃を払うと、何事もなかったように扉の外へ歩いていった。


 レティシアは再び目を伏せた。誰が敵で、誰が味方か。誰に助けられ、誰に裏切られるのか。答えの出ない問いが、胸の内にうずまいていた。それでも、今の自分たちには、選べる手段が少なすぎた。


 翌朝、霧の立ちこめる森の手前で、一行にひとり案内人が加わっていた。

 その名はカミーユ。誰が最初にそう呼んだかは、誰も覚えていない。



 ◆



 森は冷気を深く含み、土はぬかるみ、枝は水を含んで重たく垂れ下がっていた。

 人ひとり通るのがやっとの獣道を、荷車の音を殺しながら進む。木々の合間から早朝の薄明かりが時折差し込み、霧の奥で鳥の羽ばたきが微かに響いた。


「ここを抜けたら、右の崖の方へ。沼を避けるには、遠回りだけどそっちしかないわ」


 先頭を歩くカミーユがつぶやくように言った。ロランは黙ってうなずく。彼女の案内は、思いのほか正確だった。


 カミーユは先頭を歩きながらも、意識の半分を背後に向けていた。

 気配、間の取り方、足音の呼吸。振り向かずとも、後ろにいる女の歩き方が変わったのを感じる。


 無理があるのよ、あの振る舞い。そう思う。

 この道を通る者はみな、足元を確かめるように歩く。泥に滑らぬよう前を見て、肩にかかる荷の重みを少しでも逃がすような動きをする。

 けれどあの女はそうしない。身を縮めようとせず、目線はまっすぐ。何もかもが、粗末な農家の娘には見えない。

 そして何より、手。あの白さ。あの指の形。

 私にはわかるの。あれは土にまみれて畑を耕した手じゃない。洗濯も薪運びもしたことがない。肌があんなに均等に保たれてるなんて、庶民の女じゃあり得ない。


 貴族? ……違う。もっと上。

 もしも、あのとき死んだはずの王女が、生きていたとしたら?

 今はまだ、それを声にする気はないけれど。


 脳裏に浮かぶのは、革命軍の駐屯地、あの血の匂いのする詰所。何を差し出せば何が返ってくるのか、よく知っている。


 カミーユはふと立ち止まり、後ろを振り返らずに言った。


「この先、道が割れる。右は沼、左は獣道。どっちも悪路。……でも、左のほうがまだマシよ」


 誰も返事はしない。けれど足音がそろい、皆が彼女のあとに続くのをカミーユは耳で感じ取る。


 この国には、もう信じられるものなんて何もないと思っていた。

 でも、もしあの女が、あの名の通りの存在だとしたら。


 今はまだ、その瞬間を待つだけ。言葉にすればすべてが動く。だからこそ、カミーユは沈黙を選ぶ。とびきり高く売りたいのなら、焦っちゃいけない。



 ◆



 夜更けの冷たい空気の中、焚き火の周囲で男たちが地図を囲んで話していた。カミーユは道の下見を口実にその場を離れたふりをしたが、身を潜めて耳をそちらに向けていた。


「……この一帯では…………王都に近づけば、もっと……」


「……お名前を口にするのは慎重に。少しでも漏れれば、敵の手に……」


 途切れ途切れに聞こえたその言葉が鋭く、カミーユの心臓を刺した。


 やっぱり、あの女は。


 王女——レティシア。


 まだ生きていた。こんなにも近くに。自分の目の前に。


 翌朝、森を抜けた先、小さな峠のふもとで一行は立ち止まった。湿地を避け兵の巡回にも遭わずにここまで来られたのは、カミーユの案内によるところが大きかった。


「もう大丈夫よ。あとはまっすぐ行けばいい」


 ロランが布袋から数枚の銀貨を取り出し、彼女の掌に置いた。「ご苦労だった」とだけ告げ、すぐに視線を外す。カミーユは口元に薄く笑みを浮かべながら、それを握りしめた。


「じゃあ、私はここまで。道中、お気をつけて」


 踵を返し、森の陰に身を沈めるようにして歩き出す。誰も引き留めなかった。誰も彼女の背を見送らなかった。——愚かね、とカミーユは思った。


 革命軍の駐屯地までは、歩けば一日半の距離だった。途中、馬車を見つけて荷台に潜り込んだ。荷の中には干し草と酒瓶、それに弾薬のにおいが混じっていた。


「王女が生きてる。名は隠してるけど、間違いない」


 告げると、兵士の目が光った。誰もが「ありえない」と言いたそうだったが、次の瞬間には貪るような欲の色が宿っている。


 金は思っていたよりも早く手に入った。それも、手の中に余るほどの重さで。それを受け取ったとき、カミーユはふっと息をついた。


 逃げられる。ようやく、あの場所から。


 彼女は軍の目をかいくぐり、再び街を抜け出した。夜の冷たい森を音を立てずに駆ける。手にした袋の金貨が歩くたびに鈍く鳴る。


 誰も追ってこない。誰も、私のことなんか気にしない。

 今ならまだ間に合う。国境までは三日の距離。貨物に紛れ国を出れば、あとはどうにでもなる。


 私が売られたのは八つの時だった。目を閉じれば、薄暗い土間の匂いと、母の手の震えがよみがえる。何日も煮炊きの煙が立たなかった家。革命が起きる前から、私たちは飢えていた。


 王も、革命も、私を救ってはくれなかった。


 娼館に連れてこられて、化粧と笑い方を教わった。男たちの欲望の先にどんな言葉をかければ金になるかを知った。私はそれを覚えて、一人前になった。


 もう誰にも頼らずに済むほど、使える身体と頭を手に入れた。でも私はあんなところで燻るわけにはいかない。


 私はいつか海を越えて、別の街に行く。知らない言葉で生きる。知らない誰かと、知らない私になる。


 今こそ——叶うのよ。


 カミーユは息を吐いた。胸の奥が焼けつくように熱かった。冷たい空気が肺にしみ、森の匂いが鼻をかすめる。


 ——その瞬間だった。背後の茂みが、ざわりと音を立てた。


 立ち止まる。闇が深い。月明かりのない森は、まるで穴の中のように沈んでいる。

 草を踏みしめる、重たい足音。……人間じゃない。四つ足の、しなやかで、音を殺した獣の動き。


 息を呑む。動かない。風がない。音もない。気づいたときには、もう遅かった。


 黒い影が、鋭い音を立てて跳ねた。毛並みが逆立ち、牙が閃いた。

 喉に向かって一直線に襲いかかる、飢えた獣の目。


 叫ぶ暇も、逃げる隙もなかった。


 金貨の袋が、裂けるような音とともに宙を舞う。銀と金の粒が夜の中にこぼれ落ちて、草の上にぱらぱらと転がった。



 ◆



 夜露に濡れた村の屋根に最初の火が上がったのは、誰かが薪をくべる音のようなささやかな始まりだった。けれどそれはすぐに、燃え盛る焔のうねりへと変わった。民家の屋根が、納屋が、物見塔が、順に赤く染まる。


「火だ……! 誰か、水を——!」


 叫び声があがった。その音に混じって、重たい足音が地を踏み鳴らす。

 槍の先が陽に反射し、鉄の靴音が土を打つ。革鎧をまとった革命軍の兵たちが、村の入口から押し寄せていた。


「包囲されてる!」

「荷車を捨てろ! 森へ抜ける道へ!」


 宿から飛び出した騎士たちが剣を抜き、子どもを抱いた女たちが泣き叫びながら逃げ惑う。

 その中を、レティシアは後ろ手を引かれながら走っていた。ロランの手が彼女の腕を強く掴んでいた。


「……なぜ、場所が知られたの」


 レティシアの声は震えていた。

 誰かが告げたのだ。誰かが、彼女の居場所を——いや、正体そのものを密告した。


 カミーユの名が、心の奥をかすめた。けれど、もうそれを確かめる暇はなかった。


「森へ入る! 細道を使え!」


 ロランが命じる。一行は裏道から村を抜け、燃えさかる建物の間を縫って森へ向かった。

 振り返れば、剣を構える騎士のひとりが、倒れた。胸に槍が深々と突き刺さっていた。


「マルセル!」


 誰かが叫んだ。レティシアは立ち止まりかける。その手を、ロランが無言で引き戻す。


「見てはいけません、殿下!」


 その一言が、レティシアの中にずしりと響いた。胸の奥に隠していた名を、強制的に呼び戻されたようだった。


 やがて森の入り口が見えたとき、兵の一団が正面から迫ってくるのが見えた。あらかじめ配置されていた。彼女を逃がすつもりなど、最初からなかったのだ。


 背後に控えていた騎士が剣を抜き、一歩進み出て叫ぶ。


「殿下をお連れください、隊長! 私はここに残ります!」


「だめ!」


 レティシアが叫んだ。ロランの腕を振りほどいて、彼の前に出る。


「もう、誰かが代わりに死ぬのを見たくありません……!」


 ロランの表情が揺れた。けれどすぐに、その目に覚悟が宿る。レティシアの腕をぐっと掴むと、そのまま振り返りもせずに、ロランは反対側へ向かって駆け出す。


 木々の間から矢が飛ぶ。別の騎士が盾を掲げて庇い、ロランが馬のもとへ駆け寄る。


「断崖の密道へ抜ける! ここが最後の退路だ!」


 レティシアは唇をかみしめ、鞍に飛び乗った。ロランもまた手綱をとり、先頭に立つ。


 断崖沿いの獣道は昼でも人が通うには骨の折れる道だった。闇に包まれた今となっては、岩と枝と急な斜面が、一行の体力と判断力を容赦なく削り取っていく。


 そしてようやく東の空が白み始めた頃、霧の中に崩れかけた石塀が見えた。

 森の奥、苔むした丘の影にひっそりと立つ古い礼拝堂。今は旧王政派が秘密裏に用いている隠れ家のひとつだった。


 扉を叩くと、中から老いた神父が現れた。顔に深く刻まれた皺の間で驚きが灯る。ロランが低く名乗るとすぐに扉は開かれ、疲れ切った一行が中へ迎え入れられた。



 ◆



 蝋燭の灯りだけが揺れる空間に、レティシアはひとり座っていた。誰の声も届かないところで、彼女はようやく膝を抱える。


 名も知らぬまま消えていった村の者たち。護衛の騎士。自分を逃すために、命を捧げた者がいる。


「私は……」


 声が喉の奥でかすれた。

 蝋燭の灯が揺れ、壁に映る自分の影が不意に泣いているように見えた。


「人の命を犠牲にして……私は、何を……何を得るというのでしょう!」


 次の瞬間、言葉が破れるようにあふれ出す。言葉の合間に、声が震え、喉が詰まりそうになる。


「……誰も死なせたくなかった。私のためには、誰も……!」


 泣いてはいけないと、ずっと自分に言い聞かせてきた。けれどその誓いはもう意味を持たない。

 レティシアは膝に顔を伏せたまま、ひとり闇に揺れていた。自分のために命を落とした者たちの顔が、目を閉じても焼きついて離れなかった。


 そのときだった。軋むような音と共に、そっと扉が開いた。


 ロランがそこに立っていた。蝋燭の小さな炎を片手に、静かに彼女のもとへ近づいてくる。


「ならばお選びください、レティシア様」


 ロランは彼女の前に立ち、わずかに膝を折る。レティシアは顔を上げた。涙の痕はそのままに。


「生きるだけでよいのか。再び、何もせずに逃げるだけでよいのか。誰かに守られながら、また、何も知らぬふりで身を潜めて暮らしますか」


 レティシアは長い沈黙の末に目を閉じた。そのまぶたの裏に、あの夜の火が、あの森の血が、鮮やかに浮かんだ。誰かの犠牲の上に、自分がただ生きること。それが何を意味するのか。


「……私は」


 声が震えた。けれど、言葉は戻ってこなかった。言い切るには、まだ何かが足りなかった。それでも目には、もう逃げ場はなかった。


 ——私はずっと怖かった。けれど今はもう、その恐れの中にいること自体が、いちばんの罪なのだと知っている。


「私は、逃げません。私は——女王になります」


 その瞬間、長く垂れ込めていた雲のあいだから朝の陽がするりと差し込み、重たく閉ざされた部屋の高窓をすり抜けて、レティシアの肩を照らした。

 ロランは何も言わず、わずかに頭を垂れ、かつての王に捧げたそれと同じ敬意をもって、新たな女王にその身を預けた。


「出発の準備を整えましょう。道はまだ遠い。ですが……」


 彼は一瞬、レティシアの方にだけ目を向けて、言葉を結んだ。


「必ず辿り着きます。あなたと共に」



 ◆



 王都が見えたのは、灰のようにくすんだ午後の空の下だった。遠くに聳える城壁と瓦礫にまみれた旧王宮の尖塔。その向こうに広がるのは、かつて誇り高き都と呼ばれた場所の、変わり果てた姿だった。


 灰色のマントを羽織り、深くフードをかぶった一人の女が、群衆の中央へ歩みを進めた。

 最初に彼女に気づいたのは、広場の片隅で古布を売っていた老婆だった。

 老婆が立ち上がり、息を呑むのとほとんど同時に、隣の男が目を細めた。

 言葉にできない何かが、人々の間に波のように広がってゆく。

 その中心で、レティシアはゆっくりと両手を上げ、フードを外した。


 陽の光を失った午後の空の下で、彼女の金の髪が静かに光を受けて揺れた。

 それは燃えるような輝きではなく、むしろ火のあとに残る熾火のように穏やかで、しかし確かに目を引いた。

 頬には旅の疲れが刻まれていたが、目は正面をまっすぐに見据えている。その眼差しは、かつてこの都で暮らした王妃の面影を、誰よりも強く思い起こさせた。


 沈黙の中で、誰かが小さくつぶやいた。


「レティシア王女だ……」


 名を呼ぶ声は最初ひとつだったが、次第に、広場のあちこちで同じ名が繰り返された。顔を上げる者、胸に手を当てる者、目を潤ませる者。疑い、祈り、驚き、そしてほんのわずかな希望が、沈黙のなかで膨らんでゆく。


「私は、旧き王の娘として帰ってきたのではありません」


 彼女の声は強くはなかったが、それを遮るものは何もなかった。人々はその声に耳を傾け、目を離さなかった。


「あなたたちの痛みを知る者として、私はここに立っています。私の冠は、神によって与えられるものではありません。あなたたちの祈りによって与えられるものです」


 風が一度吹き、裂けた旗が石塔の上でかすかに揺れた。


「私は宣言します。かつての王政とは、今ここで断絶します。私が築きたいのは、誰もが恐れずに眠り、飢えずに明日を語れる国です。権威は上から降るものではなく、あなたたちの意志によって支えられるものであるべきです」


 言い終えたとき、広場の空気がぴたりと凍りついたように感じられた。

 だがその沈黙は、やがて揺らぎとなって波を打つ。


「……今度こそ……」


 それは願いにも似た響きだった。「今度こそ、彼女になら……」と、誰かが呟いた。そしてもうひとりが、はっきりとした声で言った。


「レティシア様に、統治を——」


 名もない民の声が、それを引き継いだ。ばらばらだった言葉がやがて一つの流れとなり、広場を埋める民の口々からあふれ出す。


「女王を! 我らの女王を——!」


 ロランが長剣を鞘から抜いた。彼はレティシアに歩み寄り、膝をつく。剣を両の手で捧げ、まっすぐに彼女を仰いだ。


「この命、この剣、この忠誠のすべてを、女王陛下に捧げます」


 それを合図にしたかのように、騎士たちが剣を掲げる。

 旧王政の老臣たちがひざまずき、遠巻きにしていた群衆の中にも、次々と膝をつく者が現れた。


 そのとき、厚く垂れ込めていた雲が静かに裂けた。灰色の空の奥からまっすぐな光が射し込み、広場の中央、石の壇の上に立つレティシアを照らした。


 頭上に冠が掲げられる。新たな女王が生まれる。新しい時代の始まりを、誰もが息を殺して見つめていた。

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