生きるということは
夏休みに入って数日が過ぎた。授業はお休みだけれど、完全な休息というわけではない。
私は毎朝決まった時刻にアパルトマンを出て、歌とバレエの個人レッスンに通っていた。
外部の講師に師事するのは音楽舞踏学院が休みに入るこの時期ならではの特権で、少しでも技術を深めたい私にとっては貴重な時間だった。
ただそれでも日中の予定はどこかまばらで、午前のレッスンを終えて戻ってきても、午後はひとりで過ごす時間が多い。ミレイユとは「今度どこかへ出かけよう」と口約束を交わしていたけれど、具体的な日取りはまだ決まっていなかった。
その日も汗をぬぐいながら帰宅し、アパルトマンの玄関ホールを通り抜け、階段を上がったところでふと郵便受けに目をやると、見慣れない封筒がひとつ差し込まれていた。
手に取ると表書きの筆跡は端正で、落ち着いた風格があった。そしてその下に記された名前を見た瞬間、私はほんの一拍、心臓が跳ねるのを感じた。
——レオン・ガルニエ。
目を疑って、もう一度ゆっくりと読み返す。間違いない。「夜の嘆き」の演出家。あの舞台で、私に大きな一歩を踏み出す機会を与えてくださった方の名だった。
指先がかすかに震えて、封筒を持ったまま一瞬立ち尽くしてしまう。落としそうになった手紙をなんとか握りしめ、私は急いで部屋へ戻った。
扉を閉め、帽子も脱がぬまま鞄を置き、机の前に腰を下ろして、ようやく深く息を吸う。
震える手で封を切ると、折り目のついた便箋が一枚、中から滑り落ちてきた。目を通すうち、息をするのも忘れそうになる。
——そこには、秋に上演予定の新しい歌劇の出演依頼が書かれていた。エクラ・ド・レーヴの公演ではなく、もっと規模の大きなもの——なんとこの前、ラウルと訪れたオペラ座で上演されるという。
演目の詳細や稽古日程に混じって、役柄の記載があった。主役ではないけれど、名もない群衆でもない。名のある登場人物の一人に私を、という正式な招待だった。
まだ夢を見ているような気がして、机の上に手紙をそっと並べて何度も読み返す。こんな機会が本当に私に届いたのだと、ようやく現実として受け止められたのは、それからしばらく経ってからのことだった。
私は椅子に腰を下ろし、便箋を引き寄せる。深呼吸ひとつ。筆を取り慎重に、けれど迷いのない文字で返事を書き始める。
——お受けいたします。
断る理由なんて、どこにもなかった。まだ自分にできるのかどうか、見当もつかない。けれど、挑まずにいる理由にはならない。
「夜の嘆き」で私は端役として舞台に立ったにすぎない。それでもムッシュ・ガルニエは、何かを見てくれたのだ。
手紙の文面には必要な情報が端的に並べられていて、感情的な言葉はほとんどなかった。どこまでを評価してのことなのか、真意を測ることなんてできない。
それでもきっと、私の歌が、あの方の記憶に何かを残したのだ。そうでなければ、こんな誘いがくるはずがない。
◆
アパルトマンを出て石畳の道を歩きながら、私ははやる胸を抑えた。鞄の中にはあの手紙の返事と、新しく届いた稽古場の案内書。あれから月日が経ち、いよいよ今日から稽古が始まる。
会場はオペラ座近くの別棟にある広い稽古場だった。高い天井に大きな窓、白く塗られた壁と、磨き抜かれた床。その静謐な空気に私は思わず背筋を伸ばす。まだ誰も来ていない。そんな朝一番の稽古場に、私は早すぎるくらいに着いてしまっていた。
やがて少しずつカンパニーの人々が集まり始めた。挨拶を交わしながら、自分の立ち位置を探るように私は皆の様子をうかがう。周囲はきっと、実力ある経験者ばかりなのだろう。私はその中で、名前を与えられた役を担うことになる。
その日の導入は、演出家のムッシュ・ガルニエによる読み合わせから始まった。全員が一列に椅子を並べて座り、厚みのあるリブレットを手に取る。白い紙に印刷された文字——その見出しに記された題名を私はひっそりと読み上げた。
『夜明けの国の王女』
革命の嵐が吹き荒れ、王家が打ち倒される中、ひそかに生き延びた王女レティシア。
革命派の目を逃れ、旧貴族の屋敷で忠臣ロランに守られ育ったレティシアだったが、やがて革命派内部に亀裂が生じ、王女の生存を告げる噂が広がる。
王政復古の気運に押され、レティシアは女王となるため王都への旅路に踏み出すのだった。
彼女が再び立ち上がるまでの旅路は、失われたものを嘆き、痛みを堪えながらも、未来を取り戻そうとする力に満ちていた。血と涙にまみれた祖国に、かすかな夜明けの光が差し込むような物語。
そして私は、その途中でレティシアと出会うカミーユという少女を演じることになるのだという。
私はページをめくりながら、リブレットに描かれた物語の風景を思い描いていた。
燃え上がる王宮、広場に鳴り響く鐘の音、革命派の怒声と、手を取り合う民たちの横顔。混乱と暴力のただなかを、それでも前を見据えて歩こうとする王女レティシアの姿が、文字の向こうに浮かび上がってくるようだった。
そして幾度目かのページをめくったところで、ついにその名が現れた。
カミーユ。
レティシア一行が道中で立ち寄る村で、彼らはひとりの少女と出会う。リブレットの説明によれば、彼女はその村にある娼館に身を置く若い娼婦だった。
——娼婦?
思わず、手の中の紙を握りしめそうになった。予想もしなかった役柄に、私は戸惑いを隠せなかった。
もちろん、そうした生き方を選ばざるを得ない女性たちがいることは知っていたし、書物で読んだこともある。でもそれは私にとってあまりに縁遠い、現実味のない存在だった。そうした女性の心をどう演じればよいのか、どんな言葉でその人生を語ればいいのか、すぐには想像がつかない。
読み進めるうちに、カミーユという少女の輪郭が次第に明らかになってくる。
貧しさゆえに幼い頃に売られ、革命が起こる以前からこの村で暮らしていた。王がいても革命派が力を持っても、どちらも自分を救ってはくれなかったと、彼女は冷めた目で語る。そしてレティシアたちが森を抜けて王都へ向かおうとするのを見て、“森には狼が出るから”と案内を買って出るのだった。
——小遣い稼ぎが目的。そう書かれていた。
彼女には夢がある。いつか国外へ出て、見知らぬ土地で新しい人生を始めたい。そのために少しでもお金を蓄えたい。だからレティシアたちに近づいたのも、損得の計算があってのことだった。
私はページの上で止まった指先に力を込めながら、ひとつ息を吐いた。
難しい——それが正直な感想だった。
王女でもなければ貴族の娘でもない。夢見る少女でも、誇り高き令嬢でもない。カミーユはあまりにも現実的で、あまりにも生々しかった。誰もが見て見ぬふりをするような境遇のなかで、それでもなお自分の足で立とうとしている。
こんな役を、私に演じきれるだろうか。
心の奥にかすかな不安が芽生える。それでも私は、リブレットから目を離さなかった。
朝から夕方までみっちりと詰まった初日の稽古に、私の頭はすっかり熱を持っていた。慣れない顔ぶれの共演者たち、次々と投げかけられる演出、時に容赦のないダメ出し——そのすべてが刺激的で、同時に息の詰まるような重圧でもあった。
稽古場に余韻がまだほんの少しだけ残っているころ、私は壁際に置いた自分の荷物を取らず、そのままの足でホールの奥へ向かった。
そこに彼がいた。演出家、ムッシュ・レオン・ガルニエ。稽古中は終始冷静で、だが時に鋭く場を動かしていた人。誰にも媚びず、どの役者にも一定の距離を保ち、けれどその眼差しの奥には何か強い信念があるのだと私は感じていた。
声をかけるのに、ひと呼吸が必要だった。
「……ムッシュ・ガルニエ」
振り向いた彼の顔は、まるで稽古中と変わらなかった。声を荒げるでも和やかになるでもなく、ただこちらをじっと見ている。
「どうして、私にこの役をお任せくださったのですか」
尋ねるとき、胸の奥で小さく脈打つような音がした。これは期待ではなく、覚悟の音だった。見込んだわけではない——そう言われる可能性もある。それでも知りたかった。
彼は少しだけ視線を落とし、それからゆっくりと口を開いた。
「お前の実力は認めている」
短く、迷いのない言葉だった。そのひとことが、どれほど私の胸に響いたか。張りつめていた心のどこかが、ふっとほどけるような気がした。
「……私はカミーユを演じるために、これから何をすればいいのでしょうか」
続けてそう問いかけた私の声は、かすかに震えていたかもしれない。ムッシュ・ガルニエは少しだけ眉を上げ、そして視線を私の目の奥に据えた。
「カミーユを理解して、カミーユとして生きろ」
彼の声は低く、けれどとても静かだった。
「誰の真似もするな。誰かになろうとするな。詞の裏にある感情を探し、その心で語り、その足で歩け。そうすればお前は何にでもなれる。どんな役でも演じられる役者になれる」
それだけ告げて、彼の背はゆっくりと遠ざかってゆく。
——何にでもなれる。それがどれほど難しく、そしてどれほど自由な言葉であるか。私はきっと、その意味を身をもって知っていくことになるのだろう。
◆
蝋燭の灯が、机の上の紙とインク壺を淡く照らしていた。夏の夜。窓を開け放ってもなお熱のこもる部屋の中で、私はじっとリブレットに目を落としていた。
空いた時間はほとんどすべて、この机に向かって過ごしていた。声を出すこともあれば、黙読だけにとどめることもある。ただ歌詞を覚えるのではなく、一つひとつの言葉がどこから生まれたのかを知りたかった。
なぜこの場面で、彼女はそう歌うのか。なぜ笑うのか。なぜ黙るのか。そうでなければ、あの人の言ったとおり、“カミーユとして生きる”ことなどできるはずがなかった。
カミーユ。
奔放で気の強い少女。だがその強かさの奥には、どうしようもないほど深い諦めが滲んでいるのだと思う。
誰も信じない。誰にも期待しない。愛されたいと願う代わりに、愛さないことで自分を守ろうとしていた。そんな彼女が舞台の中で、自らの過去をただ一人で吐露する場面がある。
娼館に売られた幼い日。名前を呼ばれることもなく、ただ“商品”として扱われ続けてきた日常。カミーユは哀れを乞うようにでもなく、自分の傷の形を確認するように観客に向かって語る。その一場面だけで、彼女という人間の輪郭がはっきりと浮かび上がる。
だが、物語はそこで終わらない。
旅の途中、カミーユはレティシアに疑念を抱く。気品ある所作、言葉の端々ににじむ育ちの良さ。彼女をかばう騎士たちの過剰な忠誠心。すべてがただの孤児にしては過ぎている。
——彼女は王女かもしれない。
カミーユはそう確信する。そして自分の見てきたすべてを金に換える決断をする。
革命軍への密告。それがもたらすのは、ある村の壊滅だった。焚かれた家々、無残に倒れた人々。騎士の死。民の死。レティシアの身分が暴かれかけ、かろうじて脱出に成功した一行は再び追われる身となる。
カミーユは報酬の金貨袋を手に一人逃げる。その手には、誰のぬくもりも残っていない。けれどそんなもの、これまで一度も愛情を手にしたことのないカミーユにとってはどうでもいいことだった。
そして——その逃亡の最中、彼女は森で狼に襲われ、ひっそりと命を落とす。
その最後の場面を読み終えたとき、私は無意識に手を止めていた。指先がかすかに震えていた。
娼館の少女。裏切り者。欲望と諦めの狭間で生きて、死んでいった少女。
どうして私に、この役が任されたのだろう。
……前に言われたことを思い出す。私の声が若すぎる、と。
私はその一言に、ほんの少しだけ傷ついた。未熟だと言われたような気がして、自分の限界を突きつけられたように感じたからだ。
けれど、ムッシュ・ガルニエは続けてこう言ったのだ。
「いいか、声質が若いことは悪いことじゃない。むしろ若さがあるのは武器になる」
武器となるのは、まさに今なのではないか。若さこそが、少女が少女であるうちに知ってしまった痛み、幼い心が選び取った生き方として、観客に現実味を与えるのではないか。
カミーユは一人の十代の少女だった。その等身大の彼女を、私は私自身を通して舞台に届けることができる。
私自身が、カミーユを形作る一部になるのだ。




