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マドモワゼル・ニコレット

 季節は夏の盛りへと歩を進めていた。陽射しは強く、空の青さはどこまでも澄んでいる。乾いた風が街路樹の葉を揺らしていたけれど、それもほんの気休めのようなものだった。


 約束の劇場までの道のりは初めてではなかった。目的地の劇場は市内の中心部、王立バレエ団の劇場のすぐ近くにあるから、先日のように地図を開いたりあちらこちらと道を行き来する必要はない。


 私は用意していた日傘を開く。先日仕立て屋で求めたそれは、張られた刺繍入りの絹が淡い影を私の肩口に落としてくれた。これがなかったら、とても歩ききれなかったに違いない。


 服装はいつもと変わらないデイドレス。今日は少しでも涼しく過ごせるよう、薄手のモスリンのものを選んだ。肌に触れる感触は軽やかだったが、日差しの下ではすぐに背中が汗ばむ。

 つばの広い帽子を深めにかぶり、通りをゆっくりと歩く。帽子の影が頬にかかっていても、額のあたりにはじわりと熱がこもった。


 石畳に靴音を落としながら街路樹の影を辿るようにして歩いていると、遠くにファサードが見えてきた。装飾の施された窓枠や緩やかなアーチ、掲げられた演目のポスター。先日バレエを観に来た劇場とは造りこそ異なるが、それでもこの街の劇場に共通する、気品と開放感を併せ持つ佇まいだった。

 格式ばっているのではない。誰もが通りがかりに足を止め、気軽に扉を開けられるような——そういう空気が、この国の劇場には流れているのだと感じる。


 ふと前方に視線を移すと、人の流れの向こうから、こちらに向かって手を振る姿があった。


「エリザベート!」


 名を呼ばれて顔を上げると、軽やかに駆けてくる青年の姿があった。鳶色の髪を風になびかせ、陽に透けたシャツの袖が、走るたびにふわりと揺れる。


「よかった、すぐ見つけられた」


 私の前まで来て足を止めると、ラウルは額の汗を手の甲でぬぐいながらにこりと笑った。走ってきたせいで少し息が弾んでいるのが、なんだか可愛らしくておかしかった。


「お待たせしてしまったかしら」


 そう尋ねると、ラウルは小さく首を振った。


「いや、俺が早く来すぎたんだ」


 そう言ってラウルは、帽子の庇をくいと上げながら、いつもどおりの明るさでにこりと笑った。こんなふうに言ってくれるのは、きっと私に気を遣わせまいとしてのことだ。そういう細やかさを、彼はひけらかすことなく自然にやってのける。


「……そう。ありがとう、ラウル」


 そう返すと、ラウルは「うん」とだけ答えてすぐに歩き出した。


 王立劇場は通りに面して大きな影を落としていた。その威容は近づいてみるとさらに堂々としていて、大理石の柱とガラス張りのアーチが陽光を照り返している。劇場内に入ると空気がひんやりとし、すぐに照明の熱とは違う、木と石の匂いが鼻をかすめた。


 天井を見上げると、淡い金と空色で彩られた美しいフレスコ画が視界いっぱいに広がっていた。

 幾人もの神話の登場人物たちが雲のあいだに身を乗り出し、そこから吊り下げられた大きなシャンデリアが、無数の灯りを反射させながらきらめいていた。


 案内されたのは、一階の側面にある小さなボックス席だった。こちらの呼び方ではベニュワールというらしい。

 半円形にくりぬかれた空間に、赤いベルベット張りの椅子がふたつだけ、寄り添うように並んでいる。欄干には品のよい金の装飾が施され、そこからは舞台が正面よりわずかに斜めに見下ろせた。


 私はそっと腰を下ろしながら、周囲に目を配る。いくつものボックスが段になって連なり、それぞれの中に思い思いの衣服を身に着けた観客たちの姿があった。どこか浮き立ったような空気が劇場全体を包み、緞帳の向こうに始まりを待つ舞台の気配が、人々の緊張となって漂っていた。


「緊張してる?」


 隣からかけられた声に、私ははっとして振り向いた。ラウルが少し身を乗り出して、からかうような微笑みを浮かべていた。


「……わかる?」


「うん、ばっちり顔に出てるよ。君って意外とわかりやすいんだな」


 軽く笑って言うラウルに、私は思わず視線をそらしてしまいそうになったが、それを押しとどめて問い返す。


「……そんなに?」


 返した言葉のあとで、胸の奥がふとかすかに疼いた。

 前にも、こんなふうに誰かに同じことを尋ねられた覚えがある。あれはもう何年も前のこと。民衆歌劇の劇場の片隅で、落ち着かないままに舞台を見上げていた私。

 あの時も、私はわかりやすく緊張した顔をしていたのだろうか——そんなことを一瞬考える。けれど記憶はそこでそっと手を離し、私を現実へと引き戻す。


「そんなに。でも大丈夫、幕が上がったら、あとは目が離せなくなるからさ。保証するよ」


 ラウルは肩の力を抜いた声でそう言って、気負いをほどくように笑った。その笑みに、私もつられるように口元を緩める。


 そのとき、舞台の手前、オーケストラピットから低く重たい和音が響き出した。管弦の調べが静かに波を打ち、場内の空気を震わせる。さざ波のように広がっていく音に、客席が一瞬で沈黙をまとった。


 緞帳がゆっくりと動き始める。まるで夜明けのように、重たい幕が引かれていく。


 演目の題名は《マドモワゼル・ニコレット》。物語のはじまりは、小さな孤児院だった。

 子どものいない資産家、ルフェーブル夫妻が慈善活動の一環で孤児院を訪れたところから、すべては動き出す。

 孤児院にやってきた夫妻に真っ先に駆け寄り、屈託のない笑顔で話しかけてきた一人の少女——ニコレット。いたずら好きでおしゃべりで、人の心を和らげるような無邪気さを持った子。夫妻は彼女に惹かれ、試しに屋敷へ引き取ることにする。


 けれど、もちろん最初からうまくはいかない。ナプキンの使い方ひとつ知らず、庭では泥だらけになり、言葉遣いも所作もすべて周囲を驚かせる。

 でも、ニコレットはくじけなかった。持ち前の明るさと行動力で、少しずつ使用人たちと打ち解け、屋敷の人々を巻き込んで日々を楽しみに変えていく。


 近所の子どもたちと仲良くなり、メイドと一緒に菓子を焼き、庭師から草花の名前を教わる。家庭教師には手を焼かれながらも、読み書きやダンス、礼儀作法に懸命に取り組んでいく。

 舞台には笑いが絶えず、場面が変わるごとに小さな幸福が積み重なっていった。


 季節が変わる。背景に描かれる木々の葉が緑から黄金に染まり、ニコレットの衣装も少しずつ上品なものへと変わっていく。

 やがて彼女は十六歳を迎える。美しく成長したニコレットが、初めての社交界へと足を踏み入れるシーンでは、舞台上の照明が一気に明るくなり、豪奢な舞踏会のセットが現れた。


 最初の一歩でつまづき、ドレスの裾を踏んでしまい、話しかけた相手にはうっかり失礼な言葉を投げかけてしまう。

 観客席にもはらはらとした空気が走った。けれど、彼女はひるまない。失敗を受け入れ、素直に笑いながら頭を下げたその姿は、社交会の空気を温かく変えていった。


 その夜、ニコレットは「陽だまりの淑女」として新聞に取り上げられる。明るく、まっすぐで、誰の心にも温もりを残すような存在として。

 舞台の終幕では、ルフェーブル夫妻が彼女を正式に養女とすることを決める。家族の証として差し出された手を、涙ぐみながら受け取るニコレット。舞台の照明が落ち、窓の外にともる灯りが浮かび上がる。

 夫妻にそっと抱きしめられながら、ニコレットが晴れやかに歌う姿で幕は降りていく。フィナーレのリプライズには客席から手拍子が起こり、劇場中に笑顔が広がっていた。



 ◆



「それでね、孤児院の場面で最初に出てきたあの歌、あれが二幕で再登場したとき、もう胸がいっぱいになって。まさかあんな形でつながるなんて思っていなかったの」


 小さな街角のティーサロン。シャンデリアの明かりは控えめで、窓辺のレース越しに夕方の光がわずかに差し込んでいる。

 奥のテーブルで白磁のティーカップを前にしたまま、私は夢中で言葉を紡ぎ続けていた。紅茶の湯気の向こうで、ラウルの笑みが揺れている。


「それにね、家庭教師の先生とニコレットのやり取りも何度も笑っちゃったの。場面転換のたびに、衣装も少しずつ変わっていたでしょう? 成長を視覚でも感じさせるって、すごく自然で……」


「うん、いい演出だったな。あの衣装、三着とも同じデザイナーの新作なんだってさ。舞台美術も今回はいつも以上に力が入ってたらしい」


「そうなの? やっぱり……そうよね。出てくるドレスがどれも素敵で目を奪われたわ」


 そこまで口にして、私ははたと気がつく。夢見心地だった思考がだんだんといつもの温度を取り戻し、ようやく自分の足元に現実の感触を思い出す。


「……ごめんなさい、喋りすぎね。でも、本当に、本当に素晴らしかったの」


 ラウルはそんな私の熱にあてられた様子もなく、むしろ微笑ましそうに目を細めた。


「いいんだ、君が楽しんでくれてよかった。俺も隣で見てて嬉しくなった」


 そう言ってラウルは湯気の立つカップを軽く傾けた。その笑顔に私はふっと息をゆるめる。


「……こんな舞台があるなんて、この国は本当に素敵ね。バレエもオペラも、観る人の心をこんなにも揺さぶるなんて」


 窓の向こうでは、通りを行き交う人々が午後の日差しの中に溶け込んでいる。劇場の余韻がまだ体の底に残っていて、私はその穏やかな時間のなかで、ふと心の底から湧いてきた思いに気づいた。


 ——ずっとここにいられたら、どんなに素敵だろう。


 けれどそんな願いはあまりにも甘くて非現実的だった。浮かびかけた言葉の先を私は飲み込む。


 春になれば、帰らなくてはならないのだ。そう決まっている。

 私が今こうして音楽舞踏学院で学べているのもヴァロワ夫人の援助があるからこそで、それがなければ異国で暮らすどころか、音楽を続けることすらできなかった。

 

 それに、両親が留学を許してくれたのも一年だけという期限があるからこそだった。

 たとえどれほど舞台に魅せられても、ここでの暮らしに心惹かれても、私はまた春が来れば、自分の国へ戻らなくてはならない。

 思いながら、自分でも不思議なほど心は穏やかだった。誰に強いられたわけでもない。自分でそう思って、納得していた。


「私の国でも、オペレッタが受け入れられたらいいのに」


 ほとんど空想を話すような調子で、私はつぶやいた。この国の芸術はすばらしい。だけど、向こうとは文化が何もかも違う。

 難解で悲劇的なオペラが尊ばれるあの国で、《マドモワゼル・ニコレット》のようなオペレッタが受け入れられるとはあまり思えなかった。


「君が向こうにオペレッタを広めればいいんじゃないか?」


 ラウルは紅茶のカップをそっと置くと、穏やかな声で言った。軽やかにそう言ってのける彼の顔を、私は驚いて見つめてしまう。


「……私が?」


 すぐには信じられず、口の中で何度かその言葉を反芻した。でもラウルは冗談めかすふうもなく、ただ落ち着いた眼差しでこちらを見ていた。


 私が、広める。できるだろうか。

 思えばあの劇の構成は、どこか民衆歌劇に似ていた。大仰な神話や伝説ではなく、町に生きる人々の日々と心を描いた物語。身分の高低に関わらず、誰かの明日を照らすようなささやかで温かな希望に満ちていた。

 だからきっと、オペレッタは私の国でも、市井の人々には受け入れられる。


 私たちが作ったあの明るいオペラも少しは似たものだった。

 思い返せば貴族社会の中にも、あの作品を受け入れてくれた人はいた。

 格式あるオペラを汚したと非難する声もあったと聞いた。けれど、それも当然だと思った。あの世界は古くから続く伝統と形式の上に築かれている。私たちが踏み込んだのは、その秩序の外側だったのだ。


 でも、もし——それが「オペレッタ」という、隣国から来た新しい文化として紹介されたなら。古くからの形式とは違う別の様式として伝えられたなら、どうだろう。伝統に逆らうのではなく、隣り合う形として共に在ることができたなら。


 そんなふうに考え始めた自分に少しだけ驚く。けれど怖くはなかった。むしろ胸の奥に細いけれど確かな光が差し込んだような心地がした。


「……それって、すごく難しいことだと思うわ。でも」


 私は視線をカップの中に落としながら、そっと言葉を継いだ。


「もし最初の一歩を踏み出す誰かがいるのなら、それが私でもいいのかもしれない」


 まるで石畳の向こうに新しい道が現れたような気がした。まだ誰も踏みならしていない、でもどこかに続いている道——そのはじまりを、今この手で掴んだのかもしれなかった。


 カップをそっとソーサーに戻す音が、静かに響く。そのとき向かいにいたラウルが、真面目な声音で口を開いた。


「俺にできることがあったら言ってくれ。オペレッタはいくつも観てきたからな。君の役に立てることがきっとあると思う」


「ええ。……ぜひ頼らせていただくわ」


 私はそう言って、静かに微笑んだ。

 この国に来てから、知らなかったことに出会い、思いもよらない感情に触れた。バレエを初めて観て、オペレッタの存在を知って、今こうして、自分の未来を形にしようと考えている。

 滞在できる時間には限りがあるけれど、ここで得たものは、きっと何よりも大きな財産になる。


 この日々を絶対に無駄にはしないと、私は心の中で密かにそう誓った。


 窓の外にはすっかり夕暮れが降りていた。あたたかい紅茶の余韻がまだ残るカップを手にしながら、私はしばらくその色づく空を見つめていた。

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