ルシェーヌの街
休日の朝、私は少し早めにアパルトマンを出た。少しだけ緊張しながら市内の中心部へと歩く。劇場へ向かう道すがら、角の書店の外壁に貼られた紙に、今日の演目が手書きで記されているのを見つけた。
私は思わず足を止め、それを眺める——《王立バレエ団 初演『雪の女王』》の文字。
やがて通りの先に、重厚な石造りの外観の建物が現れた。柱の連なるファサードに、美しく金の飾りの施された扉。
掲げられた看板に視線を向け、次いで鞄から折りたたんだ地図を取り出して広げる。周囲の建物と照らし合わせながら、細かな文字を辿っていくうちに、ふいに視界の端に見覚えのある人影を見つけた。
ミレイユだった。背筋をすっと伸ばしたまま、劇場の石段に腰かけて待っていた。肩にかけた小さなバッグの紐を指先で弄びながら、何か考えごとでもしているのか、視線は遠くに向いている。
私はドレスの裾を軽く手で押さえながら、少し駆け足で近づいた。
「お待たせ」
声をかけると彼女はちらりとこちらを見て、わざとらしくため息をつく。
「まったく、お嬢様ってのは地図が読めないのかしら」
言葉は手厳しいけれど、その表情は笑っていた。私は苦笑しながら肩をすくめた。
「地図は読めたわ。でも、初めて来たから迷ってしまって」
「はいはい、言い訳はそのへんでいいから。これ、受け取りなさい」
そう言って差し出されたのは、厚みのある美しい紙でできたチケット。光沢のある金の縁取りが施され、中央にはくっきりと王立バレエ団の文字が印刷されている。
「今日のマチネは本当の初演よ。つまり、この世界でいちばん最初の雪の女王。いい席を用意してもらったんだから、しっかり観て、しっかり感じなさいよね」
私は思わず息を呑み、チケットの細工のひとつひとつを指でなぞった。
「ありがとう、ミレイユ。ほんとうに嬉しいわ」
劇場の建物は隅々まで手入れの行き届いた優美な佇まいだった。白い石造りの外壁に、季節の花が植え込まれた木製のプランターがいくつも並び、通りがかる人々が足を止めては飾られたポスターに見入っていた。
座席に着き、開演の鐘が三度鳴ると、劇場内のざわめきが徐々に静まり返っていく。やがて舞台の上に柔らかな灯りがともり、幕が上がった。
そこに広がっていたのは、私がこれまで知っていたどんな表現とも違う世界だった。
音楽とともに雪が降りしきり、少女が歩みを進めると、やがて白銀の世界を支配する女王が姿を現す。言葉もなく、舞だけで表現する物語。
台詞はひとつもなかった。けれどそれなのに、いや、それだからこそ、伝わってくるものがあった。悲しみも、憧れも、祈りも。言葉では届かない場所へ、踊りはまっすぐに手を伸ばしていた。
舞台の上に現れたダンサーたちは、ただ動いているのではない。呼吸し、感情を持ち、生きていた。彼らの身体が表現する世界は音楽と一体となり、光と影の間をすり抜けて観る者の心の奥に触れてくる。
気づけば私は舞台に釘付けになっていた。振付の流れの一瞬一瞬に、ダンサーたちの一挙手一投足に全神経を傾けていた。目を瞬かせるのも惜しいほどに。ミレイユが本物のバレエと言っていた意味が、今ならわかる気がした。
終幕のあと、しばしの静寂。やがて湧き起こる拍手の波に包まれて、私は立ち上がることも忘れて座り込んでいた。
「どうだった?」
劇場を出たあと、ミレイユが隣で尋ねた。
私は息を吸い込み、外の空気で少し火照った頬を冷ましながらひとつ頷いた。
「……素晴らしかったわ。あんなバレエ、初めて見た」
「でしょ。言ったとおりだったでしょ」
誇らしげに笑ったミレイユの横顔を、私はふと見つめた。
彼女は、あんな世界を目指しているのだ。あの舞台の一員になることを夢見て、日々その身を削るように踊り続けている。
日々、足の甲の角度ひとつ、肩の傾きひとつを自分に刻みつけるように技を重ねていく。舞台の上の一瞬の輝きのために積み上げる努力は、清廉な美しさに満ちていた。
そのとき、やわらかな声が背後から届いた。
「——あれ、エリザベート?」
名を呼ばれて振り返ると、広場の石畳を軽やかに歩いてくる影が見えた。鳶色の髪が風に揺れ、白いシャツの襟元に午後の光が淡く滲んでいる。
ラウル・ド・ヴァロワ。劇場の人いきれに少し押されながらも、変わらぬ屈託のなさで笑みを浮かべていた。
「ミレイユ。君なら観に来てると思った」
彼は私たちの姿を見つけて近づいてきたようだった。ミレイユは彼に対してさして興味もなさげに、「当然でしょ」と相変わらずの態度で応じていた。
「でもまさかエリザベートがいるなんてな。君がバレエを?」
ラウルが目を丸くして私を見ると、ミレイユが呆れ半分に口を開いた。
「この子がね、バレエを一度も観たことがないって言うから連れてきたの。信じられる? 王立バレエ団を知らずに生きてきたんだから」
彼女の口調に私は苦笑いを浮かべる。けれど確かに、この国では驚かれても仕方のない話なのだろう。
ラウルは驚きを笑みに変えて、私に向き直る。
「そうなのか。だけど、今日の公演を初めて観た作品にできたのは幸運だよ。——どうだった? 楽しめた?」
彼の瞳には期待の色が浮かんでいた。誰かと感動を分かち合おうとする人の目だった。私はゆっくりと頷きながら、さきほどまで胸にあった高鳴りを思い出す。
「……こんな舞台があるなんて、思いもしなかったわ」
胸のうちから滲み出すようにそう言うと、ラウルはじっとこちらを見たまま、やわらかく頷いた。
「ルシェーヌの芸術は、私の国とは何もかもが違うの。……国を超えた先にこんなものがあったなんて、まるで世界そのものが変わってしまったみたい」
「へえ……そうなんだ」
ラウルは興味をそそられたように目を細めた。しばらく考えるような間を置いたあと、少し首を傾げながら訊ねた。
「ってことは、オペラも向こうとはだいぶ違うのか?」
私はすぐには答えられず、ほんのわずかに視線を落とす。この国のオペラについて、私はまだほとんど何も知らない。けれど故郷でのそれについてなら、語ることができる。
「この国のオペラには詳しくないけれど、私の国ではオペラといえば貴族のためのものだったの。とても格式が高くて、内容も難解で、結末はいつも哀しくて……笑って終わるような物語はまず見たことがなかったわ」
そう話すと、ラウルは驚いたように眉を上げた。思案するように口元に手をやり、ひと呼吸ののち首を傾げて言った。
「それじゃあ、オペレッタとか観たことないんだ?」
「オペレッタ?」
思わず語尾が上ずった。耳にした覚えのない言葉だった。
ラウルはすぐに合点がいったように頷き、親しみのこもった声で言葉を補ってくれる。
「喜歌劇のことだよ。明るい筋書きで、幸福な結末が多いんだ」
その言葉を聞いて、私は思わずラウルの顔をじっと見つめてしまった。明るい筋書き。幸福な結末。それはきっと、観る人を笑顔にする物語。
——そうか。私がアルフレートや仲間たちと共に作り上げたあのオペラは、この国ではすでにオペレッタと呼ばれるひとつの芸術として息づいていたのだ。
厳粛で重々しい格式の世界とは違う、人の暮らしのすぐ隣にあるような舞台。それがずっと心の奥に灯っていたものの名だったのだと、私はようやく知る。
その気づきが胸の奥にじんわりと沁み渡って、私はしばらく言葉を失ってしまった。
呆然として黙り込んでしまった私を見て、ラウルはすこし困ったように眉を下げたあと、すぐに気遣うように屈託のない笑みを浮かべてくれる。
「もし良かったらさ、一緒に観に行かない?」
「えっ」
思わず声が漏れた私に、ラウルは胸元の内ポケットから小さな封筒を取り出してみせた。
「知人にチケットを二枚譲ってもらったんだ。ちょうど来週末。初めてならぴったりの演目だと思う」
不意に差し出された提案を飲み込みきれず、私は瞬きを繰り返していた。どう返せばいいかわからなくて、戸惑って視線を泳がせていると、隣のミレイユがあきれたように息をついた。
「行ってきなさいよ。ちょうどいいじゃない。音楽舞踏学院の生徒にしては、あんた物事を知らなさすぎるのよ」
口ぶりは手厳しかったけれど、真意はたぶん、行きなさい、視野を広げなさい、という彼女なりの優しさだった。私は少し迷ったあと、ラウルのほうへ向き直り、小さく頷く。
「……ありがとう。ぜひご一緒させていただきたいわ」
ラウルは私の返事を聞くとぱっと顔を綻ばせた。まるで子どもがずっと欲しかった玩具をようやく手にしたときのような、純粋な喜びを浮かべた笑顔だった。
「よかった。じゃあ、詳しいことはまた学校で」
そう言って、軽く手を振りながら背を向ける。軽やかに歩き出した後ろ姿をしばらく見送ってから、私はミレイユのほうへ向き直った。
夏の日差しはまだやわらかく、陽の傾きには程遠い。劇場の余韻をまとったまま二人で歩き出しながら、私はふと空を見上げた。午後の陽光が建物の白壁に反射して、まぶしく目を細める。
そのとき、隣にいたミレイユがぽつりとこぼすように言った。
「そうだ、ちょっと付き合いなさいよ。買いたいものがあるの」
私が微笑んで頷くと、ミレイユはなにげない顔で歩き出した。
並んで石畳の通りを進みながら、私はあちこちの店先を眺めた。
劇場近くの通りは品のよい店が軒を連ねていて、飾られた品物は芸術作品のようにも思えた。花のついた帽子、リボンのあしらわれた手袋、香水瓶のきらめき。どれも見ているだけで楽しかった。
ミレイユは慣れた様子で歩きながら、「あそこの紅茶はまあまあ」「あの店の香水は質がいい」とあれこれ語ってくれる。私は頷きながら、どれもこれも心に留めようと懸命だった。
やがて彼女は、王立バレエ団のバレリーナも通うという専門のバレエ用品店へ入っていった。私は彼女に続こうとして、ふいにその隣の小さな仕立て屋の前で足を止める。
ウィンドウに目をやると、涼しげな薄布のドレスが一体のトルソーにかけられていた。淡い水色のモスリンに白い刺繍があしらわれ、腰には細いサッシュリボンが結ばれている。飾り気は少ないけれど、布地の揺れが風を孕んでいるようで、見ているだけで心に清涼を運んでくるような仕立てだった。
けれど私の視線をさらっていったのは、その横にそっと立てかけられていた一本の日傘だった。アイボリーの絹に小さな花模様が刺繍され、持ち手は優美な曲線を描く木製。美しい造りのその日傘に、私は気づけば目を留めていた。
こちらの夏は長いと聞いている。これから陽射しも強くなるだろうし、一つ持っていても損はないかもしれない。骨組みにぴんと張られた布地を眺めながら、そんな実用的なことをぼんやりと思った。
それに、来週の外出にも使えるかもしれない。そう考えたところで、自分の胸の奥に小さな波紋が広がったのを感じた。
でも、いいのかしら。ラウルと二人きりで出かけるなんて。
今さらながら遅れてやってきたその思いに、私は目を伏せる。
彼はヴァロワ家のご子息だ。名門の生まれで、きっと誰もがその名を知っている。
私はただの友人で、ただ誘われただけ……だけどもし変な噂が立ったりして、彼に迷惑をかけてしまったら。私のせいで評判に傷がついたら。そんなことになったらどうしよう。
それに、私自身も。男性と二人で並び歩いたなんて知られたら、母は眉をひそめるに違いない。
ほんのひととき舞台を観に行くだけのことなのに、育ってきた環境がそれを簡単には許してくれない。
「なにぼんやりしてるのよ」
後ろからかけられた声に、私は小さく肩を跳ねさせた。振り返ると、ミレイユがすでに買い物を終えて立っていた。
私がまだ迷っている間に、彼女はもう自分の目的をきっちり果たしてしまったらしい。その早さと潔さには、毎度のことながら感心する。
「……ねえ、ミレイユ」
思い切って口を開いた。聞かずにはいられなかった。日傘に目を奪われていたはずの私の胸を、いつのまにか別の不安が占めていたのだ。
「ラウルと二人で出かけるなんて、やっぱり……まずいかしら」
問いながら、我ながら妙な気持ちになっていた。ほんの少し前まではそんなことすら考えていなかったのに。けれど今になって、その“ふたり”という言葉が、やけに重く響くのだった。
ミレイユは片眉をわずかに上げたあと、すぐにそっけなく答えた。
「本人が誘ってきたんでしょ? ならいいんじゃないの」
「でも……もし、変な噂が立ったりしたら——」
「そんなことないでしょ」
すぐさま言い切る声に、私は目を瞬かせる。ミレイユは特に気にしたふうもなく、肩をすくめて続けた。
「ここはそこまでおしゃべりな街じゃないわよ。それに、わざわざあんたの国まで噂が流れるってこともないでしょうし」
呆れたような口調だったけれど、言っていることには理があった。私はふと視線を落としながら、言葉を咀嚼するように心の中で繰り返す。
たしかに、この広くて騒がしい都市で、たった一度舞台を観に行くだけのことを、誰がいちいち取り沙汰するというのだろう。
それにラウルは確かに名門の出だが、私だって貴族の娘ではあるのだ。少なくともあからさまに不釣り合いな間柄ではない。
「そうね……そうかもしれないわ」
自分でも意外なほど素直に、私はそう頷いた。それを見届けたミレイユはふっと目を細めたかと思うと、まるで待ってましたと言わんばかりのからかうような笑みを浮かべた。
「なによ、そんなに気にするなんて。まさか国に恋人でも残してきたの?」
彼女の言葉に一瞬、胸の奥がかすかに疼く。でも私はすぐに首を振って否定した。
「そういうわけじゃないの。あなたの言う通り、杞憂だったわ。気にしないことにする」
「ふふん、いい心がけね。あんたにはまだまだ知らなきゃいけないことが山ほどあるんだから」
そう言ってミレイユは、仕立て屋のウィンドウに並ぶ日傘へとちらりと視線を向けた。私もそちらを見やりながら、決心するように小さく頷いた。
「これも買っていこうかしら。日差しが強くなる前に、ひとつ持っていてもいいわよね」
誰に問うでもない独り言に、ミレイユは「やっとその気になった?」と呆れたように笑った。
私は小さく笑って、ガラス扉に手をかける。柔らかく響くベルの音に迎えられて、日傘の並ぶ店内へと歩みを進める。
日傘の繊細な布地が、淡い夏の光を透かして揺れていた。来週、これを差して出かける自分の姿を想像しながら、私はもう一度だけ、胸の奥に残る余韻をそっと振りほどいた。




