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夏色の間奏曲

 エクラ・ド・レーヴの歌劇《夜の嘆き》は、最終日まで満席が続いた。終演後の拍手がいつまでも鳴り止まず、誰かが「ここまで響いたのは久しぶりだ」と笑っていたことを思い出す。

 長かったようで短かった日々。舞台で過ごした毎日はあまりに濃くて、振り返るたびに胸がいっぱいになる。


 公演の幕がすべて下りた翌日、私は再び音楽舞踏学院の門をくぐった。「おかえりなさい」と同じ授業を取っていた子たちに声をかけられ、私は「ただいま」と笑って返す。

 この国に来て、初めは何もかもが手探りだった。言葉も、習慣も、芸術も、何もかもが違っていて戸惑いばかりだった。だけど今ここに居場所があって、歌を認めてもらえている。その手ごたえを、ようやく少しだけ掴めたような気がする。




 授業を終えたあと、私は廊下をひとり歩いていた。石造りの床に革靴の音が軽やかに響く。大きな窓から差し込む陽射しが、白い壁にいくつもの影を落としていた。


 そんな折、向こうからやってきた男子生徒が、ふと立ち止まって私の方に視線を向けた。


「ねえ、君!」


 明るく澄んだ声だった。朗らかで陽の気配をまとったような声色。声の主は、鳶色の髪を揺らして、目尻に笑い皺を浮かべた快活そうな青年だった。


「夜の嘆きに出てた留学生だよね? 俺、観たよ!」


 彼の言葉に私は思わず立ち止まる。少し驚いたまま「ええ」と返すと、彼は嬉しそうに目を細めた。


「結末は悲しかったけど、心に残るものがあった。それに吸血鬼たちの群舞、あれは圧巻だったな」


 嬉々とした口調で語るその様子に、私は自然と背筋が伸びるのを感じた。作品を観た人の言葉というのは、何よりも励みになる。


「ありがとう……そう言っていただけて、とても嬉しいです」


「こっちこそ、見に行けてよかったよ。あの群舞、動きも構成もすごく計算されてたでしょ。あれをやらせたムッシュ・ガルニエって、やっぱり只者じゃないよな。あの人の舞台、ずっと憧れてたんだ」


 期待に満ちた瞳がこちらを見詰める。彼は少年のように目を輝かせていて、その名に対する敬意が一目で伝わってきた。

 私も思わず頷き、胸の奥でその名を反芻する。ムッシュ・レオン・ガルニエ。

 重たげな黒衣に目の下の濃い隈が印象的なあの演出家は、初対面から近寄りがたい雰囲気をまとっていた。けれどその厳しさの向こうにあるもの——誰よりも舞台に心を燃やし、誰よりも歌劇を愛する姿勢を、私は日に日に知っていった。


「それにしても、あの人の作品に関われたなんてすごいな。この学校から何人も応募してたけど、合格したのは君だけだって聞いてる」


 彼の声は屈託がなくて、ただ純粋に感嘆しているようだった。私は少し口元を引き結んで、返す言葉を探す。あまりに素直に褒められると、嬉しさと同時に少しむず痒いような気持ちになるのだった。


「そう言われると、身が引き締まります。でも、まだまだ至らないところばかりだわ」


「それでも結果を出したのは君だろ? 自信持ってよ」


 そう言ってくれた彼の声は晴れた青空のようにまっすぐで、その一言が胸に沁みて私は思わず頬をほころばせていた。

 あの日の舞台も、あの光に包まれた時間も、こうして思い出として語られることで、ようやくほんとうに現実だったのだと思える。


「……あ、そうだ」


 と、そのとき彼は何かを思い出したように小さく手を打った。


「俺、ラウル・ド・ヴァロワ。遅くなってごめん。名前、まだだったね」


「——ヴァロワ?」


 思わず繰り返した私に、ラウルはあっけらかんとした顔で「そうそう」と笑う。


「まさかあなた、ヴァロワ家のご出身なの?」


「うん、一応。でも気軽に呼んでよ、ラウルって。貴族ぶる趣味はないからさ」


 名門の名を口にしながらも、そこにおごりや気負いはなかった。私が目を見開いたまま彼を見つめていると、ラウルは気まずがるふうもなく、なんでもないことのような軽さで続けた。


「それで、君の名前は?」


 問いの意味は単純だったのに、喉の奥が動かなかったのは、ただ驚いていたからだ。

 由緒あるヴァロワ家の方がこの学院にいて、こんなにも気軽に話しかけてくるなんて。衝撃がまだ胸の中に残っていて、返事をするまで少し間が空いてしまった。


「……エリザベート・フォン・ローゼンハイネと申します」


 言いながらつい背筋を伸ばしていた。家名を名乗るときの所作が、いつのまにか癖になってしまっているのに気づく。

 けれど彼はその名前に眉ひとつ動かさず、むしろ楽しげに目を細めて頷いた。


「エリザベート。うん、いい名前だね。ぴったりだ」


 気取ったところのないその声に、私は少しだけ瞬きをした。肩書きを特別扱いするでもなく、名門の重みを計るでもない。

 目の前にいるひとりの人間として、私のことをまっすぐに見てくれているようなその視線が暖かかった。


「ありがとう。……あなたも、ラウルというお名前がとてもよくお似合いだと思うわ」


 私がそう返すと、彼はほんの一瞬だけ目を丸くして、それからふっと笑った。


「ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいよ」


 笑みの色が柔らかく広がって、まるで曇りのない昼の光のように心に射し込む。どうしてか、ほんのわずかのあいだ、その表情から目が離せなかった。

 あたたかい人だ、と直感した。身分も名も軽々と越えて、まっすぐ人に向き合うような光をその瞳が持っている。

 ラウルはそんなふうに見られているとも知らず、「また話そうね」と軽く手を振って、あっけらかんと廊下の向こうへと消えていった。私は立ち尽くしたまま、その背中を見送った。



 ◆



 昼休み、食堂の一角。木の椅子に腰かけて、私は目の前のトレイを見下ろす。

 今日のランチは香草バターで焼かれた白身魚と、根菜のピュレ、それにほんのり甘いブリオッシュ。どれも母国では口にしたことがない風味なのに、不思議と口にあっていて、日々の楽しみになっている。


 向かいに座るミレイユは今日も変わらず、グリーンサラダに蒸し鶏を添えた簡素な皿を前にしていた。


「ねえ、ミレイユ。ルシェーヌの料理って、ほんとうに美味しいわね。どれも初めての味ばかりで、この食堂でのランチが今では私のささやかな楽しみなの」


 そう口にすると、フォークを小さく動かしながらミレイユは口を小さく尖らせた。


「ふうん。そんな感動してる人、なかなかいないわよ。まあ、よその国から来た子ならではってところね」


 少し呆れたように言いながらもどこか満足げに見えたのは、彼女なりにこの国の文化を誇りに思っているからだろう。

 

 スプーンを手にしたまま私はふと、この国に来て気がついたことを思い出す。文化といえば、この国の芸術は私の国のものとはまるで違っている。


 例えばオペラは母国では王侯貴族のためのものであり、格式高いものとして特権階級の嗜みにとどまっていた。

 けれどこの国では、町の人々が平服で劇場に足を運び、舞台に声援を送るという。オペラは限られた人々のものではなく、もっとずっと生きたものとして、日常に根ざしているのだ。


 絵画もそうだった。向こうでは絵といえば貴族や有力者の肖像画がほとんどで、求められるのは対象の姿かたちを忠実に写し取る技巧と整えられた美しさ。

 だがこの国では、日々の光のきらめきや、午後の風が残していった匂い、雨に濡れた石畳の温度といった目に見えない何かを、キャンバスの上に描きとめようとする画家たちがいるという。


 バレエもまた然りだった。私の知っていたバレエは、礼儀作法の一環として学ぶものだった。立ち居振る舞いや優雅なお辞儀、そういった所作の美しさを身につけるための教養としてのバレエ。

 バレエを生業とする人もいたけれど、彼らの舞台は観客席のある劇場ではなく、貴族の屋敷の広間だった。夜会での余興としてバレエ団の人々が屋敷に招かれ、広間に仮設の床を敷いて舞う。


 だからこそこの国のバレエの文化には驚かされた。王立のバレエ団があり、専用の劇場で毎日のように公演が行われていると聞く。

 観客は貴族に限らず、音楽や踊りを愛するあらゆる人々。そんな世界を私は初めて知った。


 それはとても素敵なことに思えた。けれど同時に、自分の中にぽっかりと抜けた空白に気づく。


「そういえば私、バレエって観たことがないの」


 ぽつりとこぼすように言うと、向かいのミレイユの手が止まった。フォークを持ったまま、彼女は目を瞬かせて私を見つめる。


「は?」


 呆れているというよりも、信じられないものを耳にしたときの反射のようだった。茫然とした響きを帯びた声に、私は小さく肩をすくめる。


「正確には、劇場でバレエを観たことがないの。母国では公演が行われていなかったから、舞台で踊っている姿を見たことって、一度もなくて……」


 そこまで話して、私はスプーンの先をそっと皿の縁に置いた。

 ミレイユはどうやら冗談ではないと察したらしく、軽く首を振って深くため息をついた。


「信じられない……」


 彼女はあからさまに眉をひそめた。食べかけていた蒸し鶏の皿を押しやりながら、こちらをじっと見据える。


「人生損してるじゃない。あんた今まで何してきたのよ」


「そう言われても……機会がなかったのよ」


 私は苦笑しながら返す。弁解のようで気が引けたが、事実そうだった。けれどそんな事情は、バレエを愛するミレイユには通じないだろうと思った。


 彼女の視線を前に私が身を小さくしていると、ミレイユは数秒の沈黙ののち「仕方ないわね」とため息をついた。


「ちょうど今度、王立バレエ団の新作の公演があるの。あたし、家族が関係者だからチケット手に入るのよ。次の休日、連れてってあげる」


「そんな、いいの?」


 あまりにも突然の申し出に私は戸惑った。貴重なチケットを譲ってもらうのは、さすがに気が引ける。


「いいの。空いてるし。渡す相手も別にいないし。——あんた、観るべきよ。本当のバレエっていうものが分かるから」


 彼女の瞳と言葉の端には熱がこもっていた。ミレイユにとってバレエというのは、誇りであり大切なものなのだろう。だからこそ見せたいと思ってくれたのだと思うと、胸の奥が温かくなる。

 そっけない口ぶりのなかに確かに灯る温度に、私は小さく微笑んだ。


「ありがとう、ミレイユ。とっても楽しみにしてるわ」


 素直にそう伝えると、彼女は得意げに笑った。


「いいもの見せてあげるから、目凝らしてちゃんと観なさいよ」


 私は小さく頷くと、スプーンを握り直して残っていた根菜のピュレにそっとすくいを入れた。異国に来て、こんなふうに肩を並べて誰かと昼食をとる日が来るなんて、少し前の私には想像もつかなかった。


 ふと窓の外を見ると、初夏の名残をとどめた青空が、雲をひとつ抱いて遠くまで広がっていた。あの日、手紙を握りしめて覚悟を決めたことも、全部、今この時間に繋がっているのだと思えた。


「ねえ、ドレスコードはあるの? 正装したほうがいいのかしら」


 ふと思いついてそう尋ねると、ミレイユは一瞬きょとんとして、それから吹き出した。


「劇場に舞踏会のつもりで来る気? 別にいつも通りでいいのよ、堅苦しい格好はむしろ浮くわよ」


 ミレイユのあっけらかんとした返答に、私も肩の力が抜けて笑ってしまった。


「そう……それなら、ちょっと安心したわ」


 公の場に出るとなるとつい服装に迷ってしまうのは、やはり育ってきた環境ゆえなのだろう。けれどここでは舞台も客席も、もっとのびやかで身近なものとして息づいている。

 劇場という空間が日常の延長にあるというのは、不思議な感覚だった。けれどそれがまたたまらなく新鮮でもある。


 ミレイユはその後も淡々とランチを食べながら、王立バレエ団の話をいくつかしてくれた。聞いたことのない名前や用語も多かったけれど、そのひとつひとつに彼女の情熱が詰まっていて、聞いているだけで胸が高鳴る。


 私はまだ、バレエという芸術を知らない。自分の体を通して踊りを学んではいても、それが一つの物語として完成されたかたちで表現される現場をまだ見たことがない。


 それが見られる——この目で、心で感じられるのだと思うと、自然と胸が熱くなった。

 今度の休日は、きっと忘れられない一日になる。そんな予感が静かに、けれど確かな手応えをもって胸の奥に灯っていた。

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