『夜の嘆き』
風が鳴いていた。ひとすじの光も差さぬ空の下で、灰色の雲が石造りの屋根に影を落とす。湿った空気に煮詰められたような午後、リュカは机に肘をついたまま、指先で干からびた薬草の葉を崩していた。
乾いた音がひとつ、またひとつ。束ねられた紙の山の上には、インクの染みが無造作に広がっていた。
その向こう、部屋の奥。窓際のベッドで妹は眠っている。細く浅く、まるで薄紙のような息遣いだった。
もう何度目だろう、と彼は思う。何度、夜を徹して処方を書き換え、何度なんの効き目もない煎じ薬を煮出してきたのか。
熱はひかず身体はやせ細り、日に日に命の気配が薄れてゆくのを、ただ黙って見ていることしかできなかった。
——間に合わない。どんな手を尽くしても、このままでは。
喉の奥がひりついた。医師であるはずの自分が、こんなにも無力でいいはずがなかった。
辺境のこの町で診療所を構えて三年、貧しい人々の命をいくつも救ってきた自負がある。しかしその誇りは、今や一人の少女の命を前に無力だった。
机に置かれた書物のページの端が、不意に風でめくれた。開いたのは、旧い民間療法を綴った一冊。
信じるに足らぬ迷信と笑い捨てたはずのものだ。けれどその頁の中に、目に留まった一文があった。
〈雪深き山に、時の止まりし古き城あり。そこに眠るは命を癒やし、時を縛りし一滴の秘薬〉
ありふれた伝承だ。語り部の酔いどれが吐き出す夜の笑い話にすぎない。
だが、もはや笑い飛ばすこともできなかった。笑えないほどに、心は擦り減っている。たとえそれが霧の向こうに消える幻だとしても、届かないと知っていても、縋らずにはいられなかった。
リュカは立ち上がると、机の引き出しから地図を取り出した。粗末な印刷の紙は何度も折られ、角が擦り切れていた。
王都から北へ、辺境のさらに奥へ。名も記されぬ山並みの奥に、うっすらと鉛筆で書き込まれた十字印がある。ある老医師がかつて口にした場所、封書の隅に書き添えられていた地名、そしてひとつの伝説。その断片が奇妙に重なっていた。
雪に閉ざされた高地の村では、こんな話がまことしやかに囁かれているという。
——凍った峠を越えた先に、石造りの古い館がある。どんな地図にも載っていないが、確かにそこに建っている。そこにはヴァランシ伯爵と名乗る男が住んでいて、消えかけた命の炎を再び灯す秘薬を与えてくれるのだと。
妹の眠るベッドに視線をやる。彼女は夢の底で、何かを見ているようだった。うなされるでもないが、安らぐでもない。リュカはその姿に、急き立てられるような焦燥を覚える。
机の隅に紙を広げ、インクを含ませた筆を取った。震える手で書いたのは、たったの二行。
〈ノエルを頼みます。もし戻らなければ、どうか静かに看取ってやってください。〉
紙をベッド脇の小卓に置き、ノエルの枕元にしゃがむ。小さな手にそっと触れた。かつて一緒に野を駆け、雪の日には暖炉の前で本を読んだその手が、今はあまりにも細く儚い。
「すぐ戻るよ」
外套を羽織り、扉を開ける。冷気が容赦なく吹き込んできた。頬がすぐに痺れ、吐いた息が白く凍る。
そこからは、いくつもの乗り継ぎだった。最初は定期便の馬車。次に荷物運びの商人の馬車へ頼み込み、そのあとは農夫の小さな馬車に揺られ、峠道を越える。道は次第に細くなり、雪が深くなるにつれて言葉を交わす者もなくなっていった。
凍りついた野に、痩せた木々が骨のように立ち尽くしている。空は曇天、雪は音もなく積もり、旅人の影さえ飲み込んでゆく。
リュカはマフラーをきつく巻き直し、身を屈めて風を避けながら歩いた。最後の村を過ぎた先は、もう地図にも道は記されていなかった。頼れるのは断片的な記憶と、口伝に残る朧げな地名だけだ。
山を越え、谷を下り、再び登り、雪の白に足を取られながら、それでも歩みを止めなかった。
やがて、視界の奥にそれは現れた。
吹雪の切れ間、山の斜面に張りつくように、黒ずんだ影が浮かび上がる。塔がいくつも突き立ち、全体を囲う石の外壁には苔がこびりついていた。城というにはあまりに沈黙が深く、まるで巨大な棺のようでもあった。
鉄の門は重々しく閉ざされている。錆びついた格子には雪が積もり、鍵穴には氷の膜が張っていた。
リュカは門を押し開き、手袋越しに正面の扉を叩いた。石壁に鈍い音が響く。しかし返ってくるのは風の唸りと、梢の軋む音ばかりだった。
もう一度、拳を打ちつけた。小さく息を吐きながら待つが、反応はない。まるで何十年も誰の訪れもなかったかのように、城は静まり返っていた。
日は傾き、山の端に沈んでいく。やがて光がすっかり消えると、白雪に染まった地面さえ影の色に変わっていった。
寒さが骨にまで染みてきた頃、不意に、音もなく扉が開いた。そこに立っていたのは、一人の男だった。
背は高く、黒の外套を纏い、白銀の月光に浮かぶ姿はあまりにも整っていた。彫像のように細い顔立ちに、影を引いた瞳。
肌は蝋細工のように白く、息をしているのかどうかさえわからない。まるで、この世の時間に属していないかのようだった。
「こんなところへ、人が来るとは珍しい」
男の声は低く、よく響いた。
「……あなたが、この城の伯爵ですか」
リュカが声をかけると、男はゆっくりと片眉を上げた。その動作ひとつすら異様に静かで、現実からわずかに浮いているような印象を与える。
「秘薬があると伺いました」
返事を待たず、リュカは言葉を発した。
男は足を止めて、薄闇の中でわずかに顔を傾け、まじまじとリュカを見つめる。まるでその言葉の奥にあるものを、皮膚の下まで透かし見るような目だった。
「妹が病気で、どんな治療も効かないんです。ですがある人が、この地に命を癒す薬が眠っていると……」
リュカの声が消えるのとほとんど同時に、男は一歩だけ近づいた。黒い外套が風に揺れることもなく、ただ影のように滑る。
男は視線を逸らし、数拍の沈黙ののちに言った。
「……よくある話です。旅人が夢を見る場所としては、この城は少々都合が良すぎるのでしょうね」
「……つまり、それは……」
「さあ、今夜のところは、身体を休めるのが先ではありませんか。凍えた客人に真実を語るには、少々夜が長すぎる」
言葉を切る間もなく、男は背を向けて城の中へと歩き出す。リュカは少しだけ躊躇し、それからその後に続いた。
中は想像以上に暗く、そして寒かった。広い玄関ホールには蝋燭ひとつ灯っておらず、天井の高い空間に、足音だけがぽつ、ぽつと反響する。石の床は濡れたように冷え、どこまでも続く廊下の奥には、見えぬ何かの気配が潜んでいた。
「私はヴァランシ。この城の主人です。眠る部屋をご用意しましょう。何か温かいものでも出せればいいのですが、生憎粗末なもので」
通された部屋は、使われていた形跡があるとは言い難い寝室だった。ベッドの上に毛布が一枚、暖炉には火の気もない。窓の外には雪が吹きすさんでおり、風の唸りが遠くから聞こえてくる。
けれど今夜はここで眠るしかない。身体の芯まで冷えた疲労が、背中に重くのしかかっていた。
◆
風の音がしていた。遠くで扉が閉じる音がして、それきり、誰の気配もなくなった。
部屋はひどく静かだった。いつもなら兄が座る机の椅子が、今日は空のまま。開きかけた書物と、薄く乾いたインクの染みだけが、その場に彼がいた証のように残っている。
——出て行ったのね、あの地図を持って。
兄の考えていることくらい、なんとなくわかる。ここ数日、机の引き出しを何度も開けては、皺だらけの紙を見つめていた。
いつもなら自分のそばに長くいてくれるのに、夜になるとふと席を立ち、窓の外を眺めて戻らないこともあった。
一月ほど前に私が倒れてから、兄さんは必死だった。
薬草を煎じ、注射を試し、知人の医師に手紙を書き、あらゆる文献を夜通し読み漁っていた。私のために、すべてを犠牲にしてくれていた。でも、私はわかっていた。
この病は、もう治らない。
兄さんには言わなかったけれど、私は自分の身体の奥で、それを知っていた。
そっと目を開ける。空の椅子に、兄の姿を重ねる。灰色のコート、少し寝癖のついた髪、時折見せる、難しい顔。私の知っている兄のすべて。
でも、もういいの。兄さん、私はもう、十分だったの。
いちばん大切な人が、いちばん近くにいてくれた。庭の花が咲いたと教えてくれた日も、雪の朝に何も言わずに毛布を増やしてくれた日も、全部忘れたりしない。
あなたがそばにいてくれて、私に笑ってくれて、それだけで私は幸せだったの。どうかもう、無理をしないで。私のために命を削らないで。私はもう、十分に生きたわ。
窓の外で、木の枝が風に揺れていた。小さな光が空のどこかで瞬いている。今夜は星が見えるのかもしれない。けれど、もう起き上がる力はなかった。
◆
夢の底で、誰かに呼ばれたような気がした。
名を囁くような声。耳元に落ちる冷たい吐息。それは風ではなかった。だが目覚めるにはあまりにも静かで、まるで眠りの奥へと引きずり込もうとする、逆さまの重力のようだった。
リュカははっとして目を開けた。
部屋は暗く、蝋燭の火もついていない。月光がカーテンの隙間から射していたが、それすらも心もとないほどに空気が沈んでいた。
——何か、いる。
目が闇に慣れるより先に、気配がはっきりと形を持ち始めた。
寝台の周りに、いくつもの影が立っていた。壁際に、天井近くに、窓辺に。人のような、けれど人とは異なる輪郭。
異様に青白い肌。目は虚ろで、奥に闇を溜め込んでいる。そして、口元には鋭く覗く牙。指先には不自然に伸びた爪。
息が止まり、全身の血が凍った。
一体が、すうっと寝台に身を乗り出してくる。その顔は少年にも少女にも見えたが、年齢という概念が通じるものではなかった。無垢さと死の匂いを同時に纏ったような異形。
リュカは半ば無意識に、手探りで荷を探った。鞄の底に押し込んだ革袋の中にそれはあった。かつて修道院で診療をしたとき、礼として贈られた銀の十字架。半ばお守りのつもりで持ち歩いていたもの。
彼はそれを震える手で掴み、目の前に高く掲げた。
瞬間、呻き声が空気を切り裂いた。
異形たちはいっせいに顔を背け、苦痛に身をよじった。肌が焼けるように青白く光り、細い爪が空を掻く。ひとつ、またひとつと影が後ずさり、壁の暗がりへと逃げ込む。
何が起きているのか、すぐには理解できなかった。ただこの十字架が彼らを傷つけるのだと、反射的に悟っただけだった。
息を呑んだまま、リュカは背後も見ずに部屋を飛び出した。重い扉を押し開け、廊下へ転がり出る。足がもつれ、半ば這うようにして石の床を進む。辺りは相変わらずの闇だった。誰もいないのに、誰かに見られている感覚だけが、ずっと肌に張りついている。
階段を下りようとしたところで、目の前に人影が現れた。黒衣の男——あの、城の主の伯爵だ。
「……ああ、気づいてしまったのか」
伯爵は驚きもせず、ただ淡々と呟いた。そこに慌てた様子は微塵もなく、むしろやや退屈そうにさえ見えた。
「残念だ。今夜はおまえをゆっくり味わうつもりだったのに」
「お前は……あの化け物は……」
言葉が震えて口からこぼれ落ちる。呼吸が浅くなり、喉が痛むほど冷たく乾いていた。
伯爵は一歩、リュカに近づいた。蝋燭も灯りもないのに、彼の輪郭だけは妙にくっきりと見えた。
「見たのだろう? 我々は吸血鬼。部屋にいた者たちもすべて同族——この城の住人だ」
声は滑らかで、不自然なほど明瞭によく通った。リュカは声も出せず、ただ彼の顔を見つめるしかなかった。
「“秘薬”をお求めでしたな、お客人。ならばこう説明しよう。我らが血、それこそが人間の病を癒し、若さと命を与える薬だ」
リュカはその場に立ち尽くした。頭の中では警鐘が鳴っていた。あの部屋で見たもの、牙、爪、闇に潜む声。すべてが理性を脅かしていた。
それでも。
それでも、ほんの一瞬、心の奥に違う声が響いた。
——これで、ノエルを助けられるかもしれない。
彼女の手から熱が消えていくのを、もう見なくて済むかもしれない。もう、目の前で何もできずに座っている必要はないのかもしれない。
けれどそれは、何と引き換えに?
リュカは拳を握りしめた。十字架はまだ掌の中にある。
「……ノエルを……連れてくれば、本当に……助かるのか」
問うと、伯爵は静かに、しかし確信に満ちた声で応じた。
「人間の病など、我らの血を一滴与えればたちまち癒える。肉体の腐敗も、老いも、死の足音さえ遠ざかり、永遠の命にさえ手が届く」
伯爵は更に一歩、リュカのすぐ前で足を止める。瞳の奥に、奇妙な光が揺れていた。高揚とも期待ともつかない、名づけがたい熱。
「おまえの妹も例外ではない。望むのなら仲間に加えてやろう」
まるで救いの手を差し伸べるかのように、伯爵の声は穏やかだった。
迷うな。おまえは医師だ。命を救うことに何のためらいがいる——そんな囁きが心の奥から湧き上がる。
リュカは奥歯を噛みしめた。揺れる思考の中で、ただひとつ確かなことがあった。
ノエルは死にかけている。自分の手では救えない。この男の言葉が真実なら、彼女を助ける手段はここにある。
「妹を連れてこい」
伯爵はそう言った。声は不思議に柔らかな口調だったが、その内実はどこまでも冷たく、逃れようのない重さを孕んでいた。
リュカは返事をしなかった。喉の奥に言葉が引っかかってどうしても形にならず、黙って拳を握りしめる。
その沈黙を承諾と見なしたのか、伯爵は口の端に薄く笑みを浮かべると、玄関のほうへ向き直り指先でそっと虚空をなぞった。
城門が音を立てて開いていく。吹き込んでくる風が、暗く冷たい雪の匂いを運んできた。門の外には、往きに通ったのと同じ白い森が広がっていた。
「共に永遠を生きよう、リュカ。……逃げられると思うなよ」
言葉は背を向けたまま投げかけられた。すぐあとに続いた乾いた笑い声は、どこか楽しげで、同時に空虚で、雪を散らす風の音と重なって長く響いた。
◆
夜が深く沈んでいた。城の塔の一角、光も差さぬ小間にて、ヴァランシはじっと窓辺に立っていた。
月は隠れ、雲は重く、風も鳴かぬ夜。音という音が消えた、静止したような闇の底に彼はひとり息を潜めていた。
ヴァランシは椅子にもたれ、薄く目を閉じた。天井に広がる梁の影が、灯りにゆらめいている。
指先でワイングラスの縁をなぞる。満たされた液体は濃い紅色。だが彼の渇きを潤すには、まるで足りない。
そばに開かれた書物は、何百年も前の医学書だった。手ずれた頁、かつて自身が書き写した注釈。今はもはや無意味な符号のように思えたが、それでも手放せずにいた。
かつて、あの人を失う前、私も医術を学んでいたのだった。人を助けたい、苦しみを和らげたいと願っていた。己がまだ、人であった頃のこと。
だがどれだけ知識を積んでも、どれだけの祈りを捧げても、彼女は私の手のひらから零れ落ちていった。この城の暖炉のそば、目を離したほんの数刻のあいだに、身体から熱が抜け落ちていた。
絶望に沈んだ私の前に現れたのが、あの怪物だった。名も、顔も思い出せない。けれどそいつは、私に血を与えた。病を、老いを、死を遠ざける血を。代償として、人としての命と未来を奪って。
それからは、終わりのない闇だった。時が進むたびに、世界は知らぬ顔をして変わり、記憶も名も失われていく。
かつて共に笑った者は誰もおらず、残されたのは止まったままのこの城だけ。
飽くほどの永遠の中で、この長い命に意味があるとすれば、過去の自分と同じ場所に立つ者に、別の道を与えること——それだけだと思い始めていた。
私のように痛みに囚われた者たちを、ここに迎えたいのだ。救いを求める者に与えよう。癒えぬ病に終わらぬ命を。絶望の夜に光の夜を。
——リュカ。
ヴァランシは男の名を心の中で繰り返す。「妹を助けたい」と言ったその声に、かつての自分の呻きを重ねた。
ならば、と彼は思った。もしその渇望が真であれば、一度だけ選ばせてやってもいい。
我らの血を取るか、それとも人としての絶望に沈むか。
だが——。
もし、迷いの果てに拒絶を選ぶのならば。
口を噤んで去っていくならともかく、もしこの秘密を抱えたまま人間の世界に戻るのであれば。
それは、見逃すことはできない。
この城はただの廃墟ではない。ここに集う者たちは、皆どこかで世界からはみ出し、永遠の沈黙に身を委ねた者たちだ。
その存在が知られ、告げ口一つで狩りの火が点けば——いともたやすく血の宴へと変わるだろう。
だからこそ、心変わりをする者には、退路は与えない。
「彼が人の世に戻らぬことを願おう」
人として死ぬか、吸血鬼として生きるか。自らの足で歩く者だけを迎え入れてきた。不治の病に苛まれ、絶望の淵に立った者たちを。
孤独を癒すためでもなければ、同情でもない。これはただの贖罪だ。
あの夜、彼女の命を救えなかった己の、果てなき償いなのだ。
◆
リュカは振り返らなかった。凍えた石畳を踏みしめ、風の中へと駆け出す。吐いた息が白く広がり、頬を打つ風は容赦なく肌を裂いた。道は闇に沈み、城から離れるほどに、森は深く、音もなく冷えていた。
——どうしたらいい。
心の中で、声にならない声が繰り返される。ノエルを連れてくるべきなのか。あの男の言葉を信じるべきなのか。
命を助けたい、それは確かだった。だがその手段が人間ではなくなることだというのなら、本当にそれは救いと言えるのか。
迷いが重く、足がもつれる。雪に足を取られ、ふいに膝をつきそうになったとき、森の奥から甲高い悲鳴が響いた。
女の声だった。切羽詰まった、命の終わりに縋るような叫び。
はっとして、声のした方を振り返る。木々のあいだから、月明かりがこぼれ、かすかに揺れる影が見えた。息を殺して近づいた先に、目にした光景はあまりに生々しく、悪夢じみていて、目を背けることもできなかった。
倒れた女と、その身体に覆いかぶさる何か。異様に細長い手足、白く光る肌、喉元に深く噛みついている顔。赤黒い血がゆっくりと雪の上に染み出し、その滴が静かに広がっていく。
女の目は半ば開かれたまま、もう光を失っていた。喉からこぼれるかすかな声が、凍えた空気の中でやけに乾いた音を立てて消えていった。
リュカは動けなかった。背筋が凍るという言葉の意味を、初めて骨の髄から理解した。あれは、まさしく吸血鬼——あの城にいた異形と同じ、生き血を啜る存在。
爪は鋭く、目には理性の光がなかった。ただ生き血を貪り、生にしがみつく、悍ましい何か。その本性を、今この目で見てしまった。
「……あれは」
喉の奥から漏れた声は、風にさらわれて消えた。
「化け物だ……!」
恐怖が膝を突き上げた。逃げなければ、という衝動が、頭を真っ白にする。リュカは踵を返して、無我夢中で雪を蹴った。森の闇が、追ってくるように背中にまとわりつく。
こんなところで死ねない。ノエルを、あんな化け物にするわけにはいかない。
だが。
ふいに、目の前に影が現れた。
あまりにも唐突に。まるで空気が歪み、そこから滲み出すようにして、黒衣の男が立っていた。
「残念だよ」
その言葉の直後、空気が裂けた。
気づいたときには、リュカの背は木の幹に叩きつけられていた。何が起こったか理解できぬまま、肺から強く息が抜けた。視界がにじむ。首筋に氷のような手が触れた。
「おまえはもう少し理性的な男だと思っていた」
声は出なかった。次の瞬間、鋭い痛みが喉元を貫いた。
牙が、皮膚を破る感触。血が吸い上げられていくのが、はっきりとわかる。凍るような寒さと、逆流するような熱が、身体の芯でぶつかり合った。
視界が淡く揺れ、足元が遠くなる。耳元で何かが囁かれていたが、それが男の声なのか風の音なのか、もう判別がつかなかった。
凍てついた地面の上で目を覚ましたとき、視界は歪み、耳には風の音とは別の何か——遠くを流れる川のせせらぎ、木々の間を跳ねる小動物の心臓の音さえ、妙にくっきりと響いていた。
息ができない。喉が焼けるように乾いていた。空気を吸い込むたび、体が飢えを訴える。
空腹だった。ただの飢えではなかった。肉でもない。水でもない。もっと生きたもの。もっとあたたかく、もっと鮮やかなもの。
血だ。
その一語が、頭の中で鐘のように響いた。
リュカは立ち上がった。身体は軽かった。風が指先にまで染み通るのに、寒さは感じなかった。目の前の木々が奇妙に鮮明で、枝の上の雪の重さまで感じ取れる気がした。
——血が欲しい。
その思いが、理性を押し流していく。気づけば、森の奥へと足が向いていた。
しばらく彷徨ったのち、倒れた獣の匂いが鼻を刺した。雪の上に横たわる灰色の狼。まだ温かい。おそらく、獲物を追って転げ落ちたのだろう。腹のあたりが潰れ、血がこぼれていた。
リュカはその場に膝をつくと、ためらいもなく牙を差し込んだ。
ぬるく、鉄のような味が舌に広がった。赤い液が体内に流れ込むたび、焼けつくような渇きが静かに癒えていく。頭の奥に渦巻いていた霧が、ほんの少しだけ、晴れた。
ふと、手の中に横たわる死骸を見下ろした。狼の瞳は虚ろに開き、もう動くことはなかった。その死が自分の空腹を満たしてくれたという事実に、何か冷たいものが胸の奥を撫でた。
ノエル。
彼女の顔が、はっきりと脳裏に浮かぶ。
血の渇きはまだ完全には収まっていない。だがあの顔だけは、かき消すことができなかった。
会わなければ。
彼女に会いたい。たとえ、この身が何者に変わってしまっていようとも。何も言えなくても、触れられなくても、ただ一目……。
リュカは立ち上がる。倒れた狼を背にして、森を歩き始めた。
昼間の太陽は、肌を焼くように痛かった。だから彼は木々の影に身を潜め、洞の中や岩陰でやりすごした。目を閉じるたびに、夢のようにノエルの笑顔が浮かぶ。まだ人間だったころの記憶が、細く、温かく、彼を繋ぎ止めていた。
夜が来るたび、歩いた。歩いて、歩いて、吹雪に迷い、冷気に包まれても、それでも足を止めなかった。
石畳の道も、ランプの明かりも、夜風に揺れる木の枝も、すべてが遠い過去のように見えた。リュカはかつて自身が歩いていた道をひとつひとつ思い出しながら、診療所の裏手へと回った。
灯りはすでに落ちていたが、奥の一室だけがまだ薄く明るかった。カーテン越しの灯が、かすかに揺れている。
リュカは足音を立てぬよう、そっと近づいた。指先を持ち上げ、窓ガラスを軽く二度叩く。
中にいた人影が、わずかに動いた。
カーテンがそっと開き、痩せた肩がこちらを向く。やがて、ノエルの顔が姿を現した。眠りから目覚めたばかりのような、夢の中にいるような、ぼんやりとした瞳だった。
「……兄さん?」
声は、驚きよりも安堵に近かった。リュカがこの診療所を出た時よりも、彼女の体は細くなっている。
「どこへ行っていたの? 心配していたのよ。ずっと帰ってこないから」
リュカは何も言えなかった。喉の奥で何かがせり上がって、ただ彼女の顔を見つめることしかできなかった。
生きている。今も、この世に留まっている。けれど、いつかはその命も消えてしまうだろう。
「すまない、ノエル」
やっとの思いで絞り出した言葉は、雪の中でかすれた。
「……お前の病気を治してやりたかったよ」
リュカは息を飲み、目を閉じた。涙が一筋頬を伝う。
ノエルはその言葉の意味を、少しも理解しなかったはずだ。けれど彼女はふっと笑った。ひどく疲れた顔で、それでも誰より優しい表情で、穏やかに口を動かした。
「私は、あなたの妹に生まれて幸せだった」
ノエルはそっと瞬きした。息を吸い、そしてふと窓ガラスに手を添える。
「十分に幸せだったわ。ありがとう、兄さん」
リュカは何かを叫びたかった。けれど、唇が動かない。彼女の血の匂いが、窓越しにさえ漂う気がしていた。
喉が焼ける。身体が軋む。こんな状態で、近づくことさえ、もはや許されない。
リュカは足を踏み出す。雪を踏む音が、遠ざかってゆく。どこまでも白い闇の中へ、彼はゆっくりと消えていった。
妹を守るために。
人であったものの最後の願いを、まだ自分の中に残っているうちに守るために。




