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願いはひとつ

 あの日聞きそびれた物語の続きを知りたくて、その日わたしは屋敷の裏庭のほうへ回っていった。エミリーが昼の休憩をそこですごしていることを知っていたのだ。

 屋敷の正面から左に行き、レンガの小道を抜け、いばらのアーチを抜けると、古い小さな噴水と、それに背を向ける形で置かれた鉄製のガーデンチェアがあった。

 使用人たちの休憩場所として昔に作られたその場所を、エミリーは屋敷で一番のお気に入りの場所だと話していた。

 小道を抜けて芝生の上を進んでいくと、いばらの向こうに目当ての人影が見えた。エミリーだ。わたしは大きな声で呼びかけようと口を開いた。開いて、エミリーの様子がいつもと違うことに気がついた。

 彼女は少し猫背になりながら、自らの手元をじっと見つめていた。よく目を凝らしてみれば、エミリーは手紙らしきものを持っていた。淡い陽の光が紙に透け、影のなかでインクの文字がかすかに揺れて見える。

 彼女はそれをじっと見つめたまま、動かなかった。呼吸も浅く、瞬きすら忘れているようだった。

 わたしは、思わず立ち止まった。何かを言おうとして、空気の静けさに声をかけるのがためらわれた。

 

「……お嬢さま?」


 立ち尽くすわたしに気がついたエミリーが振り返り、驚いたように目を瞬いた。彼女の指先が、そっと手紙を折りたたんでいく。隠したんだ、とわたしは幼稚にも思った。手紙なんて、自分一人で読むのが当たり前なのに。

 

「ごめんなさい……お邪魔だった?」


「そんなことありません。来てくださって嬉しいです」


 その声の調子がわたしの知らない温度を帯びていて、ほんのわずかに胸がざわめいた。どこか遠くに行ってしまいそうな人の声だった。話したいことがあったはずなのに、口のなかで言葉がゆっくり溶けてしまう。わたしは、彼女の手の中にある便箋を指差した。 

 

「……それ、手紙?」


 すると、エミリーは一瞬だけまなざしを伏せてから、小さくうなずいた。


「ええ。……故郷から届いたんです。もう何年も会っていない幼なじみ。子どものころから、よく一緒に遊んだ人」

 

 そう言いながら、彼女はゆっくりと指先で封筒の縁をなぞった。その所作がとてもていねいで、愛おしむようで、わたしは見つめることしかできなかった。

 

「読んでいたの。何度も、何度も。同じ言葉なのに、読むたびに違って聞こえるから……ふしぎですよね、手紙って」


 わたしは答えられなかった。ただ頷くだけだった。

 彼女が何を感じているのか、すべてはわからなかったけれど、それでも、いま彼女が少しだけ揺れているということだけは、子どものわたしにも分かった。

 そして、この手紙が、わたしの知らない方向へ、エミリーを連れて行ってしまうのだということも——そのとき、はっきりとは気づいていなかったけれど、どこかでわかってしまっていたのだった。

 

「……その人が、家を継ぐことになったんです。家業の小さな雑貨店。ひとりじゃ大変だからって……手伝ってほしいって」


 エミリーは照れくさそうに笑う。手紙を大切に握りしめて、抑えきれない喜びが伝わってくるようだった。

 

「それに、それだけじゃなくて。あの人、私に……夫婦になろうって」


 そのとき、わたしの胸に、ちくりと針を刺すような痛みが走った。けれどそれがなにに由来するものなのか、幼いわたしにはまだ分からなかった。ただ、どうしようもなく冷たい波のようなものが心の岸辺に打ち寄せてくるのを感じていた。誰かがわたしの大切なものを、遠くに連れて行ってしまうのだと思った。

 

「……結婚するの?」

 

 問いかけた自分の声が、思ったよりも冷静で、少し不思議だった。心の中では何かがきゅっと縮こまっていた。

 エミリーはうなずいた。ほのかな紅が頬に差していた。あの歌をそっと口ずさんだ時と同じ、やわらかくて、少し恥ずかしそうな表情だった。

 

「遠くへ行くの?」


 返事を待たず、わたしは続けた。口にした瞬間、心の底にひそめていたものが一気にあふれ出た。震えていた声のせいで、平静を装ったつもりが、返って本心が露わになってしまったような気がした。

 

「お嬢さま」とエミリーが声をあげた。先ほどまでの穏やかな笑みは焦りに変わっていた。わたしの気持ちはもう見透かされてしまって、隠しておけないのだとわかった。

 

「エミリー、わたしを置いていくのね」


 堪えきれなかった涙が、大粒の雫となって溢れた。喜ばしいことだとわかっているのに、心は嫌だと悲鳴をあげている。

 わたしは子どもだった。別れを簡単に受け入れられるほど、わたしは大人じゃなかった。唇をかみしめても、嗚咽は胸の奥からせりあがってきていた。

 エミリーがなにかを言おうとしたけれど、わたしはもう、それ以上聞きたくなかった。聞いてしまえば、すべてが本当になってしまう。ほんとうに、この人が、わたしの世界からいなくなってしまう。気がつけば、わたしはその場から駆け出していた。

 スカートの裾が足に絡み、太陽の光が涙ににじんで揺れた。それでも止まれなかった。走ることでしか、この気持ちから逃れられなかった。胸の奥を冷たい風が吹き抜けていく。まるで心の中の灯がひとつ、ふっと消えてしまったかのようだった。振り返れば、エミリーがどんな顔をしているのか見えてしまう——。だから、振り返らなかった。

 わたしはまだ子どもだった。手放すという愛を、離れるという優しさを、どうしても理解することができなかった。

 

 

 ◆

 

 

 あれから、わたしはエミリーに話しかけられなくなってしまった。顔を合わせないようにしたわけじゃない。廊下ですれ違うときも、身支度をするときも、ピアノの前で手をこまねいているときも、彼女はいつものようにそこにいた。何も変わらないようにふるまっていた。

 朝、着替えを手伝いに部屋にやってきたエミリーに、「おはよう」と言えなかった。わたしは黙って背を向けて、窓の外を見つめていた。エミリーはそれでも、いつも通りに髪を梳いてくれた。指先は変わらず優しかったけれど、わたしにはその優しさがいっそう堪らなかった。

 昼下がり、廊下の向こうから彼女が歩いてくるのが見えたときは、角を曲がって別の階段に逃げた。それを咎める人はいなかったし、エミリーも深追いしなかった。

 わたしは毎日、逃げていた。彼女の声を聞くのが怖かった。彼女の目を見つめるのが怖かった。またいつもみたいにあたたかい手を差し伸べられたら、わたしは何もかもを許してしまいそうだったから。

 

 

 

 廊下の奥で、誰かが花瓶を置いたらしい。陶器が木製の棚に触れる控えめな音が、静まりかえった屋敷の空気をわずかに揺らした。サロンまで届いたその音は、まるで水面に落ちたひとしずくのようにすぐに消えて、あとにはなにも残らなかった。

  わたしは、ピアノの前に座っていた。しかし指は鍵盤の上にない。譜面台にはいつもの練習曲が開かれていたが、楽譜の上の音符たちは、今日のわたしにとってあまりに無意味だった。ただのインクの染みのようで、意味も旋律も持たないまま、ぼんやりと行を埋めていた。

 窓から差し込む光は、まっすぐに絨毯を撫でていた。八月の光のくせに、少しもあたたかくなかった。見かけだけはやさしく、実際には何も届いてこない——まるで大人の笑顔を思わせる光だと嫌味ったらしくわたしは思った。

 控えめなノックの音が響いて、エミリーが部屋に入ってきたことはすぐにわかった。ゆるやかに閉じた扉の音。細くておだやかな耳に馴染んだ足音。

 

「お嬢さま、午後のお茶をお持ちしました」

 

 いつからか、わたしのお茶を運ぶのはエミリーの役割になっていた。あの日もそうだった。わたしたちが、懐かしい音色を通して心をつなげたあの日のこと。

 

「本日のお菓子はお嬢さまのお好きなフルーツのタルトですよ」

 

 わたしが返事をしないのをわかっていて、エミリーはそれでも健気に毎日声をかけ続けた。一度は当てつけのつもりかとも思ったが、エミリーがそんなことをするたちではないのはわたしが一番よくわかっていた。

 

「お嬢さまのために、今日も料理長が腕によりをかけたんです。ほら、今はちょうど桃が旬ですから」


 ……やめて。

 そういうふうに、優しくしないで。

 わたしのほうから話しかけられないの、わかっているでしょう?

 あなたの顔を見たら、また泣いてしまうかもしれないから。

 言いたいことが言えなくて、自分がもっときらいになってしまうから。

 

 それなのに、あなたはただそこにいて、いまもわたしを見守っている。もうすぐ、もうすぐにわたしの前からいなくなってしまうくせに。

 

 動けないまま、わたしはピアノの蓋に映る自分の姿を見つめた。

 そこにはなにひとつ満足にできないまま、ただ座っている子どもの顔があった。口を真一文字に結んで頑なに目をそらしている、弱い、ちいさなわたしだった。

 

 

 

 エミリーの出立が手紙が届いた日からひと月後に決まったのは、風の噂で聞いていた。日々を数えないように意識して生活していたわたしは、あるときメイドたちの控え室の前を通った。開いた扉の隙間からふいに洩れた声が、わたしの耳に触れた。

 

「あと三日だそうよ」

「寂しくなるけど、おめでたいことね」

 

 その瞬間、わたしの心臓はひどく乱暴に跳ねて、思わずその場に立ち止まってしまった。もうすぐ、本当にいなくなってしまうのだ、と。あの人が、エミリーが。いつも変わらずそばにいたあの声も、あの足音も、あの手のぬくもりも、ぜんぶ。

 

 夕方、庭の木陰にひとり座っていた。手には開きかけたままの本を持っていたけれど、文字は何ひとつ目に入ってこなかった。代わりに、胸の奥が水を含んだ綿のように重くなっていた。何をしても、時間は目に見えないまま音も立てずに過ぎていく。まるで、わたしの迷いを急かすように。


 このまま黙ったままなんて、いや。

 

 その思いが、ようやくわたしを立ちあがらせた。長い日々であった。気がつけば、わたしは走りだしていた。

 どこに向かっているのかなんて、考える余地もなかった。脚が勝手に、心のなかの叫びに突き動かされていた。レンガの小道を抜け、いばらのアーチを抜けると、古い噴水のすぐそばにエミリーの姿が見えた。いつもと同じように身なりを整えて、エプロンの端をきちんと結び直している。わたしは足を止めた。今ならまだ、間に合う。言わなければ、きっとこのまま後悔する。言わなければ。言わなければ。そう思っても、口がうまく開かない。


 「エミリー!」


 声が、先に走った。

 振り向いた彼女の目がわたしを見つけた瞬間、なにもかもがふいに音を取り戻した。足音、草のゆれる音、遠くの森で鳥が囀る音——。そして彼女の、あたたかな優しいうたごえ。


「……お嬢さま」


 その声に、わたしは何も言えずにただ駆け寄った。胸の奥で固く結ばれていたものが、ようやくほどけていくのを感じていた。

 わたしは駆け寄ったその勢いのまま、エミリーの前で立ち止まり、そして——ぎゅっと、ぎゅっと抱きついた。腕を回すのが少し遅れたのは、涙がこぼれるのをこらえていたからだった。しかし懸命にこらえていた涙は、彼女の胸に顔を埋めたとたん、堰を切ったようにこぼれ落ちた。

 

「……ごめんなさい……わたし、ずっと、話しかけられなかったの」

 

 言葉は震えて、喉の奥に詰まりそうだった。

 けれど、エミリーは何も言わずに、わたしの背中をそっと抱き返してくれた。あたたかくて、やさしくて、なつかしくて、いとおしいぬくもり。もうすぐ失われてしまうと思うだけで、胸が裂けるほど苦しかった。

 

「寂しいの、すごく、すごく。でも……」

 

 布越しに、心臓の音が伝わってくる。わたしのものとも、エミリーのものともわからなくなったその鼓動が、とめどない涙を連れてくる。言いながら、わたしは顔を上げた。涙で潤んだ視界の中で、エミリーが目元が赤くして微笑んでいた。

 

「エミリーが幸せになるなら……わたし、それが、いちばん嬉しいの」

 

 それは、自分が苦しくても、相手を思う気持ちだった。手放すという愛は、誰かを、本当に大切に思うということだった。

わたしはもう一度、彼女にぎゅっとしがみついた。もう、なにも言えなかった。

しばらくして、エミリーがわたしの頭をそっと撫でながら、言った。


「……続きを、お話ししましょうか。あの物語の、最後の場面を」


 わたしはうなずいた。涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま。

 わたしたちは手をつないで、裏庭の小さなガーデンチェアに並んで腰をおろした。物語の最後のページをめくるように、大切に。やさしい時間の名残を、できる限りそばに引き寄せるように。


「彼女は貴族の地位を捨てて、愛する人と生きることを決めたんです。ドレスを脱いで、ひとりで彼を追いかけて行ったの。山を越えて、町を越えて。涙も流したし、途中で何度もくじけそうになったけれど、それでも諦めませんでした」

 

「そしてね、ようやく彼を見つけたとき、彼は言ったの。『遅かったじゃないか』って。自分から去っていったくせに、おかしいと思いますよね。でもその顔は、ずっとずっと、待っていた人の顔だったんです」

 

 わたしの手を、彼女がそっと握ってくれた。あたたかなぬくもりが、手のひらの奥までしみわたっていく。

 

「それでふたりは、やっと一緒になったの。たとえ遠回りしても、たとえ少し時間がかかっても、大切な人にはまた会える。

 だから……きっと私たちも、またどこかで会えます」

 

 エミリーの瞳がわずかに潤んだ。その目の奥に、たくさんの思い出が浮かんでは、ゆっくりと消えていくのが見えた。お菓子を分け合った日。夜更けにベッドを抜け出して、廊下の片隅で一緒に歌の続きを覚えた夜。暖炉のそばで、くたびれた譜面を広げて、誰にも聞こえないように音を合わせた時間。

 わたしは、ふたたび涙があふれてしまわないように、瞬きを何度も繰り返した。けれど、もう我慢しなくてもいいのだと思った。泣いたって、言葉がつまったって、今日だけは、素直な気持ちを伝えたかった。


「エミリー、あなたはわたしのはじめてのおともだちよ。約束して。いつか、わたしは舞台に立つから、必ず立つから……」


 言葉が詰まる。でも、続けなければ。


「そのときは、ぜったい、見にきて。見つけてほしいの。どこにいても、わたしをちゃんと見つけて……」

 

「もちろんです、お約束します。どんなに広い劇場でも、お嬢さまのことだけは、きっと分かるから……」

 

 今年の夏の陽はとても長くて、わたしはいつまでもこの日が続くのだと思った。

 けれど時の流れは誰にとっても平等で、気がつけば西の空は淡い夕焼けに染まりかけていた。

 すこし肌寒くなった空気のなかで、わたしは彼女のぬくもりを胸におぼえた。

 ひとつの季節が終わる寂しさは、こんなふうに心を締め付けるのだと、わたしはそのとき初めて知った。

 

 三日後の明け方、彼女はわたしのもとを去っていった。灯りの消えたサロンには、もうあの優しい歌声も、ひっそりとした足音もなかった。背筋を伸ばして門を出ていった後ろ姿は、一人の女性として、自分の人生を選び取ったひとの凛とした美しさをまとっていた。

 わたしは、その背中をいつまでも見送っていた。遠く旅立つ船の帆を見つめるように、いつまでも、いつまでも。


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