幕が上がる
稽古が始まる日の朝、私はいつもより早く目を覚ました。緊張に似た落ち着かない気持ちが胸の奥でふつふつと動いていて、そのまま眠りに戻ることもできなかった。
学院にはあらかじめ申請を出してあったから、授業の一部は出演のために免除されることになっている。それを知ったとき、私は思わず感嘆の息を漏らした。
さすがは音楽舞踏学院——。本物の舞台が最良の学びであることを、何より理解している場所なのだと改めて思った。
けれど、そんな感心もつかの間だった。劇場の稽古場に足を踏み入れると私の背筋は自然と伸びていた。
高い天井、磨かれた床、壁一面に張られた大きな鏡。朝の光が斜めに差し込むその場所には、もうすでに何人かの人たちが集まっていた。
談笑しながら身振り手振りで何かを確認している彼らの姿には、舞台人らしい洗練された所作が滲んでいて、私はその場に立っていることすら恐れ多く感じた。
主役を務める方はまだ若いけれど、すでにいくつもの舞台で主演をこなしてこられた方だと聞いている。
その周りにいる面々も同じように、長くこの世界に身を置いているのだろう。皆それぞれに、目の奥に強い芯のようなものがあった。
そんななかで、私は名もない一役として、この輪に加わる。
演出家の方の声で、輪になっての挨拶が始まった。次々に自己紹介がなされるなかで、私の番が来ると何人かが「留学生の」と目を留めてくださった。
特別な関心もなければ、冷ややかな視線もない。ただひとりの演者として迎えてくださったのだと感じて、それがありがたかった。
やがて、全員の挨拶が終わったところで、演出家がひとつ頷き、テーブルの上から一冊の分厚い綴りを持ち上げた。
「今回の題名は——《夜の嘆き》だ」
重みのある声だった。静かだが明瞭で、語尾がきっちりと止められる。その言い回しには、威圧ではないが抗えない種類の迫力があった。
何人かがざわめく気配を見せたが、演出家は続けて机の上に用意された束から、順番にリブレットを手渡していった。
私のもとにも、やがて一冊が届く。少し厚みのある紙に綴じられたそれは、外装に題名だけが金文字で箔押しされており、簡素な装丁でありながら不思議な緊張感を漂わせていた。
私は椅子に座って、表紙にそっと指を添えて開く。
物語の始まりはとある辺境の街。主人公は若き医者のリュカ。彼は妹ノエルを疫病で失いかけていて、あらゆる手を尽くしても打つ手がない。
やがて彼は、古い民間伝承に語られる「万物を癒す秘薬」の存在を知る。永遠の命と若さをもたらすという信じがたい伝説。
秘薬を求めて彼が辿り着いたのは、雪に閉ざされた山奥の古城だった。
その城に住むのは、かつて命を惜しみ、不老の力と引き換えに血を選んだ吸血鬼の伯爵。
命の代償と永遠の影にひそむ孤独。その城に足を踏み入れたときから、物語は急激に温度を変えていく。
私は黙ってページを繰り続けた。指先が紙の端をなぞる音と、呼吸の気配だけが静かに時を刻む。
そして、終幕まで辿り着いたとき、ふと言葉が喉に詰まって出てこなかった。
それは、悲しい物語だった。心の底に鈍痛のようなものが広がっていく。誰もが何かを求め、何かを守ろうとしたはずなのに、そのすべてがほんのわずかに擦れ違い届かない。そういう種類のどうしようもない悲しみだった。
正直に言うとこんな物語だとは思っていなかった。私が夢見てきたのは、観客が笑顔で帰ってゆくような明るく晴れやかな舞台。拍手のなかで幕を閉じたあと、ほんのすこしでも誰かの心が軽くなるような、そんな歌劇。
けれど今回私が主に演じるのは、古城に住む吸血鬼の役。人の命を奪いながら、永遠の生を生き続ける存在。
戸惑いがなかったと言えば嘘になる。けれどそれでも私は、やろうと思った。やってみせようと思った。
この物語が持つ悲しみと、その中にたしかに息づいている祈りを、私の声で、身体で、どこまで伝えられるだろうか。
そう考えたとき、不思議と胸の奥に、かすかにあたたかな灯がともる気がした。
その日の稽古は、舞台の立ち位置や動きを細かく決めるというよりも、まず全体の流れをつかむための読み合わせと歌の確認に充てられていた。
大きなテーブルが部屋の中央に据えられ、その周囲を囲むように出演者たちが並んで座っている。ピアノの傍らには伴奏者と音楽監督が控え、演出家は脚本の束を机に置いたまま、椅子の背にもたれて鋭い目を走らせていた。
リブレットを片手に、俳優たちは歌いながらページをめくり物語の進行を追っていく。主役の俳優は出番も多く、ひと場面が終わるたびに額の汗をぬぐっていた。
演出家は黙ってそれを見つめ、時折鋭く切り込むような言葉を投げる。
「その言葉にお前の選択が滲んでいない。もっと迷え」
「響きは綺麗だが、綺麗なだけでは人は動かせない」
その声がかかるたびに、稽古場の空気がわずかに揺れる。ひとつひとつの指摘が的確で、情け容赦のないものであるからこそ皆が真剣だった。
誰も演出家の視線の先に立つことを恐れ、けれどその中で何かを掴もうとしていた。
私の番が回ってきたのはちょうど物語の中盤、吸血鬼たちが闇の中から登場する場面だった。アンサンブルの一員として私を含めた数名が一斉に立ち上がり、譜面を手に前に出る。
呼吸を整え、心を落ち着けて、一歩を踏み出す。ピアノが低く鳴りはじめ、それに合わせて私たちは旋律を追うように声を重ねていった。
低く、長く、静かに、闇を這うような旋律。歌詞は古い伝承に由来するものらしく、呪文のような不思議な響きを持っていた。
——そのときだった。
「……やめよう」
その声は、ぴしゃりと空気を裂いた。
ピアノの音が止まり、歌声が途切れる。演出家の椅子がわずかに軋んだかと思うと、その視線がまっすぐこちらに注がれた。
「そこの留学生」
はっとして、譜面を持つ手が一瞬ふるえた。何か失礼なことをしただろうか、と思わず背筋が伸びる。周囲の視線もいっせいに集まり、その熱に押されるような感覚に喉が詰まる。
「まず訛りがある」
胸の奥がきゅっと縮むような感覚。声を発したその一瞬が、すべて否定されたように感じてしまう。
「それから声が若すぎる」
言葉に詰まりそうになるのを、どうにか呑み込んで頷いた。
逃げずに聞こうと決めていた。私は姿勢を正したまま、彼の言葉の先を待つ。
「いいか、声質が若いことは悪いことじゃない。むしろ若さがあるのは武器になる。だがお前が演じるのは、何百年も生きた老獪な吸血鬼だ」
言葉の意味はすぐに理解できた。でも、どうすればそれを乗り越えられるのか、私にはまだわからない。
演出家はそれ以上言葉を重ねることなく目を逸らし、次の場面を告げた。まるでそれ以上は自分で考えろ、とでもいうように。
譜面を手に戻りながら、私は自分の喉元に残る声の気配を探した。
いまの声では、彼の求めるものには届かない。どうすれば届くのだろう。
だけどどんなに迷ったとしても、どうしても乗り越えなければならない。私はもうここにいる。選ばれたということは、求められているということなのだから。
それからの日々、私は稽古場に向かうたび、胸の奥に小さな決意を宿していた。
演出家の言葉を頭に残したまま、私は他の出演者たちにこっそりと尋ねてまわった。舞台の合間、休憩中の片隅で、台詞の発音や語尾の癖について質問をすると、何人かは驚いたような顔をしながらも、丁寧に口の動きを見せてくれた。
やがて立ち稽古が始まった。稽古場の中央には仮の舞台として木製の足場が組まれ、場面ごとに位置取りを確認しながら動きをあわせていく。
まだ舞台装置は何もなく、背景も衣装も仮のまま。それでも稽古場には演者たちの熱があった。
何よりも驚いたのは、この演目が歌劇と銘打たれていたにもかかわらず、想像していた以上に舞踏の要素が濃かったことだった。
群舞の多さも動きの複雑さも、そして何より踊りながら歌うことを当然のように求められる構成に、私は初めのうち、ほとんど呆然としていた。
音楽に合わせて踊るだけならまだしも、その上で旋律を保ち感情を込めて声を出し続ける。そんな芸当これまで一度たりとも経験したことがなかった。
稽古を重ねるうちに、身体の内側の筋肉がじわじわと痛み始めた。脚を上げるたび、背筋を保つたびに息が上がる。
それでも毎日踊っていると、少しずつ変化は現れてきた。最初は息が続かなかった箇所で音を保てるようになり、動きながらも声が揺れにくくなっていく。
身体が慣れていくのを感じると同時に、歌も変わってくる。自分でも気づかないうちに、表現の幅がほんのわずかに広がっていた。
稽古は日を増すごとに本格的になり、いよいよ通しでの稽古が始まった。衣裳の一部は仮のものが支給され、場面の流れも細かく調整されていく。
数時間にも及ぶ通し稽古の終盤、ついにあの場面が訪れる。この物語のラストシーン、リュカの慟哭。
演技だとわかっていても、その声に、表情に、わずかな動きに——否応なく胸が締めつけられる。
たった一人の大切な存在のために、何を犠牲にして、何を掴み、そして何を喪ったのか。
舞台の上に立つその人はもはや演じているのではなく、まるでリュカその人の人生を生きているようだった。
照明が落ちると同時に、静寂が訪れた。誰もが息を呑んだまま言葉を失い、その余韻がしばし稽古場を支配した。
私もまた、そこから目を逸らせなかった。あまりにも悲しく、報われない物語。
だけどそれは悲しみだけを残すものではなくて、どうしようもない人の弱さや、届かない願いの切実さ、そして祈るような愛の形が確かに胸に迫ってくる。
これまではこんなに哀しい舞台で、私は何を届けられるのだろう、と戸惑っていた。人を笑顔にしたい、明るい舞台に立ちたい——それが私の夢の始まりだった。
けれど、ふと思う。
笑顔にすることだけが、舞台に立つ理由ではないのかもしれない。
誰かの記憶に残ること。言葉では言い表せない何かを、そっと胸に灯すこと。
哀しみや痛みを描くことで、誰かが自分の気持ちと向き合えるようになること。
この物語もまた、そういう力を持っている。この舞台のひとつの声として、私はちゃんとここに在りたい。
そんなふうに日々を積み重ねていくうちに、ついにその時がやってきた。初日——幕が上がる、本当の舞台の日。
公演期間は一週間。場所は首都でも格式ある劇場のひとつで、ふだんは王侯貴族も足を運ぶという由緒ある建物だった。
その劇場に初めて足を踏み入れたとき、思わず言葉をなくした。
高く伸びる天井、赤と金で彩られた客席、どこまでも奥行きを持つ舞台。まるで夢の中に迷い込んだような眩しさだった。
——本当にここで、私が歌うのだろうか。
舞台袖から客席を眺めると、そこには何百という椅子が整然と並び、明かりに照らされたそのひとつひとつに今夜から人が座るのだと思うと、胸の奥がぎゅっと詰まるようだった。
楽屋に戻ると、劇場の従業員の方が言った。
「チケット、ほとんど完売だそうですよ。やっぱりエクラ・ド・レーヴは強いですね。初日から満席みたいです」
その言葉に、あらためてこの劇団の持つ影響力を思い知らされた。
目の前の鏡のなかで、まだ衣裳に着替えていない自分の顔が少しだけ強張っているのが見える。
これまで幾度となく稽古を重ね、時には悔しさに目を伏せ、たくさんの人に支えられてここまで来た。
何もかもが初めてで戸惑うことばかりだったけれど、それでも一つずつ越えてきたのだと、そう思えば少しずつ呼吸が整っていくのを感じた。
失敗が怖くないわけじゃない。舞台に立つのが不安じゃないわけでもない。それでも今、私はここにいる。
舞台袖に立ち、灯りが落ちるのを待ちながら、心の中で小さく言葉を結ぶ。
——大丈夫。今まで通りにやればいい。自分の声で、物語の一部になろう。
音もなく幕が上がる、その一瞬を待ちながら、私はそっと息を吸った。




