夢の輝き
授業が終わったあと、生徒たちが次々にレッスン室を出ていくなか、私はひとりだけ残っていた。
ピアノの音が止まり、先生の姿も見えなくなったあとの広い鏡張りの部屋は、少し冷えた空気に包まれていた。
午後の光が斜めに差し込み、床に長く影を落とす。私はバーの前に立ち、左右の足を入れ替えながら、アティテュードの姿勢を何度も試していた。けれどどうしてもバランスが取れずに、ふらりと身体が揺れてしまう。焦ると呼吸まで短くなって、余計に軸がぶれてしまうのがわかった。
——このくらいは、きっと出来なくてはいけないのに。
そう思って背中を伸ばし、脚を後ろへ運んだ瞬間、不意に背後から声が飛んできた。
「ほんとに、あんたがヴァロワ夫人の推薦で来たっていう子?」
振り返ると、入り口のところに立っていたのは、授業でもひときわ目立っていた少女だった。
長い手足のしなやかな動きが印象的で、彼女の踊りは、何も知らない私の目にも美しいとわかるほどだった。
「全然大したことないのね。ちょっと期待して損しちゃった」
棘のある言葉だったけれど、私はとっさに言い返す気にもなれなかった。
肩で息をしながら、バーに片手を添えたまま、ゆっくりと片方の足を床に下ろす。
「……ええ。あなたの言う通りよ」
自分でも驚くほど素直な声だった。
胸の奥でじんとするような悔しさはあったけれど、それ以上に、言葉にしてしまったことで少し肩の力が抜けたようにも思えた。
少女の表情がわずかに変わる。意外そうに、ほんのすこし眉を上げて。
「なによそれ。どうして何も言い返さないの?」
私はうなじの汗を拭きながら、ゆっくりと首を振った。
「実際そうだもの。私、バレエは得意じゃないの。小さい頃に少し習っていただけで、それきりだったから……」
もう一度バーに向き直って、アティテュードの姿勢をとってみる。今度はほんの一瞬だけ形になったけれど、やっぱりすぐに軸が揺れてしまって、足を戻すしかなかった。
「あなたは本当に上手ね。今日の授業でもとても綺麗だった。すごいと思ったわ」
あの動きの滑らかさ、脚先から指先まで迷いなく伸びるライン。彼女の所作には目を見張るものがあった。
褒め言葉として、素直に口からこぼれたその言葉に、少女は少し鼻を鳴らすように笑う。
「当たり前でしょう。あたしは王立バレエ団のプリマの娘なのよ」
胸を張るようにそう言われて、私は思わず納得してしまった。
親族が舞台に生きる人ならば、きっと幼い頃からその世界に親しみ、自然とその背中を追ってきたのだろう。
それに加えて、間違いなく並々ならぬ努力もしてきたのだ。そうでなければ、あの完成された動きは生まれない。
「そうなの。すごいわ、本当に。……よければ、あなたの名前を教えてくれる?」
そう尋ねると、彼女はほんの一拍置いてから、腰に手を当てて答えた。
「あたしはミレイユ。……で、あんたは?」
「……私、エリザベートよ」
名乗りながら、私は再びアティテュードの姿勢をとってみた。
けれど気をつけていても、やはり重心が揺れてしまう。ふらりと軸がずれて、慌ててバーに手をついてバランスを取り直した。スカートの裾がかすかに揺れて、私は小さく唇を噛んだ。
そのとき、その様子を見ていたミレイユが、大げさにため息をついて、つかつかとこちらに歩み寄って来た。
「もう見てられないわ。つま先はもう少し外、膝を緩めて、それからお腹、ちゃんと意識して。背中も反りすぎ。重心が後ろに流れてるの」
私は驚きながらも、言われた通りに身体を直してみる。するとさっきまで感じていた不安定さが、ほんの少しだけ和らいだ気がした。
「ありがとう。少し楽になったわ」
「あんたのために言ったんじゃないわよ。こっちが見ててイライラしたの。……でもまあ、飲み込みは悪くないんじゃない?」
ぶっきらぼうな口ぶりだったけれど、どこかその声には、先ほどとは違う温度がある。
私はもう一度だけアティテュードを試みた。形は少しだけ長く持った。ほんの少しだけ。
◆
それからの毎日は、息をつく間もなく過ぎていった。
バレエの授業は依然として難しく、どれだけ努力を重ねても身体が思うようについていかない日もあった。けれどそれでも少しずつ、ほんの少しずつ、以前より動きが馴染んできたのを感じることができた。
ミレイユとは、時折言葉を交わすようになった。彼女の物言いはいつだって遠慮がないけれど、それが不快には感じなかった。
ミレイユは面倒見のいい優しい子だった。あれこれ口では文句を言いながらも、誰よりも早く正確に振付を覚え、苦戦している生徒にはさりげなく手を差し伸べる。
ある日の午後、ミレイユと並んで廊下を歩いていると、掲示板の前で彼女がふと立ち止まった。
見ると、そこには新しく張り出された紙が一枚、掲げられていた。すでに何人かの生徒たちがその前に集まり、ひそひそと声を交わしている。
「……歌劇団の公演の、出演者募集?」
彼女がそうつぶやき、私はその紙を覗き込んだ。
厚手の紙に丁寧な筆致で綴られた文面には、今夏上演予定の舞台に出演するための選考が行われることが記されていた。
驚くべきことに、その公演ではすべての出演者を一般公募から選ぶという。試験の内容は、歌と踊りの実技審査。
「歌劇なのに踊り? 普通、歌手とダンサーは別でしょ」
ミレイユが怪訝そうに眉を寄せる。確かに妙な形式だった。けれどやはり、舞台に立ちたい者にとっては、きっと魅力的な機会なのだろう。
少しだけ、心の奥が波打った。けれどそれはすぐに押しとどめられる。踊りの試験があるのなら、それだけで私は最初の門をくぐる資格さえ持たない。
「……どちらにしても、私には関係のないことね」
その日の夜。アパルトマンに戻ると、郵便受けに一枚の封書が入っていた。封緘に押された印章は、ヴァロワ家のものだった。
いつかと同じように紙は上質で、端がすこしだけ金に縁どられている。息を整えて封を切ると、中から便箋と一緒に一枚の厚紙がすべり落ちた。拾い上げて、思わずその場で立ち尽くす。
それは学院の掲示板で見たばかりの——あの選考会の案内だった。
Éclat de Rêve——夢の輝きと名づけられたその劇団が、次の舞台に向けて出演者を募っているという知らせ。歌と踊りの審査。そして誰もが平等に挑戦できるという条件。
再び視線を便箋に落とすと、そこには丁寧な筆跡で短くこう記されていた。
《この選考会をぜひ受けてください。迷うことなく、あなたの実力を示しなさい》
その一行を目にした瞬間、私は息を止めた。
まるで掲示板の前で立ち尽くしていた自分の姿を、すべて見透かされていたかのようだった。
夫人はいつもそうだった。こちらが言葉を交わす前に、もう先を読んでいるかのように、次の道を指し示してくれる。
あの人は、私がまだ気づけていない可能性を、いつも一歩先に見ていてくださる。
便箋を持ったまま、私は窓辺に歩み寄り、薄暮の空を仰いだ。遠くにかすむ街の輪郭がゆっくりと夜に沈んでいく。
退くことは簡単だ。けれどそれでは何も変わらない。夫人が与えてくださったこの道を、ただできないと言って閉ざしてしまうことは許されない。
私はこの国に、夢の続きを見るために来たのだ。
◆
翌朝、私はまだ人気のない廊下を歩き、迷いなくバレエの教室へと足を運んだ。
扉の向こうではすでに、誰かが柔軟を始めていた。床をすべる足音と、バーレッスンの微かな旋律。私はそっと扉を押して中に入る。
「ミレイユ」
彼女は驚いたように振り向いた。髪をうなじで結い上げ、リボンをきゅっと結んだ後ろ姿は、まるで絵の中のバレリーナのようだった。
「お願いがあるの」
声が震えないように努めて抑えた。ミレイユは顔をしかめるでもなく、じっとこちらを見つめた。
「バレエを教えてほしいの。あなたのようには踊れないけれど、少しでも前に進みたいの」
その瞬間、教室の中の空気がすっと変わった気がした。言葉の代わりに、ミレイユはひとつ息をつき、ゆっくりと片方の足を前に出す。
「……言っておくけど、あたしは厳しいわよ」
「構わないわ。むしろ厳しくしてほしいの」
そう言い終わると同時に、ミレイユの口元がわずかに緩んだ気がした。
それから、私たち二人の特別な時間が始まった。
授業の終わったあとの静かな教室に残って、基礎からやり直す。
姿勢、重心、足の運び方、指先の角度——ミレイユは迷いなく指導してくれた。声はきっぱりとしていたけれど、何度も見本を見せてくれて、できるまでつきあってくれた。
私の動きを見て、ミレイユはときどき頷き、ときに呆れたような顔で首を振る。けれど投げ出しそうになると、黙って前に立ってくれた。
背筋が筋を違えたように痛む日もあったし、うまく動けずに悔しさを飲み込むこともあった。ミレイユは妥協を許さなかったし、何度やってもできない私の動きに苛立ちを覚えることもあったけれど、彼女はいつも当たり前のような顔でそこにいてくれた。
そうして、幾日もの練習を積み重ねた末に、ついに選考会の日がやってきた。
朝の光はまだ頼りなく、街は目覚めかけたばかりだった。けれど私の胸の内は、すでに熱を帯びて静かに燃えていた。
劇場の裏手に設けられた集合場所には、すでに数えきれないほどの人が集まっていた。
様々な顔ぶれがあり、どの人も自分の夢の輪郭をはっきりと胸に抱いているのだと、その背中が物語っていた。押し黙った廊下には靴音だけが行き交い、時折交わされる低い挨拶も、張りつめた空気の中にかすかに溶け込んでいた。
審査はまず歌から始まった。舞台袖で名前を呼ばれ、歩み出るその一歩に、思わず息を止める。しかし足を踏み出した瞬間から、胸の奥で何かが灯るのを感じた。
——これが、今の私にできるすべて。
声を張るのではなく、届けることを意識して、一音一音を心で抱きかかえるように歌った。歌いながら、あの冬祭りの舞台で歌った日のことを思い出していた。あの時、背中を押してくれた人の顔も。
歌い終わったあと、舞台を降りるときの足取りは、先ほどよりも確かだった。
その次が舞踏の審査だった。
広い鏡張りの稽古場に数名ずつ呼ばれ、その場で提示された振付を覚えてすぐに踊る。やり直しは許されない。たった一度きりの時間を、与えられた音楽のなかで、自分のものとして表現するしかない。
身体は練習の疲労が残っていて、正直に言えば重たかった。けれど退く理由にはならなかった。
ミレイユと重ねた練習を思い出して、頭の中で何度も動きを確認しながら、私は懸命に足を運んだ。腕を伸ばす角度、顔のつけ方、指先に宿す意思。
ひとつひとつが、頭ではわかっていても、身体が追いつかない瞬間がある。バランスを崩した瞬間に、心もぐらつきそうになる。でも、やめなかった。
この日のために、ここまで来た。この場に立つことができた、それだけでも奇跡のようなものだ。けれど、奇跡にすがるためにここまで来たのではない。
望むなら、戦わなくてはならない。与えられた舞台で、出し惜しみのない今日を生きること。それが私にできる唯一の誠実さだった。
◆
それから数週間が過ぎた。その朝、いつもよりも少し早く目が覚めた。
窓の外では、小鳥たちが囀っていて、空は淡い霧に包まれていた。なぜか胸がざわついて、何かを待っているような、あるいは思い出しかけた夢の続きを追っているような気分だった。
学院へ向かうために身支度を整え、扉に手をかけかけたところで、ふと足を止めて郵便受けを覗いた。
そこに、一通の封筒が差し込まれていた。封に記された文字を見た瞬間、鼓動が一度大きく跳ねて、胸の奥でひっそりと揺れた。
あの劇団の名——エクラ・ド・レーヴ。
震える手で封を切る。丁寧に折られた便箋の文面に、視線を走らせた。
——合格。
役名のある配役ではなかった。けれど、たしかにそこには私の名前が記されていた。エクラ・ド・レーヴ、あの歌劇団に、ひとりの出演者として。私の歌と踊りが、この国の舞台に通じたのだ。
足元がふわりと浮いたような心地がして、私は走り出していた。靴音が石畳に弾み、息が切れるほど駆け抜けて、学院の玄関をくぐる。階段を上がり、いつもの教室の扉を開け放つ。
「ミレイユ!」
中にいたミレイユが、驚いたようにこちらを振り返る。私はそのまま彼女のもとに駆け寄り、通知書を差し出した。
「見て。受かったの」
ミレイユは半信半疑といった面持ちで便箋を受け取り、目を走らせてから、ぽかんと口を開けた。
「……まさか、あんたが?」
言葉は率直で無遠慮な響きを帯びていたけれど、それがかえって彼女らしく、私には少しだけ可笑しかった。
何よりそこに含まれていたのは揶揄ではなく、純粋な驚きとにじむような喜びだった。
ミレイユはすぐにふっと唇を緩めて、紙を私に返しながらぽんと軽く背中を叩いた。
「よかったじゃない。あんた、ほんとによく頑張ったわよ」
言葉に詰まりそうになって、私はただ、何度も頷いた。
厳しい言葉の裏にある彼女の優しさは、毎日の練習の中で何度も見てきた。
くじけそうな時にもそばに立ってくれたこと、ひとつひとつの動きを何度でも教えてくれたこと。あの時間がなければ、今この通知書は手の中にない。
扉を叩いたのは自分だった。けれど、その扉の向こうで、手を伸ばしてくれる人がいた。だから私はこうして一歩、また一歩と進んでいける。
「ありがとう。あなたがいたから、ここまで来られたのよ」
そう呟くと、ミレイユは少しだけ視線をそらして「ふん」と鼻を鳴らした。その仕草がなんだか照れ隠しのようで、私は彼女と顔を見合わせて、小さく笑った。




