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春風の序曲

 ヴァロワ夫人への返書は、何度も書き直してようやく形になったものだった。綴った言葉が礼に欠けていないか、誤解を招くような響きになっていないか、読み返すたびに不安になってしまい、封をするまでに丸三日かかった。

 緊張で手が冷たくなるほどだったけれど、それでも、便箋を重ねて封蝋を押したときのあの手応えは、たぶん、生涯忘れることはないと思う。

 返事が届いたのは、それから十日ほどしてのことだった。夫人直筆の手紙は、流れるような筆跡で、けれど不思議な温かさのある文字で綴られていた。


 ——貴女の才能をさらに磨いていただけるよう、音楽舞踏学院に私の名で推薦をいたしました。


 手紙の終わりにそう書かれているのを見たとき、私は息を止めた。

 心のどこかで、本当に許されたのだろうかという疑いがまだ消えずにいたけれど、その一文がすべてを確かにした。

 言葉というのは不思議なもので、それが綴られたというただ一点によって、迷いは次第に形を失い、確かな現実として心の中に降りてくる。


 その日を境に、私は冬のあいだのすべてを留学の支度に費やすことになった。


「向こうは夏が長いのよ。あちらの空気に合うように作っていただきましょう」


 母はそう言って、王都でも評判のモード商を何度も家に招いた。

 淡いライラックのドレス、裾に小さくレースの花を散らした朝の装い、風にふわりと揺れる薄手のマント、それに日差しの強さを気遣って、つばの広い帽子やボンネットまで、いくつも仕立ててくれた。

 色や布地を選ぶ手つきは相変わらずきびきびしていたけれど、それでもどこか柔らかな眼差しが添えられるようになっていた。


 仕立て屋から仮縫いのための衣装が届けられるたびに、母はそれを受け取りながら、今度は淡く笑って言うのだった。「あなたに似合うわね」と。

 そんな言葉は聞いたことがなかったから、私は戸惑いながらも、言葉の背中にそっと触れるような気持ちで、ありがとうと答えていた。


 兄もまた、昔よりずっと近くに感じられるようになっていた。


 年が明け、冬の間に何度か帰省するたびに、兄は私の部屋に立ち寄っては、紅茶を飲みながらあれこれと他愛ない話をしていった。

 軍での出来事や、同僚とのやりとりや、かつて私が知らなかった彼の過ごした時間のこと。何でもない昔話まで、覚えているかと笑って話してくれた。

 たぶん兄のほうも、何を話せばよいのか手探りだったのだろうと思う。

 けれどそうやって言葉を交わしていくうちに、私たちはいつのまにか、あの頃の、庭で並んで花を摘んでいた子ども時代のように、少しずつ呼吸の仕方を思い出していった。


 父は、相変わらず多くを語らなかった。


 けれど、私が何度か書き直した願書にサインを求めたときも、ただ静かに目を通し、少し間をおいて筆を取った。

 厳しい顔つきのままだったけれど、私の手元に書類を返すとき、かすかにうなずいていたのを私は見た。言葉はなくとも、それでもはっきりと伝わる何かがあった。


 留学が決まったことを、私はクララに手紙で伝えた。返事はほどなく届いた。さらさらとした筆跡のまま、彼女らしい言葉で綴られていた。


 ——ご報告を受けて、とても驚きました。けれどあなたならば、きっとすばらしいことを成し遂げるでしょう。


 そんな書き出しに続いて、クララ自身の近況もいくつか記されていた。

 今は花嫁修行の真っ只中だそうで、午前は礼儀作法と刺繍、午後は社交とお茶の稽古に追われているという。面白くもなんともないでしょう、というような軽い調子だったが、文の端々は柔らかかった。


 ——先日、婚約者の方にお目にかかりました。初めての顔合わせで少し緊張しましたけれど、とても穏やかな方でした。両親が仰ったように、この人ならば、と思えました。


 そこまで読んで、私は自然と微笑んでいた。


 学院にいた頃には、もう戻れない。あの頃のように、クララと放課後の回廊で肩を並べて笑ったり、試験を前に胸を騒がせたりといった日々は、もう先の時間にはない。

 けれど、それがさびしいというわけではなかった。クララも私も、今いる場所で、それなりに穏やかな日々を見つけている。

 あの頃と同じではいられないけれど、それぞれに今ある幸せを見つけているのだ。


 クララの手紙を読み終えて、しばらくのあいだ、私は何もせずにその便箋を膝の上に置いたまま、指先で折り目の柔らかさを撫でていた。

 学院を去ってからも、変わらず手紙をくれる彼女のことを思いながら、今はもう会えなくなってしまった人のことを考えていた。


 アルフレートとは、結局あの日から会えないままだった。


 留学が許されたからといって、すべてが自由になったわけではない。そういうことは、ちゃんとわかっている。


 たとえ出歩く理由があったとしても、それが彼に会うためのものであるかぎり、許されるはずがなかった。学院にも行けず、手紙を出すことすら叶わない。

 伝える手段はすべて閉ざされたまま、冬がゆっくりと日を削り、春がいくぶん名残惜しげに近づいてきていた。


 アルフレートはもう、私のことなどとうに忘れて、日々を穏やかに過ごしているのかもしれない。もしそうだとしても、咎めるつもりはなかった。


 それでも、どれだけ時間がかかったとしても、いつかどうしても伝えたいと思っていることがある。


 思って、私は文机の引き出しに目を落とした。中には、きちんと揃えられた便箋と封筒が重ねてある。


 届けることはできないと、最初からわかっている。誰に託すこともできない手紙だ。

 それでも、書いておきたい。書こうと思った。たとえ永遠に読まれることがないとしても、今の私が今の気持ちのままで言葉を綴ることは、決して無駄ではないと信じたかった。


 引き出しに手をかけると、金具の冷たさが指先にひたりと張りつく。

 冬も終わりが近いといえど、部屋の空気はひやりとしていて、静けさが背中を押すとも引きとめるともつかぬままにそこにあった。

 小さな音を立てて引き出しを開くと、母が見繕ってくれた新しい封筒と便箋が揃っていた。白地に薄い水色の縁取りがほどこされていて、表面に手を滑らせると、上質な紙であることがわかる。


 私はそのうちの一枚をそっと取り出した。左手で端を押さえて、筆を執る。書き出しの言葉を何度も胸の中で繰り返す。

 この気持ちが、もうどこにも届かないとしても、それでもいい。


 ——アルフレートへ。


 この手紙があなたに届く日は、きっと、もう少し先のことになるのでしょう。

 あるいは、ずっと届かないまま、心の中で読み上げるだけの言葉として終わるのかもしれません。

 でも、それでもいいのです。ただ、どうしても記しておきたかったのです。


 あの日、あなたがくれた言葉が、どれほど私を支えてくれたかということを。


 自分のために未来を選んでもいいのだと、初めて思わせてくれたのが、あなたでした。私は、あなたがいたから変わることができました。


 冬祭りの舞台に立ったあの日のことも、並んで歩いた裏庭の小径も、今でも目を閉じれば、すぐに思い出すことができます。日差しのにおいも、風の音も、どこかで笑い声がしたことも。


 私はいま、遠くの国へ旅立とうとしています。すべては、あのときの約束の続きです。ひとつ、前へ進むための。


 それがどんな道であっても、私はもう迷いません。きっと強く歩いていけます。


 そしてもしも、またあなたに会える日が来たなら。


 そのとき私は、ほんの少しでも誇れる自分でいられたらと願っています。

 あなたが背中を押してくれたから、ここまで来られたのだと、胸を張って伝えられるように。あなたに出会えてよかったと、そう言えるように。

 

 私は、この先に何があっても、あなたを忘れません。


 ——エリザベートより。



 ◆



「それでは、行ってまいります」


 旅立ちの朝は、不思議なくらい晴れていた。

 前夜はなかなか眠れず、枕に頬を伏せたまま耳を澄ましていたけれど、気づけば少しだけ眠ってしまっていたらしい。夢を見たような気がするけれど、目が覚めると、その輪郭はどこかへ滲んでいた。

 空は冬の名残をわずかに残した淡い青で、庭の木々は冷たい朝日を受けてゆっくりとその影を引いている。朝露がまだ残る芝の上に、召使いたちの足音が規則正しく続いていた。


 旅装は母の用意してくれた新しいもので、季節を先取りしたような涼しげな淡い黄色のデイドレスだった。袖は肩口にふんわりと膨らんだパフスリーブで、袖口には繊細な綿レースが飾られている。

 頭にはボンネットをかぶっていた。上品な生成り色の帽体に、幅広のレースリボンが左右から流れており、その先は顎下で結ばれている。


 私は玄関の石段の上に立っていて、正面に母と兄の姿があった。

 母は朝の空気に似た落ち着いた表情で、手袋をはめた手を小さく重ねている。兄はその隣に何も言わず立っていた。いつもと変わらぬ姿勢で、けれど少しだけ肩の力が抜けているようにも見える。


 ふと母が私の顎の下へと手を伸ばし、ことさら言葉を挟むこともなく、結ばれたボンネットのリボンをほんの少しだけ引き締めた。

 私は、小さく頷いて「ありがとう」と声にする。母は何も言わずに、けれどやわらかく頷いて、そっと目元を細めた。


 階段を降りた先には、すでに馬車が一台待っていた。銀の飾り縁が施された立派な旅用の車で、ヴァロワ夫人が使者を通じて手配してくださったものだった。

 黒馬のたてがみが風に揺れていて、御者は手綱をたるませたまま、黙って控えている。

 ちょうどそのとき、召使いたちが帽子に手を添え、ひとつ礼をして馬車の後方へ下がった。最後のトランクが荷台に納められたのを見届けて、私はそっと視線をその大きな革張りの箱に向ける。


 あの中には、母が選んだ日用品や、兄が手渡してくれた本のほかに、小さな一封の手紙が忍ばせてある。封をして、宛名を書いて、誰にも見つからないように、綺麗なドレスの間に挟むようにして仕舞った。

 アルフレートの手に渡ることはないけれど、お守りとして持っていこう。あの手紙に綴った思いが、これからの長い日々の中で、私の迷いを照らしてくれるように。


 馬車に乗り込むと、御者が軽く手綱を鳴らす音がして、ゆっくりと軋みながら動き出す。車輪が石畳を転がるたびに振動が足元から伝わってきた。 

 私は窓の縁に手をかけて振り返る。小さな揺れとともに、人々の姿が次第に遠ざかってゆくのが見えた。

 石段の上、兄が手を振っていた。姿勢を正したまま、いつもの少し不器用な仕草で。私はそれに応えて、小さくなっていく兄の姿が見えなくなるまで、何度も手を振り返した。


 隣国——ルシェーヌまでの道は長い。その先では、ヴァロワ夫人の推薦により、向こうの音楽舞踏学院に通わせていただけることになっている。

 音楽舞踏学院からそう遠くない場所にある市内のアパルトマンの一室を、夫人が手配してくださった。そこが、留学のあいだ私の暮らしの場となる。

 見知らぬ街で、見知らぬ言葉が飛び交う部屋に、ひとり、鞄をほどくのだ。窓の外にはどんな通りが広がっているのだろう。どんな人々が、どんな声で笑い、どんなふうに日々を過ごしているのだろう。

 言葉も、文化も違う土地。右も左もわからないまま飛び込んでいくには少し勇気がいる。


 私は馬車の窓に額を寄せて、遠ざかる国の景色を見送った。生まれ育った家も、エーレ学院も、あの日交わした言葉も、今はもうずっと後ろにある。

 でも、私はきっと大丈夫。

 これは誰かに言われて選んだ道ではない。母の願いでもなく、父の意志でもなく、誰かの夢をなぞるのでもない。

 自分で選びとった人生を後悔はしない。私の人生を歩むのは、この私だけなのだから。胸に燃えるこの決意を失わない限り、私は、どこへでも行ける気がした。

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