私の選ぶ道
封を切り開き、紙が音を立ててめくれるとき、まるで長い間閉ざされていた窓が開くような気がした。私は指先で慎重に便箋を引き出し、そっと折り目をほどく。
兄が黙って、燭台をもうひとつ近くに寄せる。蝋燭の明かりが揺れながら紙面に落ち、流麗な筆跡があらわになった。目で追った文字は、最初の一文からして、私の胸をじわりと打った。
———あなたのオペラに、私は心から感動しました。
まっすぐにそう綴られている。続く文は、どれも真摯だった。
——ノルトハルデンでは、あなたが持つ才能の輝きは埋もれてしまうでしょう。けれど私の祖国ならば、あなたは真に自由な芸術家として息をし、魂のままに歌い、生きることができる。
言葉の端々に滲む情熱と敬意に、思わず私は息を止める。手紙を握る手に、ふいに力がこもった。私のオペラが、私の舞台が、あの歌が、あの役が、遠い隣国の貴族にまで届いていた。
——芸術が息づくこの国で才能を競い、あなたの魂にふさわしい舞台を見つけてください。あなたが望むのなら、私が責任を持ってその道を支えます。
手紙の末尾には、あの名があった。ガブリエル・ド・ヴァロワ。
私はそっと視線を落としたまま、手紙を胸元に引き寄せた。誰かに捧げるような、あるいは自分を抱きしめるような仕草で、指をそっと紙に添える。
言葉にならない。
うれしい、という一言では足りなかった。誇らしいというにも軽すぎた。
胸の奥に湧き上がる熱が、涙になって喉までせり上がってくる。私はただ静かに目を伏せて、手紙をそっと胸に押し当てた。
これは偶然ではない。運でもない。私の歌が届いたのだ。たしかに、誰かの心を動かしたのだ。それも、はるか遠い国に生きる人の、厚意ある言葉を引き出すほどに。
何かが確かに変わり始めていた。今、私が手にしているのはただの紙切れではなく、私の芸術が認められたという証だった。名門の名を冠した一通の手紙が、それを揺るぎなく証明してくれている。
視線を手紙からゆっくりと上げて、兄の顔を見た。兄は目の奥に小さな驚きを宿したまま、こちらの様子をじっと見守っていた。
どうしよう。そう言いかけて、けれど私は口をつぐんだ。
この一枚の封書が示しているのは、私の人生の分かれ道だった。
それはけして大げさな言葉ではなく、本当にそうなのだと思った。今この瞬間、手を伸ばせば掴めるのかもしれない未来。
そしてそれはきっと、自分で選び取らなければ意味がない。どんなに愛のある忠告であっても、誰かの意思に従っていてはいけないのだ。
けれど、ほんとうに行けるのだろうか。見知らぬ国の言葉、文化、風土。誰も知る人のいない場所で、私は一人で生きてゆけるのか。名前も、地位も、出自も、何の保証にもならない舞台の世界で。
……それに、この道を選んだとして、両親がそれを許すとは限らない。
手紙のことを伝えたら、私の声に耳を貸す前に、封筒ごと暖炉に放り込まれてしまうかもしれない。ほんとうに一歩を踏み出すことができるのかと、自分に問いかけてしまう。
この手紙だけを携えて、何もかもを捨て去るの?
——アルフレートのことも。
あの人のことを思うと、心が揺れる。私は、アルフレートのことを諦めて生きることなんて、到底できやしない。
手放す覚悟なんてものはいつまで経とうとできるはずがないのに、目の前には扉が開かれている。
封を裂いてしまった時点で、もう何も知らなかった昨日には戻れない。
この手紙が導くものが未来であるならば、それがどれほど未知で、どれほど不確かであっても、いま選ばなければ、二度とこの扉は開かない気がした。
この屋敷に残れば、いずれは両親の望む相手と結婚させられる。今はまだ自分自身の行き先を選ぶことができるけれど、時が経てば、それすら許されなくなる。
だから、今決めなければならないのだと思った。そうでなければ、選ぶ自由を持っていたはずのこの瞬間を、いつか思い出しては悔やむことになる。
「……お父様と、お母様に、話をするわ」
口にした瞬間、胸の奥で何かがひとつ、確かに決まった気がした。
声は震えていたかもしれない。それでも、言葉は後戻りしなかった。
私は、逃げたいのではない。自分の足で歩いてゆきたいのだ。
たとえどんなに反対されたとしても、私は私のために話をする。無力な子どもではないと証明するために。夢を捨てずに生きるために。
次の瞬間、そっと肩に兄の手が添えられた。励ますように、そして支えるように、指先に力を込めるでもなく、ただそこに在ることだけで心を押してくれるような手だった。
「お前ならできる、エリザベート」
私は寝台に手を添えて、膝の上に載せていた手紙を持ったまま立ち上がった。
足元の絨毯を踏みしめて、一歩、そしてもう一歩と、扉の方へと向かう。
暗い部屋の中、微かに開いていた扉の隙間から漏れる光が、細い帯のように床に伸びていた。夜の屋敷の静けさの中で、その光は不思議なほど明るく思える。
階段を下り、廊下を抜け、明かりの灯った居間へ向かう。扉の向こうから、人の気配がした。母と父、ふたり揃っているのだとすぐにわかった。
手の中の手紙が少し湿っているのは、緊張で手のひらが汗ばんでいるせいだった。
お兄様が扉を開けてくれる。呼吸を整えながら、一歩中へと足を踏み入れる。広い居間には、暖炉に火が灯されていた。
「失礼いたします。お父様、お母様」
母は肘掛け椅子に座り、刺繍の針を持っていたが、私の姿を見るなり手を止めて顔を上げる。
父は書きかけの文書に目を落としていたが、すぐにその視線を私に向けた。ふたりとも、驚いたような表情を浮かべていた。私がここへ来るとは思っていなかったのだろう。
私はまっすぐに部屋の中央まで歩を進め、手にしていた封筒を胸の前に掲げるようにして差し出した。
「この手紙をご覧になっていただけますか」
声は震えなかった。少なくとも、私の耳にはそう聞こえた。
父は一瞬こちらを見返してから、静かに腰を上げた。居間の灯りがわずかに揺れ、影が床に伸びる。
母はその傍らから身を乗り出すようにして、手紙を覗き込む。その目が封緘の赤い蝋と筆跡を捉えた刹那、ふたりの顔色がほぼ同時に変わった。
「……これはなんの冗談だ、エリザベート」
父の声は低く押し殺されていたが、すぐに怒気が混じる。それでも私は一歩も退かなかった。手紙を手にした父が目を細める。
母は椅子の背から手を放し、膝の上で静かに指を組んだまま、俯いて何も言わない。その肩がわずかに揺れて見えたが、それが感情によるものなのか、ただの身じろぎなのかは分からなかった。
「ヴァロワ家の方からの、正式な留学のご提案です。私のオペラをご覧になった方がいらしたそうです」
父が眉を顰めた。母はなおも視線を伏せたまま、黙していた。
「どうか、行かせていただけませんか。私の持つすべてを捧げて、もう一歩だけ、先へ進みたいのです」
はっきりとした響きが部屋の空気を震わせる。たった一つの願いを乗せて、私は真正面から両親に向き合おうとしていた。何を失っても、この想いを伝えずに終わらせるわけにはいかない。
しかし、父の顔が曇るのにそれほど時間はかからなかった。厳しく引き締められた口元が、次の瞬間には怒りをにじませて開かれる。
「自分の浅慮が招いた結果を忘れたのか。家の名を背負っていることを、どうしても弁えられぬのだな、お前は」
言葉の端々に滲んだ苛立ちや失望が、目に見えぬ重さとなって私の肩へとのしかかってくる。
だけど俯こうとは思わない。胸のうちに湧き上がる痛みを押し殺しながら、唇を噛みしめ、足元を踏みしめるようにしてその場に立ち尽くす。
そのときだった。沈黙のあいだに、背後から足音がひとつ近づいてきて、ぴたりと私のすぐ後ろに止まった。
「どうか、エリザベートの意思を尊重してやっていただけませんか」
静かな声が、私のすぐ後ろから届いた。兄だった。支えるようにすぐ傍に立つ兄の声はどこまでも落ち着いていて、かといって冷静さだけが際立つのでもない。
「妹を認めたのは、あのヴァロワ家の方です。しかも、手ずから筆を執って書簡を託してくださった。どれほどの名誉か、父上ならご理解いただけるはずです」
父の眉がぴくりと動いた。言い返す声はなかった。母はずっと、顔を上げていない。けれど、膝の上の手がきゅっと組まれたのを私は見ていた。
部屋の空気があまりにも張り詰めていて、息をすることも苦しい。
私はそれでも、目を伏せずにいた。父が、兄が、そして私自身が、互いにまるで知らなかった顔を、今この場で初めて見ているような気がする。
私は震える喉を押し開いて、もう一度言葉を紡ぐ。
「もうこれは、ただの夢ではありません。空想でもありません。私の歌に価値を見出してくださった方がいた。私はきっと、何かを変えられます」
言いながら、どんなに思いを尽くしても、両親の心を揺さぶるには足りないのかもしれない、という考えがひたひたと忍び寄った。
いや、そうであっても、今の私はきっともう引き返さないのだろう。この瞬間、私の人生の分かれ道がたしかに目の前に現れている。
父はしばらく何も言わず、手元の手紙を読み終えてなお、目で追うように見つめている。だけどその沈黙は同意の予兆ではなかった。ふと視線を上げた父の目には、変わらず冷ややかな色があった。
「お前が何を望もうと、我々にはそれぞれに果たすべき務めというものがある。身分には責任があり、選ぶべき道もまた限られている」
こちらの言葉を否定するというより、最初から論外として切り捨てる口調だった。父は静かに立ち上がり、手紙を手の中で折りたたみながら、重ねるように語る。
「お前に相応しい縁談を整えるのが、私の務めだ。それに従うのが、娘であるお前の務めだ」
怒鳴られたわけでもないのに、拒まれたことは明らかだった。父の中に積み重ねられてきた理と、私が差し出したものとのあいだには、あまりにも深くて大きな隔たりがある。
それでも、退いてはならないと思った。たとえこの想いがどれだけ無謀に見えたとしても、手放してしまえば、もう二度と自分の力で何かを選ぶことができなくなる。
そのときだった。うつむいていた母が、ふいに小さく息を吸う音を立てた。誰もが次の言葉を待っていたわけではないのに、その音は不思議と全員の耳を引いた。父もまた、言葉を継ごうとしていたはずなのに、そこで動きを止めた。
「……この子のためを思うなら」
囁くように、しかし明らかな響きをもって、母は言った。
「私は、閉じ込めておくべきではなかったと思います」
一瞬、言葉の意味がつかめなかった。
まるで聞き慣れない外国語でも耳にしたかのように、私の中でその一文が空中に浮かんだまま、着地する場所を見失っていた。
閉じ込めておくべきではなかった、と。今、母が、そう言った。
それは確かにそう聞こえた。けれどそんなことを母が口にするなんて、そんな可能性を私は一度も考えたことがない。
母はそっと顔を上げ、私を見る。その眼差しに責める色はなかった。
父は口をつぐみ、ただその場に立ったまま、ゆっくりと視線を落とす。読み返すでもなく、手にした手紙を見つめている。やがて、目を伏せたまま低くつぶやいた。
「……あまりに急な話だ」
父の声は怒気もなく、戸惑いを押し隠すような低さで部屋に落ちる。しかしそのわずかな言葉の奥に、押し寄せる思考の波が見て取れた。
「……家の名に恥じるようなことは、決していたしません」
思いのほか落ち着いた声が、自分の口から零れたのを不思議に感じた。
今ここにあるのは、ゆるぎない拒絶ではない。怒りを超えて、その先に生じた一瞬の迷い。ほんのわずかな揺らぎ。それが今このとき、父の中にある。
「この身を賭して、必ずいい報せをお届けいたします」
今を逃せば、もう二度と同じことは言えない。伝えられない。
たとえこの先、何を失っても後悔しないと自分に誓えるのは、いまこの瞬間だけだと、本能のように分かっていた。
ここで退いてはならなかった。夢のためでも、誇りのためでもなく、その両方を引き受けて立てる居場所が、やっと見つかったのだ。
やがて、ようやく父がわずかに顔を上げた。目元に深い影を落としたまま、こちらを見据える。
そのまなざしに、威圧や怒りの色はなかった。父の中で、何かが秤にかけられているのだとわかった。
「……これは、一時の気の迷いではないな?」
言葉は問いの形をしていたけれど、否定の余地はなかった。
私が立っている場所が、もう戻れない場所なのだと、父はもう気づいている。だから最後に、そこに立つ覚悟があるのかを見ている。
今ここで、私が言葉を濁せば、それきりこの話は潰えるのだろう。家の名に泥を塗ることのないようにと、守るべき秩序の名のもとに。
「はい。私は覚悟を持って、ここにいます」
父は目を伏せたまま、すぐには応えなかった。何かを考えているふうでもあったし、考えるよりも先に、もう答えが出てしまっていることを受け止めきれないようにも見えた。
目の前の重たい扉が、ゆっくりと軋みを立てて開いていくような気がした。まだ鍵が外れたわけではない。それでも、ここまで積み重ねてきた時間と、言葉と、思いのすべてが、少しずつその重さを動かしてくれている。
ここまで来られたのは、自分の力だけじゃない。私を支えてくれた人たちがいる。いまこの瞬間も、私を信じてくれている人がいる。
そして何より、扉の向こうが見えてきたのは、アルフレートのくれた勇気が、まだ私の背中を押してくれているからだ。
やがて、長く思われた沈黙の末に、父はほんのわずかに頷いた。
「……わかった。許可しよう」
その言葉が口をついて出るまでに、どれほどの逡巡があったのかはわからない。
けれど、それでも父ははっきりと頷いた。重たいまぶたを持ち上げて、まっすぐに私を見た。
それまで張りつめていたものが、音もなくほどけていくのを感じる。
私は言葉を失っていた。ありがとうも、嬉しいも、なにひとつ、出てこなかった。ただ胸がいっぱいで、今この時を、どうやって自分の中にしまっておけばいいのか、そればかりを考えていた。
私はたしかに今、歩き出そうとしている。もう後ろには戻らない。
これから進んでいく先に何があるのかはわからないけれど、少なくともこの先に続くのは、私が選んだ道なのだ。




