命燃やす炎
夜が更け、屋敷のすべての灯りが落ちたのを見届けてから、私はゆっくりと立ち上がった。時計の針はもうとっくに日の境界を越えている。
重く閉ざされた扉の内側に息をひそめるこの部屋で、私はずっとその時を待っていた。誰にも気づかれず、誰にも制されない、ただ自分の意志だけで立ち上がるその瞬間を。
風に触れてもなるべく音を立てぬよう、ゆっくりと窓を押し開ける。ぎい、と軋む音がしたときには、鼓動が一段と早くなったが、それ以上に夜の静けさが背を押した。
あの窓の外に、私の選びたい未来がある。私はその未来へ向かって、今、足を踏み出す。
結び合わせておいたシーツをしっかりと窓の欄干に結びつけ、窓辺に立ち、ふたたび部屋の中を振り返る。
私が育ってきた場所。何もかもが整えられ、与えられてきた部屋。美しいドレッサーも、飾り棚も、複数の色を持つリボンの山も、すべては私を縛るためのものだったのだと、今ならわかる。
窓枠に手をかけ、体を乗り出す。夜気が顔を撫で、呼吸が細くなる。足元の高さに身がすくむが、それでも目を開いて、ゆっくりと体を降ろした。シーツがきしむ音すら、この夜の静寂にはよく響いた。
足が地に触れた瞬間、私はまるで長い夢から醒めたような気がした。ひんやりと湿った草の感触が、確かに現実のものとして足元を伝ってくる。
足音ひとつ立てぬよう息を詰めながら、夜の庭を慎重に進む。月の光に照らされた芝生が白く光を返して広がっていた。
それを見渡すことも、立ち止まることもなく、ドレスの裾を片手に握りしめて、足を速めた。駆け出したその瞬間から、胸の内で燻っていたものが勢いよく燃え上がるように、鼓動が早鐘のように鳴り響く。
低く茂った植え込みをかすかにかき分け、息を殺して鉄の塀の前に立つ。両手をかけ、つま先で蹴って体を引き上げる。誰にも教わらなかったはずなのに、なぜか迷いなく身体が動いた。とっさにスカートの裾を引き寄せ、慎重に脚を送る。鉄柵の上で一瞬だけ息を止め、向こう側へと身を投げた。
着地の衝撃が体に響くけれど、痛みを確かめている時間などない。顔を上げると、夜の坂が眼下に長く続いている。あの坂を下れば、そこには街がある。
胸に腕を抱え、足元を確かめながら、私は坂道を駆け下りた。ドレスの裾が風を孕み、髪がほどけて顔にかかる。肺が熱を帯び、喉がひりついても、足は止まらない。王都の中心地はもうすぐだ。眠らない街には、辻馬車の灯がある。
ようやく街の明かりが視界に滲みはじめた頃には、息は荒く、喉は乾き、脚はすでに痺れに似た痛みを訴えていた。けれど足取りを止めることはできなかった。
夜中の王都は、人通りこそ昼よりはまばらとはいえ、まったく静まりかえっているわけではない。辻馬車の影が石畳の上にゆっくりと揺れながら伸びていた。
私はその一台に目をとめて、ふらつく足をどうにか前に運んだ。御者がちょうど馬の頭を軽く撫でていたところだった。彼は私に気づくと、顔をしかめて身を乗り出す。
「……お嬢さん?」
訝しげな声に、私は一瞬足を止めた。その顔には、どこか見覚えがある。そうだ——夏季休暇の初め、こっそり屋敷を抜け出すために呼んだ、あの御者だった。まさかこんな夜更けに、再び顔を合わせることになるなんて。
「こんなところで……何をしていらっしゃるんです、まさか……」
言葉が終わらないうちに、私は腰紐に結んでいた小さな袋に手を伸ばし、飾りを取り出して差し出した。月明かりの下で、金と瑪瑙の細工が鈍く光る。
「……お願いです。これと引き換えに私を——何も聞かずに、エーレ学院まで連れて行っていただけませんか」
問いを拒み、声を震わせる暇も惜しむように言ったその一言に、御者は一瞬目を見開いた。けれどやがて、その顔に浮かんだ驚きも疑念も、ゆっくりと収束してゆき、重々しく頷いた。
「……わかりました」
それだけの言葉に、私はわずかに息を吐いた。無言のまま扉が開かれる。よろける脚を押さえつけながら乗り込み、戸を閉めたとき、ようやく背中から汗が伝うのを感じた。
◆
学院の敷地に足を踏み入れたとき、まだ空は淡い青を抱えたまま、東にだけうっすらと朱が差しはじめていた。
石畳はまだ冷たく、木々の葉が朝露を弾く音すら鮮明に響く。馬車が止まり戸を開けた瞬間、木々のあいだから小鳥のさえずりが低く響きはじめ、朝の匂いが空気の中に満ちていく。
頬にあたる風は一段と冷たく、けれどその感触に私は、ようやく戻ってきたのだという実感を得た。
長い夜だった。何もかもを捨てる覚悟を固め、屋敷を抜け出し、未知の道を駆けてきた。靴の底には泥がつき、呼吸はまだほんの少し乱れている。それでも私は、今ここにいる。陽の昇るこの学院に、自分の意志で立っている。
きっと今ごろ、屋敷では私がいないことに気がついているだろう。侍女たちが部屋を覗き、窓辺に垂れ下がるシーツを見て、事の重大さを悟る。その報せはすぐに父母のもとへ届き、追手がかかる。
逃げられるとは思わない。けれど、まだ時間はある。私をこの広い王都の中から見つけ出すには、幾つもの段階が必要だ。まっすぐここに来たということさえ、今はまだ知られていないはず。焦らず、でも一刻も早く、彼に会わなければならない。
アルフレートは、学院のどこかにいる。この朝のどこかで目を覚まし、私の知らない日常を始めようとしている。その日常の中に、私はもういないと——彼は、そう思っているはずだ。
人目を避けられる場所は限られている。アルフレートが身支度を終え、外に出てくるまでのあいだ、どこかに身を隠して待つしかない。
朝の光はまだ低く、木々の影が敷石に長くのびていた。濡れた葉の香りが鼻をくすぐるたび、胸の奥の焦りがすこしだけ静まってゆく。
私は足音を殺しながら校舎の裏手へと回り込んだ。朝の陽を受けてきらきらと光る露が、背の高い草の先に宝石のように宿り、小鳥たちがいっせいにさえずり始めていた。
赤い花を咲かせる低木が垣根のように連なり、その合間を縫うように、細い道が続いている。
ふいに、風が梢を揺らした。葉擦れの音が、まだ静まり返る学院の建物に柔らかく響き、私はその音に包まれながら、朝露に濡れる芝の上をそっと歩き続けた。
そして、角を曲がったそのときだった。木々の間から、ふと視界の先に白いものが見えた。
ガゼボ——白い木製の小さな東屋が、花に囲まれて佇んでいる。朝露を浴びて淡く光る蔓薔薇が、その外縁をやわらかく包んでいた。
——その中に、ひとりの人影があった。
思わず、足が止まった。
風がそよぎ、蔓が揺れる。
その間に見えた横顔は、忘れもしないあの面差し。長身の姿はやや背を丸めて、膝の上に肘を置いてうつむいていた。
まだ朝の冷えが残る空気の中で、彼はひとり、何かを待つように座っていた。黙って、誰のためとも知れない静寂の中に身を置いて。
言葉が、心の中に滲む。名前を呼びたくて、喉の奥に力を込めたはずなのに、声は出なかった。
ずっと探していたというのに、どれほどその名を胸の内で呼び続けてきたことだろうと思うのに、いざこうして目の前にしてしまうと、言葉はひどく遠い場所へ押し流されてしまった。
息だけが浅く鳴って、ただ涙だけが、どうしてもこらえきれずに頬を伝って零れ落ちた。
アルフレート。
どれだけの夜を、彼の名前を呼ぶことなく過ごしただろう。どれだけの朝を、目覚めては後悔と諦めに覆われた心で迎えたことだろう。
それでも私は、自分で選んで、迷いを振り切って、怖れを押しのけて、ここまで来た。
誰にも背を押されず、誰の許しもなく、それでも私自身の意思で、この朝に辿り着いたのだ。
朝の光が道を照らしてくれた。どこへ行けばいいのかわからなかった私に、差し出された一筋の光。その先にあなたがいてくれたことが、たまらなく、こわいほど嬉しかった。
しばらくして、彼がふと顔を上げた。まるで何かの気配を感じ取ったかのように、ゆっくりと振り返る。
視線が重なった。確かに、そこにいた。
「……エリザベート?」
夢の中でも何度も聞いた声だった。夜ごと耳の奥に蘇っていたあの呼びかけが今、現実の風に乗って私の名を包んだ。
私は一歩彼の方へ踏み出す。全身の震えをそのまま抱きしめるように、胸に手を当てながらようやくの思いで口を開いた。
「……わたし、あなたに会いにきたのよ」
震える身体を無理に押さえつけて、私は一歩、また一歩と彼の方へ踏み出した。
まるで全身が細い糸でつながれているように、ままならない気持ちを抱きしめるように、胸に手を当ててゆっくりと息を吸い込む。
あの長い夜を越え、冷え切った時間を越え、ここに辿り着いた自分を確かめるように。
閉ざされた屋敷の中で、窓から差し込む光を頼りにして読んだ本の頁にあなたと語り合った言葉の記憶を重ねた。自由を失った日々の中で、あなたと歩んだ季節を何度も思い返した。
手放せないの。手放したくないの。あなたがまだ手を離さずにいてくれるなら、その手を今度こそ、しっかりと握り返したいの——。
けれど、その瞬間だった。目を見開き、驚きと戸惑いを隠せなかった彼の表情がふいに変わった。
何か言葉にならない違和感がアルフレートの瞳に宿り、そのままゆっくりと冷えた影が顔を覆う。
そのとき彼は静かに、しかし確かな意思をもって、右手をゆっくりと差し出した。手のひらは私の方へ向けられ、言葉に代わるようにその場で私を制した。
その動きは決して荒々しくはなく、むしろ凛としていて優しいのに、確かな抑制の力が宿っていた。彼の指先がふっと開かれ、触れられるか触れられないかの距離で私を留める。
「……アルフレート?」
私はその手と彼の瞳を交互に見つめる。何が起きているのかを、必死に理解しようとしていた。
目の前にいるのは、ずっと会いたかった人だった。声を聞きたくて、手を伸ばしたくて、名前を呼びたくて、それでも何ひとつ叶わなかった日々をくぐり抜けて、ようやく辿り着いたたったひとりの人。
それなのになぜ彼は、私のこの想いをいま拒もうとしているのか。何が彼の中で揺れているのか、言葉にはならないまま、その深い瞳の奥に引き込まれていく。
「僕はもう、君のそばにはいられないよ」
アルフレートの言葉はゆっくりと空気を切り裂いて、私の胸の奥へと深く静かに沈んでいった。
風が止まったわけではないのに、音がすべて遠ざかっていくように感じられた。鳥のさえずりも、梢をわたる葉擦れの音も、露をふくんだ草の香りも、すべてが現実から切り離されたように思えた。
何を言われているのか、すぐには理解できない。耳で言葉を聞いていても、それが意味を持つまでに、どうしようもなく時間がかかった。
「君はローゼンハイネ家の娘だ、エリザベート」
その名を呼ばれた瞬間、背筋に冷たいものが這いのぼる。世界の輪郭がかすかに歪んで、ひどく遠い場所へ突き放されたようにも思えた。
彼のまなざしが、私の背後にある何かを見ていた。血筋や身分、家名や体面。
まさかそれが、私たちの間にある壁の正体だと、この人は私に突きつけているのだろうか。
「僕の想いひとつで、その名前を貶めることはできないんだ」
声は低く、けれど硬く、もう揺るがないものとして私の前に差し出された。拒絶というより、決別だった。
貶める、という言葉を、私は頭の中で何度も反芻する。そのたびに胸の内がざらざらと削られるようで、息がうまくできなかった。
どうして、そんなことを言うのよ。今ここに立っているのは、ただの私なのに。
声に出したつもりだったのに、唇がかすかに動いただけで、空気の震えにもならなかった。喉がこわばってしまって、息だけが胸の中でうるさくぶつかる。
アルフレートは私を見ていた。
まっすぐ見ているのに、目の奥だけが冷たくて、それがつらかった。
「分かってくれ。……君の未来を守りたいよ」
守るって、何から。誰から。あなたは私を、何者だと思っているの。言葉は追いつかない。体の力が次第に薄れて、その場に立ち尽くす。
「……わたしの未来って、なに?」
ようやくの思いで問いかける。掠れた声だった。でも、問いかける瞳だけは必死に彼を捉えた。
誰かの娘であることも、背負わされた身分も、未来の嫁ぎ先も、みんな、私が私である前に決まっている。あなたはそんな場所に、私を帰そうとしている。
まるで、あなたのもとに私を留めることが、なにかとても悪いことのように。私の名前があなたといることで貶められるなんて、私は考えたこともなかったのに。
彼は少しだけ眉を寄せた。けれど答えない。私の問いに、彼自身がまだ応えを持っていないのか、それとももう、言葉を交わすことすら惜しいのか、わからなかった。
「私が望む未来は、あなたと一緒にいることよ」
喉の奥に詰まった言葉は、指先まで冷たくなってゆく感覚に押し込められてしまう。彼の目はまだこちらを見ているのに、どこか遠くを見ているようでもあった。心を燃やし尽くした灰だけが残っているかのように、彼の目は何も語らなかった。
「……分かって。無理だよ、これ以上は」
私は瞬きも忘れて、アルフレートを見つめた。けれど、彼の瞳はもう私をうつしてはいなかった。まっすぐ前を向き、何も言わずにその場から歩き出す。東屋の縁を離れ、小道へと背を向ける。
歩幅は変わらず、振り返りもしない。まるで後ろに未練はないと言うように、足取りはためらいのないものだった。
「まってよ、ねえ。私はまだ、諦められないの」
私は声を張った。けれど風も空気も、彼の耳に私の声を届けようとはしてくれなかった。その背中は遠ざかるばかりで、私が踏み出すたびにいっそう遠くへ離れていく。
「私のそばで、私の夢を守ってくれるって、あなたはそう言ったじゃない!」
彼は何を見ているのだろう。何を考えているの。私の言葉は、もう彼には届かないところにあるのだろうか。
答えはない。振り返ってくれることもない。その背中は、ただ静かに遠ざかっていく。草を踏む音すら消えていき、やがて彼の姿は、朝の光にまぎれて見えなくなった。
その場にひとり残された私は、ようやく足を止める。手を伸ばしても、もう届かないことを知っていた。
風が吹いた。蔓薔薇が揺れる。白い花がひとひら、私の肩先に落ちる。
呆然と立ち尽くしたままの私の瞳が、空の澄んだ青をうつした。白い雲がゆるやかに流れている。あんなふうに、自由に、どこへでも行けたらよかったのに。
先の知ることのできない暗闇の中で、私は何度もアルフレートの言葉を思い返していた。見えない明日を信じて歩くには、希望という名の灯がどうしても必要だった。
私は、私の望まない未来なんかよりも、嘲られ、罵られ、閉ざされてなおも胸の奥で消えずに燃えているこの灯を、あなたに守ってもらいたかった。命を燃やす炎が風に吹かれて消えそうになったとき、他でもないあなたのその手で、そっと庇ってほしかった。




