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籠の鳥のようには


 それからの日々、私は屋敷の中で一切の外出を禁じられた。窓の外を眺めることはできたが、扉の向こうに広がる世界とは隔てられている。廊下を渡る足音も、玄関の扉が軋む音も、どれも私には手の届かないもののように思われた。


 与えられたのは、決められた時間に訪れる家庭教師たちと、彼女らが持ち込む淑女教育の授業だった。家庭教師は日替わりでやって来て、品の良い声色で「ご機嫌よう」と挨拶をし、そして私を“正しく”矯正するべく語り始める。


 内容は毎度似たり寄ったりだった。「女性は慎ましくあるべき」「言葉は選び、態度には品を」「夫に恥をかかせぬよう常に従順に」「過剰な自己主張は家庭の平穏を損ねる」

 話題を変えるように、あるときは食卓のマナーについて、あるときは来客の迎え方について語られたが、その根底にある思想はどれも同じだった。

 すなわち貴族の令嬢とは、親の決めた縁談に従い、その後は夫の影に身をひそめ、家庭の中で美しく無害にふるまう者であるべきだという考えである。

 私はうなずきながら、それでも心の中で何度もその言葉を拒絶した。そんなものを身につけるために、私はエーレ学院に通っていたのではない。


 本を読むことだけは許されていた。けれど、それも選ばれたものに限られている。手元に届くのは、昔ながらの教訓譚や、貞淑な令嬢の成長を謳った物語ばかり。

 美徳とは従順であること、幸せとは良き結婚に尽きること——ページをめくるたびに、そんな考えを刷り込もうとする文章が、音もなく私の気力を削っていく。

 それでも私は本を読んだ。嘲笑するような気持ちを抱えながらも、紙の感触とインクの匂いに、何かを保ち続けている気がした。

 自分という輪郭を誰にも塗り替えさせないために、与えられた書物の行間にさえ、ほんのわずかに自由の影を見出そうとしていた。


 朝も昼も、夕べも夜も、変わらぬ日々が繰り返された。次第に時間の感覚は薄れ、心のどこかに水面の薄氷のような冷たい膜が張り始める。それでも、胸の奥のあの火だけは、絶やしてはならなかった。




 そうしているうちのある日、変わらぬ夜更けの空気の中、ふと不意に音が耳をかすめた。

 最初はただの空耳かと思った。けれど、それは確かに人の声——ふたつの声が交互に混ざり合う、会話のような響きだった。


 私は頁をめくる手を止め、顔を上げてあたりを見渡した。部屋はいつも通り静かで、扉もぴたりと閉じられている。こんな奥まった部屋まで、廊下を隔てた部屋の音が届くはずはない。けれど、確かに聞こえる。くぐもった声が、とぎれとぎれに、空気の波に乗って胸を打つ。


 私はそっと椅子を引いて立ち上がり、足音を忍ばせて窓辺へ近づいた。レースのカーテンを指先で押しやると、窓の鍵がわずかに緩んでいるのに気づいた。

 まさかと思いながら、私は窓の留め具を外し、ごくわずかに隙間を開く。するとその刹那、確かに声がはっきりと耳に届いた。

 私は反射的に息を呑む。外庭を挟んだ向こう側、応接間の窓が半ば開いていた。

 そこからこぼれ出る言葉が、夜の風に乗って私の部屋の窓辺まで届いていたのだった。


「……エーレ学院に入れたのは間違いだった。一時の自由に身の程を忘れた結果がこれよ」


 風が頬を撫でる。その風に、母の声が乗っていた。空気のひと揺れごとに、応接間の声がさざ波のように届く。


「自由にさせておけば、何を仕出かすかわからん。やはり早いうちに釘を刺しておくべきだったな」


 次いで、低くくぐもった父の声が聞こえた。感情を抑えた、ひどく冷めた響きだった。息を詰めたまま、私はそっと窓辺に身を寄せる。


「もう十六になるのよ。そろそろ縁談をまとめてしまえばいいわ。身をもって、自分の立場というものを知らせるのが一番です」


 母の声には、もはや情というものは残されていなかった。損得と体裁とを天秤にかけた末の無機質な結論。縁談という言葉はこれまで何度も耳にしてきたのに、今この瞬間ほど、それが現実のものとして迫ってきたことはなかった。


「……あの跳ね返りが、それでおとなしくなるとは思えん。それに、あの平民の男も——」


 だがそれ以上に、続いた父の言葉が、胸の奥をぐらりと揺らす。

 声の続きは風に紛れた。けれどその断片的な響きだけで、私の血の気を引かせるには充分だった。胸がひどく早鐘を打って、思わず窓枠を握りしめた指が硬く軋んだ。


 まさか、アルフレートに何かしたの?

 

 思考がそこにたどり着いた瞬間、ひときわ鋭い痛みのようなものが胸を突いた。もしも、もしもあの人に何かがあったとしたら。私のせいで——。


「……金貨百枚は破格だったわ。あの青年、なぜ受け取らなかったの?」


 浅くなる呼吸に胸を抑えていたその時、夜風と共に届いた一言に、私は心臓を掴まれたような感覚に襲われた。


 ——金貨百枚?


 それがどれほどの価値を持つかは、わかっていた。

 それが、彼と私の関係を断ち切るための代償として差し出されたのだと気づくまでにも、そう時間はかからなかった。


 相手を遠ざけ、黙らせるための値段。私の名を、記憶を、未来を手放させるための取引。一瞬、信じられないという思いが胸をよぎった。けれど、それもすぐに現実に押し流される。

 父と母なら、あり得る。そう思ってしまった自分に、私はひどく冷めた気持ちで気がついた。

 たった一人の青年に金貨百枚を積んで、すべてを黙って忘れろと告げることなど、あの人たちにとっては当然の措置にすぎないのだ。


「まったく馬鹿げている。金はいらない、娘にももう二度と関わらないと言ったそうだ」


 父の、呆れとも怒りともつかぬ低い声が風に混じって聞こえて、私の喉の奥に鋭い何かが刺さる。口元を押さえるように手を添えて、震えそうになる唇を、夜の静けさの中に押し留める。

 彼と私のあいだに交わされたあの言葉も、ふいに交差したまなざしも、無かったことにされようとしている。彼らの掌の上で、対価と引き換えに闇の中へと。けれど。けれど、それなのに。


 アルフレートが、断った?

 

 信じられないという気持ちと、そうであってほしいという切実な願いとが、同時に胸の中で衝突した。父母の言葉をどこまで信じていいのか分からない。けれど、もしそれが事実だとしたら——。


「言葉だけで信用しろというの? 裏があると考える方が妥当よ」


 続く言葉に、声にならない感情が喉までせり上がった。

 賢いあの人が、手切れ金を受け取らないという選択がもたらす結果を、理解できなかったはずがない。

 受け取れば、すべては終わる。私との関わりは清算され、もう誰も彼を責めることはなくなる。傷つかずに済む、安全な場所へと身を引くことができたはずだったのに。


 なのに、彼は首を横に振った。その意味を考えるほど、胸の奥で言いようのない熱がこみ上げてくる。まるで理性と感情がせめぎ合うように、思考の輪郭が揺らぐ。


 私と関わらないというのなら、金貨を受け取ればよかった。誰も責めやしない。むしろ賢明だと褒め称え、潔い選択だと評価したはず。

 自分が何を断ったのか、その代償がどれほど重いか、彼はわかっていた。きっと、わかっていたはず。


 それなのに、どうして手放さないの。私たちの間にあったものを、どうして手放さずにいてくれるの。


 もしかして、あなたも、まだ諦めていないの?


 その瞬間、胸の奥で微かに燃えていた火が、風に煽られるように息を吹き返した。

 窓の向こうの夜風に乗って届いたたった一つの真実が、蝋燭を継ぐように私のなかの希望を灯し直す。


 私には夢がある。すべてを捧げてでも、成し得たいことが。


 どれほど理不尽に引き裂かれようと、家や身分の都合に組み敷かれようと、心に刻まれたその存在だけは、消そうとすればするほど深く沈み、抗えば抗うほど確かさを増していく。

 だから私は思う。あの時、金貨を断ったアルフレートの中にも、そんな痛みと迷いと、それでも捨てきれない願いが残っていたのではないかと。

 あの人はまだ、諦めていないのだ。まだ、私の手を離さずにいてくれている。


 静寂に包まれた部屋の中で、私は立ち上がった。

 思考よりも先に身体が動いていた。胸の奥からせり上がる熱が、もはや留まることを許さなかった。窓の枠にそっと指をかけて、夜の帳が降りた庭を見下ろす。


 アルフレートに会いたい。


 あの人の瞳をまっすぐに見て、言葉を交わしたい。心を確かめたい。私の声で伝えたいのだ。まだ終わってなどいないと、私の心は今もあなたのそばにあるのだと。

 たとえ何が待ち受けていようと、もう二度と、何も言えずに引き裂かれるだけの娘でいるつもりはないと。


 私は部屋を見回し、衣装棚の奥から古びたリネンのシーツを数枚取り出した。指先がかすかに震えたが、もう迷いはなかった。

 それらを一枚一枚手早く結び、即席の綱を作っていく。窓の桟を確かめ、隙間から風の匂いを吸い込む。夜の空気は冷たく、それでいて不思議なほど心を落ち着かせた。


 伯爵家の娘に生まれ、すべてを与えられて、たくさんのものを奪われ生きてきた。

 自由という名を知る前に、義務という名の冠を頭に載せられて、迷う余地もないほど丁寧に敷かれた道の上を、両親の決めた歩幅でつま先を汚すこともなく歩くよう育てられてきた。

 それは決して幸運などではなく、むしろ自分で何かを選び取る自由を最初から剥ぎ取られた人生だったのだと、私はようやく言葉にできるようになったのだ。


 衣装棚の奥深くに指を差し入れると、幼少期に母が選び抜いた髪飾りや胸元のブローチ、繊細な細工の施された耳飾りが、まだ絹の袋に包まれたまま眠っていた。

 それらをひとつひとつ選び、小さな袋に詰めていく。輝きの強いものより、質のよい石があしらわれているものを。

 手際は速かった。逡巡はあったはずなのに、指先は迷わず動いていた。袋の口をしっかりと結わえ、下着の上から結んだ腰紐に固く括りつける。

 思えば、何もかも置いてきてしまったのだ。残されたのはこの身一つだけ。だからせめて、これらの飾りがあれば——路銀に換えれば、学院まで辿り着くための足にはなる。


 時の流れに身を委ねて、与えられた役割をただ黙って受け入れるような生きていくのは嫌。お行儀よく従順に、私じゃない誰かの期待に沿って生きるのは嫌。

 私は私自身として、この人生を選びたい。この声で、意志を語りたい。この足で、道を選びたい。

 誰かの人形として微笑む人生より、自分の意思で選んだ道に涙を流す人生を生きたいのだ。


 決行は夜更け。誰もが眠りにつき、廊下に灯りが落ちてから。

 幸いにもこの部屋は、朝になるまで鍵を外から開ける者はいない。扉の向こうの足音も、夜の間はぴたりと絶える。

 静まり返った屋敷に、私はゆっくりと息を吐いた。深く、音を立てずに。

 この一夜を越えた先に何が待っているのかはわからない。けれど、何もせずに朝を迎えることだけはもうできそうにない。


 籠の中の鳥のようには生きてはいけない。

 たとえ道の先にどんな非難が待ち受けていようと私は、餌を与えられ、飾られた羽を褒めそやされながらも、飛ぶことを禁じられ、鳴くことすら許されないままの、空虚な存在にはなれないのだ。

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