いばらの棘
「よくもまあ、あんなことを仕出かしてくれたわね。恥を知りなさい、エリザベート」
叩きつけられた声は冷たく乾いて、響いたあともしばらく部屋の空気を刺していた。
私は応接間のソファに座らされたまま、何も言えずにうつむいていた。壁紙の模様が目に映るのに、何ひとつも頭に入ってこない。握りしめた膝の上の手が、自分のものではないように感覚が薄れていた。
——終わった。すべてが、終わったのだ。
どうして知られてしまったのか、その経緯まではわからなかった。けれど、逃げも隠れもできないということだけは、母の口調と瞳の色で、すぐに悟った。
シュトラウス夫人のもとで演じたオペラ。あの夢のような舞台。もう二度とないと思えるほどの輝き。私はすべての時間を注ぎ、悩み、作り上げた。でも、たとえそこにどれほどの情熱が込められていようとも、令嬢のやるべきことではないと断じられてしまえば、私の元にはもう何も残らないのだ。
母はソファの向かいに座り、吐き捨てるように言う。
「あなたの作ったその歌劇とやらは、社交界で話題になっているわ。“新しい” “面白い”などと浮かれて持ち上げる声もあるけれど、すべてが好意的ではないのよ」
声の調子は、怒りよりも冷酷さに満ちていた。皮膚のすぐ下を氷の刃がすっと走るような、冷ややかで容赦のない響きだった。
「由緒正しきオペラを弄んだと、あれを“恥知らずの悪ふざけ”と呼ぶ人もいる。名も明かさずに身を隠していた、などと噂が立てば、好奇心は憶測を呼ぶだけ。結局、あなたの正体は突き止められたの」
私はじっと座ったまま、背筋を正しているふりをして、内側ではぐらぐらと揺れる心を押しとどめていた。耳鳴りがして、母の声が遠くなる。けれど、その内容だけはしっかりと胸に突き刺さったまま離れない。
「わかるでしょう。あなたの軽率さが家の名に泥を塗ったのよ」
母の口調は、もう哀れみも怒りも超えていた。ただ厳格な責務の代弁者として、私という存在を断罪することだけに意味を見出しているように感じられた。
私は視線を伏せ、細く指を組んだままうなだれる。肩の力は自然と抜けていた。否定も反論も浮かばず、ただ、何もかもが終わってしまったという思いだけが心を満たしていく。
——でも。
静かな沈黙の底で、ふと、小さな記憶が呼び起こされる。あの夜、舞台の幕が下りた直後に響いた拍手。言葉もなく、ただ心からの熱に突き動かされたあの音。
誰が演じ、誰が書き、誰が仕掛けたのか。疑念は噂を呼び、やがて名は明るみに出た。
けれど、全てが嘲りと怒りに変わってしまったわけではない。あの歌劇を“新しい”と、“面白い”と、心から賞賛してくれた人々がいた。私は、その拍手の重さを忘れてはいけない。
誰かの顔も知らないまま届いた、あたたかな言葉のひとつひとつが、私にとっての灯だった。顔を上げることも声を張ることもできない今の私を、ただその記憶だけが支えている。
無意味ではなかった。誰かに届いた。私は確かに何かを残せた。理解されなかったことよりも、確かに理解してくれた誰かがいたことの方が、私には大切だった。
だが、そこまで思い至ったところで、母の唇がふたたび動く気配がする。今度の声には、先ほどのような冷ややかな皮肉はなかった。しかし静かな分だけ、なおさら逃げ場がない。
「……それと」
短くそう告げて、母は小さく息を継いだ。その視線が鋭くなるのを、私は空気の質で感じ取った。頭を上げることはできなかったが、つぎの言葉が何であるか思考を巡らせる。
「あなたがあの平民の男と親しくしていたことも、すでに調べはついています」
その瞬間、空気が肺に入らなくなった。心臓がひとつ強く跳ね、そのあとで凍りつくように動きを鈍らせた。
「アルフレート・ヴァイス。……平民と関わる必要はないと、二年前にはっきり申し上げたわね」
私は両膝の上で強く指を握りしめた。爪が手のひらに食い込んで痛む。けれど、その痛みだけが今、自分が現実にいることを知らせてくれていた。
この数週間、私が学院で呑気に過ごしている間に。その間にも、世の中は音もなく、すべてを暴いていたのだ。私がかたくなに守っていたつもりのものなど、とうに誰かの手に落ちていた。
何を言えばいいのかもわからず、ただ彼の名だけが胸の中で何度も反響する。
アルフレート。
名を出された彼は今、どうしているのだろう。噂に巻き込まれ、非難にさらされてはいないだろうか。身分を理由に、彼がもし貴族社会の矢面に立たされているとしたら——。
目の奥に熱いものが浮かび、喉の奥に冷たい氷が落ちたような気がした。連れ戻されたことよりも、自分のせいで彼を巻き込んでしまった事実のほうが、ずっと重く苦しかった。
「正直におっしゃい。あなたは、あの青年と、どういった関係にあるの?」
母の声がもう一度、落ち着き払った口調で響いた。問いかけは容赦のない審問のようだった。言葉を選べば命は長らえ、誤ればすべてが断たれる。
私は言葉を失ったまま、ひとつ呼吸を深く吸い込んだ。何を答えるべきかではなく、何を守りたいのかを、今こそ自分に問わなければならなかった。
「……彼は、単なる知人です」
ゆっくりと口を開きながらも、唇の端がひとりでに震えそうになるのを抑えた。正面を見据える母の眼差しから逃げずに、けれど視線の奥では、懸命に言葉を探していた。
「私が親しくしていたのは……勉強を見ていただいていたからです。それだけです」
私は視線を逸らさず、まっすぐ前を見つめた。逃げるように目を伏せてしまえば、たちまち何もかもを否定されてしまうような気がした。
何が正しく、何が許されるのか、そんな問いではもうどうにもならない。守るべきものは名誉ではなく、彼だった。
母の眉が、わずかに吊り上がる。怒声は飛ばなかったが、その目の奥にひやりとしたものが走った。まるで、底に横たわる怒りと軽蔑のようなものが、際立って現れたように。
「そんな話を誰が信じるの?」
母の言葉は、刃物のような鋭さで胸の奥を断ち切った。問いという形をとりながらも、その響きには最初から結論が含まれている。
嘘を見破られたのかとも思ったが、その冷淡な断定に、私の言葉を信じる気など初めからなかったのだとすぐに気がついた。
「はっきり言いなさい。あなたは、清いままなの?」
一拍の間のあと、母の声は乾いて静かだった。迷いなく突きつけられた言葉の意味を、私はすぐに理解できない。
「……清い?」
意味の輪郭がつかめず、わずかに眉を寄せる。その一瞬を見逃さずに、母はさらに深く、声を低めて言い放った。
「あの男と、どこまで関係を持ったのかと聞いているのよ」
今度こそ、呼吸が止まった。世界のすべての音が、いっせいに遠ざかったように思えた。ついで、鼓動が強く脈打って、胸の内をかき乱す。
血の気が一瞬で引き、しかしすぐに顔に熱が昇る。恥辱、困惑、恐怖、屈辱——すべてが一度に押し寄せてきた。
言葉にならない。どうして疑われなければならないのか、どうしてこんなことを問われなければならないのか、その理不尽さに身体の奥がわななきそうだった。
喉の奥が焼けつくように乾いていた。けれど、それでも答えなければならなかった。この場で私が曖昧な言葉をひとつでも漏らせば、アルフレートの名は取り返しのつかない形で傷つく。
あの人の善意に私の心が応えてしまったことは事実だったが、何も交わしてはいない。何一つ——そう、何もなかった。
「何もありません」
喉の奥からようやくにじむように出た声は、小さくとも空気を震わせるほどの強さがあった。
「彼は、勉強を助けてくださっただけです。それ以上のことは、何一つありません」
私はただ、目の前の母の姿を見つめた。この人の中に、娘を信じようとする気持ちは、もうどこにも残されていないのだろうか。その身を痛めて産んだはずの我が子に向けられた眼差しは、疑いと、嫌悪と、厳しい評価だけを浮かべていた。
「……もう結構よ」
乾いた声だった。嘲るような響きではないが、信じたわけでもない。真実を問うためではなく、私の動揺を見届けるためだけに放たれた一言だった。
「平民の男と、夜ごと会っていたという噂も立っている。……世間はあなたが思うほど、寛容ではないのよ」
母の声に、わずかな哀れみが混ざったような気がした。私は両手を膝の上で組み直し、深くひとつ息を吸い込む。
怯えてはいけない、と自分に言い聞かせる。揺らいではいけない。もし私がここで沈黙すれば、あの人までが蔑まれる。無言は肯定になってしまう。沈黙は、誤解の形を取って相手の名誉を汚してしまう。
怯えていては、誰も守れない。自分自身すら、守り抜けない。
「それが事実ではないと、私は誇りをもって申し上げています」
今度の声は、震えなかった。私の中にあるすべてを、言葉の輪郭に封じ込めて、私は母の目をまっすぐに見返した。母はわずかに口をつぐみ、沈黙が応接間に流れた。窓の外では風が木々を鳴らしていたが、その音すら遠くに感じられた。
「……よろしいわ。ならばもうあなたに言うことはない。軽率さの代償は、これから存分に味わうことになるでしょう」
静かに告げたその言葉の中には、情も猶予も含まれていなかった。そのまま母は椅子から立ち上がり、背を向ける。
後ろ手に揺れるレースの袖が、まるでこれで何もかも終わりだと告げる白い旗のように思えた。迷いなく歩みを進める背中越しに、最後の言葉が落ちる。
「少女の時代はもう終わり。貴族の令嬢として相応しく育て直します」
応接間の扉が静かに閉じる音が、死刑宣告にも似た響きを持って、部屋の空気を締めつけた。
冷えきった母の言葉の奥で、私はなおも心の奥深くに小さな火を抱いていた。震えているけれど、消えかかってはいない。
私は今、すべてを奪われたわけではない。たとえこの身の自由を奪われ、友の声が届かなくなったとしても、私の中にはまだ、耳を傾け、心を震わせ、言葉を選び、声を出す力がある。
私が書いたあの物語は誰かの胸に届いた。名を伏せていても、身分を隠していても、観客のまなざしはまっすぐに舞台へ向けられていた。誰も私の顔を知らなかった。それでも私の書いたオペラが、私の歌が、拍手に変わったあの瞬間は、まごうことなく真実だった。
そして私は、信じてくれた人たちの顔を思い浮かべる。あの人も、あの人も、名も知らぬ人々までもが、私の舞台に心を寄せてくれた。
だったら、私はまだ、終わらせてはならない。あきらめるには、あまりに早すぎる。
この世界の何かを変えることはできないかもしれない。けれど、せめて、私自身が変わらずに立ち続けることはできるはずだ。小さな火でも、灯し続ける限りは闇に飲まれはしないのだから。




