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ふたりの秘密

 お母様がわたしの変わりようをあの夜のオペラのおかげだと思い込んでくれたのは、わたしにとってこの上なく都合の良いことだった。

 わたしが広場で聴いた旋律を探るようにピアノを奏でていても、バレエのヴァリアシオンを真剣に練習していても、発声練習をくり返していても、それが民衆歌劇の真似ごとであるとは夢にも思わないようだった。「あの子が見違えるように変わった」と親戚中に触れまわる姿に心が痛まなかったわけではないが、それよりもわたしは自分の夢を守ることを選んだ。

 誰にも言わずにひとり密やかに憧れを深めていくことは、ほんの少しの罪悪感と引き換えに、とても甘美な自由をもたらしてくれた。

 新たな喜びは、わたしのありきたりだった生活をすっかり塗り替えてしまう。心に張り合いが生まれ、意欲が泉のように湧き、この頃は今まで一切の興味もわかなかった語学や算学も以前よりは前向きに取り組むようになったので、お母様の思い込みはますます深まるばかりだった。

 

 

 ◆


 

 午後の陽射しが、レース越しにサロンの床へとやわらかな紋様を描いていた。窓の外では庭の薔薇が盛りを過ぎ、ひとひらふたひらと風の気まぐれに散っている。ひどく静かな午後だった。窓辺の光はピアノの鍵盤に斜めに差し込み、滑らかな象牙が淡く光を反射していた。

 譜面台に置かれた子ども向けの教本は開かれていなかった。ひとえに、わたしに弾く気がないからだ。昨日言いつけられたばかりのピアノ教師からの課題は、すっかり頭から抜けおちていた。

 わたしの指先は、記憶のなかにある旋律をおもむろにたどっている。下町の広場で聴いたあの民衆歌劇の曲。鍵盤に触れると白と黒の間から遠い風景が立ちのぼってくる。がやがやとした人の声、傾いた屋根の上を飛ぶ鳩の影、汗を光らせながら笛を吹いていた若者、そして、まるで矢のようにまっすぐわたしの心を射抜いた歌声。

 うろ覚えのメロディーを、わたしは探るようにして弾き始めた。上品なサロンでは決して聴かれることのない旋律がゆっくりとわたしの手の下で形になっていく。

 ふと、背後で音がした。陶器が触れあうようなか細く高い音に思わず振り向くと、ティーセットを抱えたまま立ちすくむエミリーの姿があった。湯気を立てる紅茶と小さな焼き菓子が載った銀のトレイを両手で支えたまま、彼女は一歩も動かず、こちらを見ていた。驚きとどこか高揚にも似た戸惑いがその顔に浮かんでいる。


「エミリー?」


 声をかけると彼女の肩がぴくりと震え、トレイを持つ手元が微かに揺れた。彼女ははっとしたように目を見開き、ぎこちなく焦るような仕草でトレイを抱え直したが、その足は床から離れようとはせず、相変わらずその場に立ち尽くしたままでいた。

   

「お嬢さま、その曲は……」

 

 わたしがもう一度彼女の名を呼びかけようとすると、エミリーはその前に小さく唇を開いた。

 しかし彼女の瞳は、ピアノの蓋ではなく、鍵盤でもなく、わたしの指先を見ていた。まるでそこに、あり得ないはずの記憶を見つけてしまったような彼女の表情に、わたしは思わず椅子に座ったまま身を乗り出した。


「……知っているの?」

 

 わたしが問いかけるとエミリーは一瞬だけ迷うように視線を動かし、それからほとんど目を伏せるようにして静かに頷いた。 


「……ええ、子どもの頃、町で聴きました」


 そう呟いたとき、ようやく彼女は足を動かし、そっとトレイをサロンの小卓に置いた。ティーカップがこつんと控えめな音を立てて、それきりまた部屋は静まりかえった。


「母が洗濯婦の仕事の帰りに、広場でやっているのを見せてくれたんです。あの歌は、村から王都に向かうヒロインが、未来への希望を歌う場面で……」

 

 そこまで言って、エミリーの言葉の調子がふいに変わる。なにかを思い出しながら、物語の続きを語るように彼女は続けた。


「……ほら、途中でこう歌うんです。『明日にはきっと 遠くへ行ける つぎはぎの靴であっても』」


 彼女はそっと、声に出してその旋律を口ずさんだ。わたしの指が、ピアノの上で止まる。……間違いなかった。わたしの心を揺さぶったあの一節。名もない少女が星明かりを頼りに歩き出すあの夜の曲だった。

 

「エミリー、わたし、その曲のことをもっと知りたいの」


 わたしの声がわずかに震えていたのに、彼女は気づいただろうか。やっとの思いでそう口にすると、エミリーはそんなわたしを見つめたまま、ひと呼吸ののちほんのわずかに微笑んだ。長いあいだ隠していた秘密の箱の蓋をそっと開けたような、深い安堵の気配がそこにあった。

 


 ◆



 それからのわたしは、エミリーの周りに人の目がなくなった小さな時間を見計らって彼女の目の前に現れた。書庫の埃をはたく合間、縫い物の手が止まる瞬間、紅茶の用意を終えた帰り道。ほんのわずかな隙間を縫って、わたしはまるで通い慣れた劇場の裏口を知っている役者のように彼女のもとへ戻ってきた。

  

「またいらっしゃったんですか、お嬢さま……」


 困ったように笑いながらも、エミリーは決してわたしを追い払わなかった。わたしのためにミルクを足した紅茶を淹れてくれたり、小さなケーキの端をこっそり分けてくれたりした。


 わたしたちが話すのは、いつもあの歌劇のこと。少女が明日を夢見て歌うたったの一場面しか知らないわたしに、エミリーは少しずつ物語を語ってくれた。

 旅に出た少女が、町から町を巡り、さまざまな人々と出会い、そして——恋を知る物語。

 物語の始まりは、小さな村の片隅だった。ヒロインの少女は家族がいなくて、誰に名前を呼ばれるでもなく、誰を「お母さん」と呼ぶこともないまま、質素な暮らしの中で成長した。身の回りの風景はいつも同じで、朝が来れば井戸に水を汲みに行き、日が傾けば洗濯物を畳む日々。けれど彼女の胸のうちには、誰にも触れられたことのない願いがひそかに灯っていた。それはどこか遠くに、まだ知らぬ自分の居場所があるのではないかという切実な憧れだった。

 ある日、ひとつのきっかけが彼女を旅立ちへと導いた。身につけていたスカーフに刻まれた紋章、それが幼いころによく聞かされていた子守唄の最後の一節と重なったとき、彼女の中でなにかが目覚めた。

 それは記憶ではなく、予感に近かった。過去に置き去りにされた自分の物語を、これから見つけに行かなければならないという、心の奥底から湧き上がる確信だった。

 彼女は粗末なつぎはぎの靴で歩き出した。王都に向かうその長い旅の途中、さまざまな出会いが彼女を待っていた。

 なかでも、ある青年との出会いは彼女の世界を大きく変えることになる。彼は快活で皮肉屋で、けれど誰よりも優しい目をしていた。最初はぶつかり合いながらも、いつしか二人は支え合い、互いの傷を少しずつ知り、言葉の裏に潜む本音までも分かち合うようになっていった。星空の下、火を囲んで語り合った夜。手のひらを重ねたときの、胸の奥がじんと痛むような静かな喜び。少女は生まれて初めて、誰かの隣を「自分の居場所」だと思ったのだ。

 しかし旅の終わりが近づいたとき、彼女の求めていた真実がついに姿を現す。

 彼女の本当の家族が見つかったのだ。

 

「その家族は、名門の貴族の家だったんです。彼女の家族は、長いあいだ彼女を探し続けていて……再会の場で、本物の名を呼ばれて、抱きしめられて、涙を流して迎え入れられるんです。ヒロインはようやく、自分の帰る場所を見つけたの」

 

「それじゃあ彼女は家族を見つけて、それで彼とはどうなるの?」

 

 わたしは声を弾ませて、期待に胸を膨らませながら聞いた。けれどその答えは、エミリーの返事を聞く前からすでに予想していた。

 ———きっと、彼もお屋敷に招かれて、ふたりは認められ、結ばれて、やがて小さな子どもが生まれて、花々の咲く庭で一緒にお茶を飲んで……そんな幸福な絵のような未来が、物語の終わりに広がっているのだとわたしは思った。

 

 だが。


 エミリーは、わたしの言葉に小さく目を見開いたのち、すぐに静かに、沈んだ調子で首を横に振った。 


「……彼は行ってしまうの。彼女のことを好きなのに、あえて姿を消すの」


「えーっ! どうして!?」


 わたしは思わず言葉をさえぎっていた。自分の声が子どもっぽく響いたことに気づいて、少しだけ唇をかんだ。けれど、心のなかはざわざわしていた。どうして好きなのに彼女から離れるの? 彼女も彼を好きだと言ったのに。物語の筋に込められた悲しみが、まるで自分のなかにも影を落とすようで、落ち着かない気持ちだった。


「彼は……彼女のために、いなくなったんだと思います。彼女が貴族の娘として、ちゃんと迎えられるように。自分がそばにいてはいけない、って」


「で、でも、それは彼が勝手に思いこんでいるだけじゃない? いなくなるなんて、そんなのひどいわ」


 わたしはなおも抗うように言った。彼女が家族も愛も見つけて、やっと幸せになれると思ったのに。好きな人がいなくなってしまったら、そんなの台無しだ。

 エミリーは少しだけ考えるようにして、目を細めた。わたしに語る言葉を、どこから取り出せばいいのか、探しているようだった。


「……手放すって、冷たいことじゃないんです」


 そのひとことは、わたしの心にまっすぐ落ちてきた。わからないなりに、その言葉の輪郭が心に残った。


「彼はね……彼女がこれから歩いていく場所が、もう自分の届くところではないとわかってしまったんです。お屋敷の人たちに囲まれて、煌びやかな世界の中で生きていく未来を、彼女は持つようになった。でも、彼にはそれがない。ただの旅の途中で出会った一人の男……。だから、彼はそっと去ったんです。何も言わずに」


「……好きだったのに?」


「……どんなに自分を傷つけることになっても、それでいいと思えるくらい、彼女のことが好きだったんだと思います」


 わたしは、うまく飲みこめない思いを抱えたまま、エミリーが淹れてくれた紅茶のティーカップを見つめた。そのつるりとした光沢の向こうに、わたしの顔がぼんやり映っている。まだ幼い輪郭をしたわたしがそこにいて、黙ってわたしを見返していた。


「……手放すことって、ほんとうに愛なの?」


 そう問うと、エミリーはふっと、息をこぼすように微笑んだ。

 

「ええ。とても深い愛です。その身を抱きしめる代わりに、未来を抱きしめるような……そんな愛だと思います」

 

 わたしはその言葉の意味をすぐにはつかめなかったが、きっとどこかで覚えていたいと思った。大人たちの言葉はいつも、何かを包み隠す布のようで、何も信じられなくなることがある。でもエミリーの言葉には、そういういやなものがなかった。まっすぐにわたしに向けて差し出してくれているのだと、わたしはいつもわかっていた。

 

「やっぱり、わたしには難しいけれど……わかるようになるまで、覚えていることにするわ!」

 

 わたしが大きな声で笑って言ったから、エミリーも声をあげて笑った。

 夏の初めの柔らかい空気のなか、そのまま二人でしばらく座っていた。風が葉をふるわせ陽がゆるやかに傾いていく。いつか、わたしが愛を理解できる日が来たら、自分のなかにもそういう気持ちが芽生える日が来たのなら、この今日の日のことを、きっと思い出すのだろうと思った。

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