伯爵家に生まれて
クララが去ってから、初めての講義の日。私はいつも通りの時間に教室へ向かい、長机に四つ並んだ席の一番端に腰を下ろした。鞄の口を開け、教本を取り出す。万年筆を机に置いて、ふと隣を見ても、そこには誰も座っていない。
クララが座っていた場所、その温もりが消えた机の表面を、私はそっと見つめる。声をひそめて笑い合ったこと、ノートの端に走り書きをして見せ合ったこと、昨日のように思い出せるのに、そこにもう彼女はいない。
気を紛らわせるように顔を上げると、ちょうど始業の鐘が鳴った。講義が始まる。秋学期に、クララと相談して選んだ語学の発展科目。
最初は詩の構造や音韻の美しさにわくわくしながらページをめくっていたけれど、最近は内容がぐっと難しくなってきていた。
クララがいれば、講義のあとに一緒に復習したり、お互いに単語帳を作って見せ合ったりできたはず。けれど今は、一人で解釈に迷いながらページを追うしかない。
鐘の音が鳴ると同時に、私は大きく息を吐いた。思った以上に、ひとりの講義は疲れるものだった。
筆記具を収め、インクの滲んだ教本を閉じる。革表紙の手触りがやけに冷たく感じられた。机の端で小さな音を立てて教本を重ね、膝の上で鞄にしまおうとした、そのときだった。
「どうかなさったの?」
机の向こう端から、澄んだ声がこちらに届いた。
ふと顔を上げると、そこには若葉のようなリボンを髪に結んだ女性が、椅子に優雅な姿勢のまま腰かけていた。背筋の通ったその佇まいには自然と目を引かれる品のよさがあって、指先には万年筆をつまみながら、視線だけがこちらをやさしく捉えている。
そしてもっとも目を引いたのは、その燃えるような赤毛——光の角度によっては朱にも金褐色にも見えるその髪に、私は一瞬で心当たりを覚えた。
長いまつげの影にかすかに揺れる微笑。記憶の中にある横顔。園遊会の午後、花冠をいくつも受け取っていた、あの人——。
「……マリアンネ嬢?」
無意識のうちに口をついて出た言葉に、はっとしてすぐに唇を閉ざす。一方的に名前を知っているだなんて、きっと変に思われる。
不安に駆られて俯くけれど、マリアンネ嬢はそんな私を責めるでも笑うでもなく、かすかに目元をやわらげた。
「驚いた。私を知っているのね」
穏やかな声だった。意外そうな色はあっても、嫌悪や恐れはかけらもなく、その柔らかさに私は少しだけ肩の力を抜くことができた。
「……園遊会のときに、お見かけして」
「まあ、そうなの。知っていただけてとても嬉しいわ」
正直に告げると、マリアンネ嬢はゆるやかな声色で答えた。その一言に、私はそっと息を吐く。胸の奥で緊張の糸がほどけるような、不思議な感覚を覚える。
「今日の講義は、少し難しかった?」
やさしく尋ねられて、私は思わず頷いてしまった。こちらの気持ちにそっと寄り添うような声に、あれこれ言葉を選ぶよりも、ただ正直にうなずいた方が早かった。
「……はい、特にあの最後の文章が。どうしてあんな形になるのか、考えてはみたんですけれど」
「ええ、わかるわ。あの詩の言い回しは、上級生でも悩むところがあるの」
思いがけない返答に、私はほんの少しだけ目を見張る。彼女は賢くて、いつも成績優秀者の上位に名を連ねていると聞いていた。周囲の生徒から憧れられているその人が、自分と同じところでつまずくことがあるなんて。
「よければ、一緒に復習しない?」
その言葉が響いて、私は再び目を見張った。声にはことさら気負いも押しつけもなく、まるで友人同士の自然な誘いのようだった。
私がため息をついていたから、言葉をかけてくれたのだろうか。そう思った瞬間、胸の奥にあった冷たさが、少しずつ溶けてゆく気がした。
「……ご迷惑でないのなら、ぜひ」
そう返した私の声は、思っていたより穏やかだった。マリアンネ嬢は変わらぬ微笑をたたえたまま、教本を少し私の方へ寄せてくれる。
クララがいなくなった今、机にひとりで向き合う日々に、こんな風に差し出される言葉があるとは思っていなかった。それも、憧れに似たまなざしで見ていたはずのマリアンネ嬢に。
◆
それからというもの、マリアンネ嬢とは顔を合わせれば自然に言葉を交わすようになった。
講義の合間や食堂でばったり出くわしたとき、寮の廊下ですれ違ったとき、彼女はいつも変わらぬ穏やかさで挨拶をしてくれた。
私がまだ少し自信を持てずにいる分野について尋ねると、時には丁寧に図を描いてまで説明してくれて、私が理解できたとわかると、子どもを喜ばせたようなやさしい笑みを見せてくれる。
そんなささやかな交流が少しずつ積み重なっていくうちに、私は自然と彼女に心を預けるようになっていた。
ある日の午後、図書館の奥の席で一緒に予習をしていたときだった。ふとした拍子に私は、思ったままの気持ちを口にしていた。
「マリアンネ嬢は本当にすばらしい方ですね。どの科目でも優秀で……私、とても尊敬しています」
私の言葉に彼女は驚くふうもなく、むしろ穏やかな笑みを浮かべて、こちらに視線を向けた。マリアンネ嬢は万年筆を持ち直すと、謙遜するでもなく、ただその言葉をまっすぐ受け止めたように言った。
「ありがとう。……私は、学びたくてここに来たの。だから自分にできることには、努力を惜しみたくないのよ」
その一言に、私は思わずまばたきをする。言葉の端ににじんでいたのは、私の知らない想いの色。
「……差し支えなければ、理由を伺っても?」
簡潔な一言に心の深いところを不意に揺らされた気がして、気づけば私は尋ねていた。マリアンネ嬢は万年筆を置き、ふと視線を手元に落とした。
けれどすぐに、迷いのない目でこちらを見返してくる。柔らかな笑みはそのままに、語る声もまた穏やかだった。
「もちろん。……私の家は商会を営んでいるの。曽祖父が一代で興した商いでね、今ではそれなりに名の通った商会になったわ」
言いながら、マリアンネ嬢は少し視線を落とす。一呼吸ののち、言葉を続けた。
「私は一人娘だったから、父はずっと、私に婿を取らせてその人に商会を継がせるつもりだった。でも私はそうはしたくなかった。自分の手で継ぎたいと思ったの」
声に力がこもるわけではなかった。けれど、そこにこめられた意思の強さははっきりと伝わってくる。
「お婿様の名前で署名された書類を眺めて一生を過ごすより、数字を読み、方針を立てて、商いを知って、父たちの築いたものを受け継ぎたい」
ひとつの宣言のような、迷いの余地を挟まぬ言葉の輪郭が、空気を突き抜けて私の胸に届いた。上品な所作も、物静かな語り口も、彼女の真意を曇らせることはなかった。
「だから、ここに来れるようお願いしたわ。女の子がそんなことを言うなんてと、最初は親族みんなが反対していたけれど……最後には父が私を信じてくれた。だから私はここで、全力を尽くすことに決めたのよ」
私は目の前のマリアンネ嬢を見つめながら、思いがけず呼吸を深く吸い込んでいた。午後の図書館、書架の合間を縫って差し込む秋の陽光が、彼女の髪に赤銅のきらめきを宿している。そのひと束ひと束が、まるで焔のように意志の強さを象っているように見えた。
「……ご立派ですね、マリアンネ嬢」
貴族の娘として生まれ、求められるままにここに入った私とは、出発点からしてまるで違う。
生まれながらの家柄に甘えることも、女であることを理由に守られることも選ばなかった彼女は、自らの意志でその座を求めた。そして父親から託されるという結果を、自らの責任として引き受けた。
「自ら道を選び、それを言葉にして、ご家族と向き合って……こうして実際に学び続けておられること、どれも私には眩しく映ります」
心に広がった熱は、焦がすようなものではなかった。傷でも、嫉妬でもない。目を奪われた景色のようにただそこに在って、見る者の胸に何かを刻む強さを持っている。
「……私にも、夢があります」
それはほとんど無意識のうちに口をついて出た言葉だった。胸の内に澱のように沈んでいた感情が、ゆっくりと上澄みに浮かび上がってくるのを感じる。
「ですが、それは両親には決して認められないものです。私はいずれ、諦めなければならないのかもしれません。……何もかもを」
言葉を置きながら、私は自分の胸に沈むもののかたちを初めて明確に捉えた気がした。あの夏に芽生え、クララが学院を去ってから大きく膨らんだ恐れ。
私はいつか、両親の望むままに結婚しなくてはならない。夢を叶えられないまま、誰かの妻として、母として生きなくてはならないのだろうか。
「あなたのような強さが、私にもあったなら」
願いは、どこかで祈りにも似ていた。私は目の前の彼女のように、両親に向かって何かをはっきりと欲しいと言えたことがあっただろうか。何かを求めて、抗って、得るために動いたことが。
マリアンネ嬢は、少しだけ瞳を伏せた。それは思索の沈黙であり、過去の記憶を掘り起こすような、長い呼吸のようだった。やがて顔を上げた彼女の目には、濁りのない強い光が宿っていた。声は低く抑えられていたが、どこまでも澄んでいた。
「……幼にしては父兄に従い、嫁しては夫に従い、夫死しては子に従う。女性は生まれついて、いつも誰かの付属物にされてきたわね」
ぽつりとこぼされた言葉は、決して感情に流されるものではなかった。長い年月をかけて心の中で練り上げられた、彼女自身の意志のかけら。
「だけど私は女である前に、この国に生きる一人の人間として学んでいる。誰の娘という色眼鏡で見られたくはないし、誰かの妻になることが人生のすべてだとも思わない」
彼女の声音は穏やかであったけれど、決して揺らがなかった。学びたい、継ぎたい、という気持ちを胸に、道を選んだ人。その選択が簡単なものでなかったことは、彼女の瞳を見ればきっと誰にでもわかる。
「学びなさい、エリザベート嬢。たとえこの先何があっても、頭の中に身につけたものだけは、誰にも奪うことはできない。知識はいつでもあなたの力になる」
その言葉に、私はしばらく返す声を見つけることができなかった。どんな賛辞を並べても、この瞬間の重さには釣り合わない気がした。だから私はただ一度、深くうなずいた。
そのとき、塔の上の鐘が三度、音を響かせた。昼休みの終わりを告げる合図だった。私たちはそっと教本を閉じ、立ち上がって廊下へ出た。並んで歩くうちに、自然と歩調がそろってゆくのを感じながら、マリアンネ嬢と初めて出会った語学の教室へと向かう。
長机がいくつも並ぶ教室の中、私は右端から二番目の席に腰を下ろし、その隣にはマリアンネ嬢が静かに椅子を引いた。初めて出会ったあの日には端と端に座っていたのに、今ではこうして並んで座ることがまるで前からの習慣のように自然に感じられる。
開いた教本の余白にはクララとやり取りした走り書きがまだ消されずに残っていたけれど、それを見ても私は以前のようにひとりで沈むことはなかった。
講義が始まってから、おそらく五分も経っていなかった。黒板の前に立つ教授は、淡々とした口調で詩文の構造について説明を続けていた。筆記の音が教室の中に一定のリズムを刻み、それぞれの席に座る生徒たちは、それぞれのペースで文字を追い、思考を重ねていた。
私もまた、視線を教本の上に落とし、なるべく集中しようと努めていた。隣に座るマリアンネ嬢が、私の苦手とする構文の箇所にそっと目印をつけてくれたことに、内心助けられながら。
そのとき、遠く廊下の奥——教室の扉をいくつか隔てた先から、かすかなざわめきが聞こえてきた。最初は風の音かと思った。古びた校舎の窓枠が軋む音が混じっているのかもしれない、とも思った。
しかしそれは、耳を澄ますまでもなく、明らかに人の声だった。しかも一人ではない。複数の声がぶつかり合い、誰かを制するような調子で、押し殺すように、けれど緊張を孕んだ勢いでやり取りされている。
すぐに教室の前方に座っていた生徒たちがそっと顔を上げ始めた。中には筆の動きを止めたまま、扉の方に体ごと向けて耳を澄ます者もいた。私もまた、自然と視線を板書から外し、教室の入り口へと向けた。誰も何も言わなかったが、空気が目に見えるほどに動いたのを感じた。教授の声も、気づかぬうちにわずかに沈黙の間を挟んでいた。
やがて、そのざわめきは一段と近くなる。
「……どうか奥様、落ち着いてください——」
その声が明瞭に耳に届いた瞬間、私は胸の奥に冷たいものが差し込むのを覚えた。奥様という呼びかけ、その抑えた口調。廊下で誰かが足早に歩く気配とともに、重く張り詰めた沈黙が教室に満ちてゆく。
次の瞬間、バン、と鋭い音を立てて、教室の扉が開いた。
誰もが振り返ったその視線の先に立っていたのは、濃いボルドーの外套をまとい、きっちりと結い上げた髪に翡翠の飾りをつけた、ひとりの貴婦人——。
「エリザベート!」
その名が、鋭く、強く、張りつめた空気を裂くように教室中に響き渡った。——そこにいたのは、私の母だった。




