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『セヴェラの愛』

 港町セヴェラのはずれに広がる市場は、陽が傾くころになると昼間の喧騒をそのまま名残として引きずりながら、酒と汗と潮のにおいに満ちたざわめきを深めてゆく。

 軒を連ねる屋台の屋根には魚の鱗と油の匂いが染みつき、汲み出されたばかりの樽酒が早くも酔客の喉を潤していた。

 市場の南端にある古びた石造りの酒場の戸口には、すでに人だかりができていた。陽が沈むにつれ、木戸を押しあけて入ってくる男たちの声は大きくなり、笑い声と罵声とグラスのぶつかる音が入り混じる。

 店の奥、粗末な板の舞台。そこに立つひとりの女に、すべての視線が吸い寄せられていた。


「カルロッタ!」


 どこからともなく歓声が上がる。その名を口にした途端、店内の空気がほんの一瞬ざわつく。カルロッタと呼ばれたその女は、舞台の上でゆっくりと身を翻し、踊るようにステップを踏んだ。

 深い赤のドレスは肩を大きくあらわにし、月光にも似た胸元のブローチが灯の下できらめく。黒く波打つ髪を高く結い上げ、その隙間から覗くうなじには、咲きかけの罌粟のような色気が滲んでいた。

 彼女が開いた唇から、低く湿った旋律が流れ出す。言葉の端々に艶があり、吐息のように甘い声が、酒場の空気をすっかり掌握していた。誰もが黙り込み、ただその歌に耳を傾ける。陽に焼けた漁師も、貨物の積み下ろしで腕を太くした荷運びも、今はただその声に身を委ねるだけの男に変わっていた。


 ——セヴェラの歌姫、カルロッタ・レジェロ。


 その名を知らぬ者は、この町にはほとんどいない。艶やかな黒髪をたっぷりと巻き上げ、陽に透ける真紅のスカートを翻すように歩く女。黒曜石よりも濃い眼差しを宿し、何かを見透かすような笑みを絶やさない。彼女が通れば、仕立て屋も船乗りも、道端に立つ老婆までもが振り返る。誰もが彼女に惹きつけられずにはいられなかった。

 その夜もまた、曲が終わると同時に歓声と拍手が店内を揺らした。赤ら顔の男たちがコインを投げ、ひとりが酔った勢いで舞台に上がろうとする。だがカルロッタは一歩下がってその手をかわし、にやりと笑ってみせた。


「その先は、銀貨が百枚は必要よ」


 くすぐるような声にまた笑いが起きる。彼女は舞台を降り、酒場の奥にある常連席に腰を下ろすと、さっそく別の男たちがふたり、左右から競うように近づいてきた。


「今夜は俺と踊ろう、カルロッタ!」


「何を言ってる、彼女は俺と過ごすんだ!」


 互いに拳を握りしめ、今にも掴み合いになりそうな勢いで睨み合う。だが当のカルロッタは、彼らの存在など微塵も気に留めていない様子で、グラスと皿に乗ったザクロを一つ手に取る。


「あんたたちの喧嘩なんて、まるで港に捨てられた魚の骨みたい。見苦しいったらないわ」


 椅子にもたれ、ワイングラスを傾けながら、彼女は冷ややかに笑った。その笑みは月に濡れた刃物のようで、男たちの心をさらにかき乱した。


 そこへ、女がひとり、怒りに任せて足音を鳴らしながら近づいてくる。泣き腫らした目をした若い女だった。乱れた髪に縁飾りのついた帽子をかぶり、肩越しにレースのショールを翻している。


「カルロッタ……あんたのせいで、私の婚約が破談になったのよ!」


 女はカルロッタに歩み寄ると、帽子をぐいと押さえ、吐き捨てるような口調で言い放った。声には怒りと悔しさが滲み、場の空気が一変した。


「あと二週間で式だったのに……! なのにあんたが、うちの人を誘惑したから……!」


 カルロッタが顔を上げる間もなく、その女は掴みかかってきた。肩をつかまれ、乱暴に揺さぶられたカルロッタの頬に、ひとすじの髪がかかる。

 

「あの人を返してよ!」


 女は婚約者と思わしき男の名前を叫びながら、カルロッタの服を掴み激しく揺さぶった。周囲には人だかりができ始めている。

 誰もが息を呑んで騒動の成り行きを見守る中、カルロッタはようやく動いた。唇の端を引いて笑うと、手に持ったザクロを乱暴に地面に落とす。実がはじけて、赤い果汁が木の床に広がった。


「そんな人、あたし知らないわ。結婚が破談になったのは、あんたに魅力がなかっただけでしょ」


 吐き捨てるように言った言葉は、まるで香水のように鋭く空気を刺した。その侮辱に、女は顔を真っ赤にし、再び手をあげようとする。だが次の瞬間、鋭い号令が広場を裂いた。


「そこまでだ! 何をしている!」


 警備隊の制服を着た男たちが小走りで駆け寄ってきた。中央に立つひときわ背の高い男が、手を挙げて周囲を制する。


「喧嘩沙汰は御法度だ。この場は我々が預かる」


 カルロッタの方に視線が向けられる。カルロッタはその視線を受けても一切怯まず、むしろ口元に余裕の笑みを浮かべて見返した。口元には皮肉と余裕を帯びた笑みが浮かび、まるでこの騒ぎさえも自分の舞台だと言わんばかりの気配を纏っていた。


「そこの女、来てもらおうか」


 命じたのは、列の先頭に立つ男だった。清潔に刈り込まれた髪と、堅く引き結ばれた口元。若いながらも威厳を湛えた姿が、ただの駐屯兵ではないことを示している。だがカルロッタは、それにも構う様子はなかった。


「冗談言わないでよ」


 スカートの裾をひとさし指でつまみ上げ、ひらりと身を翻すようにして、カルロッタは男を見やった。その視線には、媚びも怖れもなかった。


「あたしが何をしたって言うの? 女が勝手に騒いだだけ。こっちは何ひとつ、手なんて上げてないわよ」


 言葉はなめらかに、けれど棘を含んで突き刺さる。広場を取り巻く群衆が息を潜めて成り行きを見守る中、軍人——ファツィオは数秒の沈黙ののち、淡々と口を開いた。


「喧嘩沙汰があったのは事実だ。署まで同行してもらおう。抵抗するなら、しかるべき処置を取ることになる」


 言葉だけはきっぱりとしていたが、カルロッタの眼差しに、ファツィオの声音はほんのわずかに滲んだ。


「望むところよ。だけどお気をつけなさい。こう見えてあたしは兵士の魂も溶かせるの」


 その言葉に、野次馬の中からくすくすと笑いが漏れる。部下のひとりが苛立ったように歩み寄ろうとしたが、ファツィオが手を上げて制した。その視線の先にいる女は確かに問題の中心だったが、同時に視線を逸らすことのできない何かを持っている。


 カルロッタ・レジェロ。港町セヴェラで、その名を知らぬ者はいない——その理由は、決して彼女の歌声だけではない。

 その夜のうちに、カルロッタは軍の手から逃れた。いや、正確に言えば——ファツィオが逃がしたのだ。そして翌朝ファツィオの身には、軍令違反の罪が下された。



 ◆



「お母さまはね、あなたが無事でいると知って、それだけで涙を流して喜んでたわ」


 ミケーラはそう言って、鉄格子越しにそっと微笑んだ。手にしていた籠の中には、故郷からの便りと、彼の好きだった甘いパンがひとつ。


「わたしも同じ気持ちよ。罪を償ったら、わたしと帰りましょう?」


 彼女はファツィオの母が涙をこぼしながら託した便りとともに、彼への変わらぬ気持ちを携えてここまで来たのだった。

 だがファツィオは彼女の言葉に答えなかった。まるでその声が牢の外の風と同じくらい無関係なものに聞こえているかのように、彼は一点を見つめたまま動かない。


「ファツィオ……」


 名前を呼ばれて、彼はようやくゆっくりと顔を向けた。だがその瞳の奥に、彼女の姿は映っていなかった。


「……カルロッタは、どうしてる?」


 その名を耳にした瞬間、ミケーラの胸の奥に沈んでいた痛みが、再び静かに浮かび上がった。それでも彼女は、唇の端にほのかな笑みを残したまま、声を荒げることはなかった。


「知らないわ。わたしは、あなたに会いに来たの」


 ファツィオは短く吐息をこぼし、牢の床に視線を落とした。その顔には憔悴よりもむしろ、熱を帯びた執着の色が浮かんでいた。ミケーラがいくら声をかけても、その心はもう遥か遠くの女を追い続けていた。

 その胸に焼きついたのは、まるで炎のような女。カルロッタの笑みも、肌の香りも、投げかけられたあの視線すらも、彼には消せない呪いのように刻まれていた。理屈も理性も彼女の前では無力だった。それがカルロッタという女なのだ。


「わたしと帰りましょう」


 ミケーラがここに来て初めて、声を詰まらせながら言った。


「あなたを愛してるの」


 指先に力が入る。鉄格子の向こうにいる彼に手が届くはずもないと知りながら、それでも伸ばした。

 ファツィオはわずかに眉を動かしたが、その目は少しも揺れなかった。しばらくの沈黙のあと、彼はふいに立ち上がり、視線を逸らしたまま冷たく言った。


「……帰れ。僕には関係ない」


 彼は背を向けたまま、それきりミケーラを見ようとしなかった。鉄格子の前に残された彼女は、ただまっすぐ彼の背中を見つめていた。目に涙は浮かんでいなかった。けれど、立っているのがやっとだというように肩を震わせ、そっと頭を垂れた。

 ミケーラは何も言わず、ただ籠をそっと鉄格子の内側へ差し出すと、小さく頭を下げて踵を返した。



 ◆



 カルロッタは焦っていた。

 陽が傾きかけたセヴェラの路地に立ち尽くし、彼女は自分の胸の内に渦巻く苛立ちを持て余していた。しなやかに巻いた髪も、たっぷりとしたスカートも、ひとつひとつ計算され尽くした仕草も、すべては人の目を惹きつけるための武器だったはずだ。

 それなのに、今この瞬間、自分の心をどうにもならずかき乱しているのは——恋人のエルヴィーノが、他の女の腰に手を回して甘い言葉を囁いている姿だった。


 祭りの余韻が残る町角。笑い声と笛の音、ワインの匂いと埃に満ちた夕暮れの空気の中で、カルロッタの視線だけが刺すように鋭く、ひとりの男を追っていた。

 怒りなのか、悲しみなのか、彼女自身にも定かではなかった。むしろ、こんなに心を乱されること自体が腹立たしかった。

 こんな感情、あたしには似合わない。誰の腕の中で夜を過ごそうと、朝には平気な顔で自由に歌い出す。それがカルロッタ・レジェロであるはずだった。


「カルロッタ、どうしたんだい、元気がないじゃないか」


 馴染みの客の男が、からかうような調子で声をかけてきた。すかさず別の男も笑いながら近づいてくる。「泣き顔なんて似合わないぜ」と、陽気な声が続く。だが、カルロッタはそれらをすべて鬱陶しげに払いのけた。


「放っといてよ。あんたたちに何がわかるの」


 声は鋭く、冷たかった。そう言われても、男たちは笑って肩をすくめるだけで引き下がろうとはしない。誰もが知っている。カルロッタは怒っているときのほうが、よほど魅力的なのだと。


 そのとき、群れのように彼女の周囲に集まっていた男たちの間から、ひとり、まったく別の気配を纏った男が姿を現した。くたびれたシャツの襟を立て、薄く煤けた上着の裾を風に揺らしながら、まっすぐ彼女の前に立つ。髪は乱れ、瞳には憔悴と、どこか熱を帯びた執着が宿っていた。


「カルロッタ」


 男は一声を発した。カルロッタは怪訝に思って、その顔をじっと見つめた。

 濁った瞳の奥に何かが沈んでいる。懇願にも似た熱、それともただの執着か。どこか見覚えのあるその目に、彼女はほんのわずか眉をひそめ、記憶の底を探る。


「君が忘れられないんだ」


 切実な声だった。傷のように濡れた声音に、ほんのわずか目を細める。そこでようやく、くすんだ記憶の引き出しの奥に転がっていた男の顔を見つけた。


 ——ああ。あのとき、騒ぎを起こして捕まったあたしを牢から出してくれた男。確かに、ほんの少しだけ情をちらつかせて気を引いたのは覚えている。でもそれだけ。そんなものはこの街で何十回とやってきたことだった。

 まさかあの一度で、何か本気になったとでも? そう思うと一気に億劫になって、カルロッタは無言で顔を背けた。あの夜のことなど、彼女にとっては酒と共に過ぎた無数の夜のひとつにすぎなかった。


「そう。あたしはあんたなんか知らないわ」


 吐き捨てるような一言は冷たく乾いて、男の肩に降りかかった。軽蔑も、嘲笑もなかった。ただ心底うんざりしたというような、感情の欠片すら交えぬ断絶。

 それ以上は聞かない、思い出す気もない、とでも言いたげに、カルロッタはくるりと背を向けた。彼女の髪が弧を描き、風に乗って揺れる。忘れられないと願う男の想いなど、背中で蹴り飛ばすように。



 ◆



 夜の帳が下りはじめた港町セヴェラの裏路地を、ファツィオは重い足取りでさまよっていた。街の明かりは水面にゆらめき、笑い声は遠くからかすかに聞こえてくる。だが彼の耳には何ひとつとどかない。カルロッタの言葉が、何度も頭の中でこだましていたからだ。


 ——あたしはあんたなんか知らないわ。


 あの瞬間、心の奥で何かが軋むような音を立ててひび割れた。面影ひとつにすがって、どんな夜も彼女の名を思い出しながら生き延びた。牢の湿った石の匂いの中でも、彼女の肌のぬくもりを幻のように思い返した。なのに——。

 乾いた呻きが、彼の唇からこぼれた。自分でも気づかぬうちに膝をつきそうになる。誰も振り返らない、ただの路地裏で、ファツィオは立っていることすら難しくなっていた。


「ファツィオ!」


 声がした。かすかに揺れる灯りの方から、ひとりの女が駆けてくる。


「カルロッタ……?」


 ふいに、足を止めて顔を上げる。暗がりの中から駆けてくる人影が、あまりにも彼女に似て見えた。高鳴る鼓動が喉元を打ち、だが次の瞬間、その鼓動はあっけなく崩れ落ちる。


 ミケーラだった。


 彼のもとに駆け寄ってきた彼女は、乱れた息を整えながら、懸命に言葉を繋ごうとする。


「……ファツィオ、探したわ。おねがい、わたしと一緒に帰りましょう。あなたがこれ以上傷つくのは嫌なの」


 けれどファツィオの耳に、その声は届いていなかった。いや、届いてはいたのかもしれない。ただ意味を成さなかった。彼女の言葉はまるで夜の騒音のように、彼の頭の奥でやかましく鳴り響くだけだった。


「……うるさい」


 ぽつりと、低くつぶやく。目の前の女が誰であれ、今の彼にはどうでもよかった。あの目を、あの声を、夢に見た唇を持つ女以外——すべてが無意味だった。

 ミケーラの表情が凍る。けれどファツィオは構わず、ふらつく足取りのまま、また夜の奥へと歩き出す。

 

 ——カルロッタ。僕を見捨てるなら、君は生きていけない。


 愛されたいという願いが、応えられぬまま積もり、やがて泥のような執念に変わっていく。彼のなかに残っていた理性は、まだ辛うじて息をしていた。だがその呼吸は、日に日に浅くなっていた。ファツィオの心は確かに、狂気へと蝕まれていたのだ。



 ◆


 

 白いシーツの上に絡む裸足と、薄布越しにのぞく肌の温もり。薄明かりに照らされた部屋の片隅で、夜の余韻がまだ空気の中に漂っていた。

 だが、それを振り払うように立ち上がったのはエルヴィーノだった。彼は軽く指先を髪に通すと、投げやりな動作でシャツを拾い、何の未練もなさそうに腕を通す。


「……どこへ行くの?」


 カルロッタはその背に声をかける。返事はなかった。代わりに、シャツの裾を無造作に整える音が小さく響く。


「ここにいてよ。せめて今夜くらい」


 エルヴィーノの背中が一瞬だけ止まる。それに希望をかけて、カルロッタは身を起こし、彼の服の裾を掴んだ。


「私は本気なのよ。どうして分からないの?」


 その指は震えていた。声もかすかに揺れていた。誰よりも軽やかで、誰よりも自由だったカルロッタ・レジェロが、逃げようとする男の背を止めようとしていた。けれど、エルヴィーノは振り返って、いたずらっぽく笑う。


「俺たちは似たもの同士だろ? カルロッタ」


 明るいその声が、かえって残酷に響いた。


「束縛されるのは性に合わないんだ。君と同じさ。違う?」


 何も悪びれた様子もなく、彼は笑みだけを残して踵を返す。カルロッタの手は、抵抗する間もなくするりと服から離れて、空を掴むように宙に残された。


 カルロッタは立ったまま、しばらく動けなかった。指先がまだ彼の服の布地の感触を覚えていて、それが薄く胸を刺す。膝がふっと抜け、彼女はベッドの端に腰を下ろした。片方の肩から滑り落ちた衣が、そのまま床に流れ落ちる。

 身体はまだ温かかったのに、心はどうしようもなく冷えていた。静かな部屋に、彼女の吐く息の音だけが小さく混じる。


 あたし、何してるの?


 胸の奥で、誰かが問うた。誰より自由で、誰より気ままに笑っていたカルロッタ・レジェロ。男たちを手玉にとって、甘い台詞と揺れる瞳で全てを手に入れてきた女。

 そのカルロッタが、いま、たった一人の男の背に縋ってしまった。追いすがって、服の裾を握って、離れてほしくないと願ってしまった。


「どうしてよ……あたしの何がいけないの」


 震える声が、喉の奥から零れた。涙ではなかった。泣くにはまだ、心のどこかに残っている自尊心が邪魔をした。

 エルヴィーノの明るい目、気まぐれな唇、すぐ他の女へ向かうその軽やかな足取り。そのすべてに傷ついている自分が、何よりも惨めだった。こんなにも心が乱されるなんて。こんなにも誰かに執着するなんて。


 ——君と同じさ。違う?


 あたしは違う。そう言いたかった。あたしの自由は、こんなふうに誰かを傷つけたことなんてない。あたしは自分の美しさと声と愛嬌を知っている、計算の上で生きてきた女だった。

 夜に酒場でこっぴどく振っても、次の日には同じ男が花を持ってやってきた。愛の言葉を並べて、酔ったふりをして、触れようとする。

 あたしは気まぐれに相手をしていただけ。そんなの、向こうも同じだったでしょう? あたしに夢中だなんて言って、誰一人、本気だったわけじゃない。

 

 でも……本当にそうだった? 本当に、それだけだった?


 ふと頭に浮かぶのは、これまでの男たちの顔。夜ごと小さな花束を持って、決まって同じ言葉をくれた男。遠くから一歩も踏み出せず、ただ静かにこちらを見ていたあの視線。

 そして、牢の冷たい扉の向こうから手を伸ばし、あたしのためにすべてを捨てて鍵を開けた男。

 

 カルロッタはゆっくりと目を閉じた。まぶたの裏に、あの夜の、冷えた鉄のにおいと、湿った風がよみがえる。

 あのときも、同じだった。都合のいい言葉を選び、笑ってみせて、手のひらで転がした。


 もし。

 もし、彼らも本気だったとしたら。


 あたしは、残酷なことをしていたんじゃないの?


 自由でいることは、どんなに優位で誇らしいことだったか。

 あたしは誰の気持ちにも応えずに、都合よく微笑んで、都合よく立ち去って、それが賢さだと思っていた。

 でも、いまこうして、誰かに本気で手を伸ばしても届かない苦しさを知って、ようやく思い知る。

 カルロッタは枕に顔を埋め、息を殺すようにして、初めて涙を流した。こんな夜を、彼らも過ごしたのだろうか。……あたしのせいで。



 ◆



 祭りの夜は、港町セヴェラの一年でもっとも華やかなひとときだった。

 夕暮れとともに灯された無数のランタンが、潮風にゆれる帆柱の先まで優しく色を灯し、波間にきらめく光が水面を飾る。通りには露店が並び、通りすがりの子どもたちが笑い、ワインを片手に歌い踊る人々の姿がそこかしこにあった。


 その賑わいの中心に、ひときわ強く拍手が巻き起こる。野外に設けられた簡素な舞台。赤い布の幕を背にして立つ一人の女に、群衆の視線が集まっていた。


 カルロッタ・レジェロ。今宵の祭りの舞台に立つ彼女の姿は、ひときわ艶やかだった。

 肩を大きく開いたドレスに、波打つ黒髪。夜の空を閉じ込めたような瞳が、観客席を見渡していた。その歌声が響いた瞬間、喧騒に包まれていた広場がぴたりと静まる。火のように、または海の波のように、その抑揚は観客を包み込んでいく。

 ひときわ長い声が尾を引いて消えたとき、広場は沈黙していた。

 次いで、大きな拍手と歓声が巻き起こる。人々が言葉にならない感情をぶつけるように、手を打ち鳴らす。


 カルロッタは深く一礼し、顔を上げると、遠くにエルヴィーノの姿を探した——だが、そこにはもう彼の影はなかった。




 舞台を降りて、祭りの通りを歩く。カルロッタは手にワインの盃を持ちながらも、口をつけなかった。誰かが声をかけてくるたびに微笑み返しながら、彼女の心は空虚なままだった。


 エルヴィーノはもう他の女の腕の中にいるのだろうか。笑いながら、軽く、あの夜の言葉を忘れて——。


 そんなことを考えていたからだろう。

 小さな路地に差しかかったとき、その異様な気配に気づくのが、少し遅れた。


 細い裏通りの先、塀際の影の中に、ひとりの男が立っていた。

 その姿があまりに静かだったため、誰の目にも、まるでそこに影が立っているかのように映ったかもしれない。

 男は立ち尽くしたまま、まっすぐ彼女を見ていた。

 手には短剣が握られている。光をわずかに弾いた刃の輪郭が、黙していることの異様さを際立たせる。


「君は僕のものだ」

 

 ファツィオ。


 その名を、彼女はすぐに口にしなかった。変わり果てた姿だった。くたびれた軍服の上着、乱れた髪、そして焼け焦げたようなまなざし。

 カルロッタは立ち止まり、音もなく身じろぎした。

 逃げるでも、叫ぶでもない。だが、警戒の色は明確にその身体に現れていた。


「……狂ってるの?」


 彼女は、ほんのわずか顎を引いて言った。口元には微かに笑みさえ宿していたが、その瞳だけは、どこまでも冴えていた。


「……あたしが、狂わせたのね」


 その言葉に、ファツィオの瞳がわずかに揺れた。まるで、何かを掴みかけて、指の間からこぼれ落ちるように。唇がわななき、呼吸が乱れる。彼の内側で膨れ上がっていた衝動は、ほんのわずか、その勢いを削がれた。


 その一瞬——


 風を裂いて、誰かの足音が響いた。


「ファツィオ!」


 声が、空気を縫うように二人の間に割って入った。

 ひとりの女が駆けてくる。灯火に揺れる髪、青い外套、細い肩。ミケーラだった。

 ミケーラは荒い息を整える暇もなく、ふたりのあいだに立ちはだかった。

 震えるように両手を広げ、懇願するように、そしてまっすぐに、彼を見上げた。


「おねがい、こんなことはやめて。憎まないで。自分を壊さないでよ。あなたを失いたくないの」


 港の灯がかすんで滲むように、ミケーラの瞳にも、かすかな光が揺れていた。


「あなたが誰を愛しても、わたしはあなたを愛してるの!」


 その言葉は、夜風に吹かれながらも、まっすぐにファツィオへと向けられた。裏切られても、蔑まれても、彼の中に残るかつての温もりを信じて。たとえ見返りがなくても、自分の愛は消えないと——ミケーラの声は震えても、誇りを失ってはいなかった。


 ファツィオの指先に握られた短剣が、かすかに揺れる。だがまだ、その刃は宙をさまよい続けていた。

 その中で、カルロッタが小さく息を吸い込む音だけが、やけに鮮やかに響いた。


「……あたしは、あなたにとてもひどいことをした」


 その声には、いつものような艶やかさも、気高い自負もなかった。ただ自分のなかに残った何かを掘り起こすように、ぽつりぽつりと紡がれる。


「あなたの目を見て、今ならわかる。あたしがどれだけ、残酷なことをしたか」


 言葉の途中、カルロッタの声はかすれ、かすかに膝が揺れた。その場に崩れそうになりながらも、肩を落とさず、ただ目の前の男をまっすぐに受け止め続けていた。

 ファツィオの手元で、短剣がひときわ大きく震える。その刃先が、初めて自らの重さに耐えかねたように、じり、と下がった。

 言葉の終わりに、カルロッタはまるで祈るように目を閉じる。ミケーラが、音もなくそっと一歩、ファツィオに歩み寄った。

 彼のすぐ傍に立ち、震えるその手に自分の手を重ねる。驚きに目を見開いた彼の指から、ついに短剣が零れ落ちた。


「わたしの心はここにあるのよ。ずっとここに。あなたのそばに」


 乾いた音が石畳に響き、刃は力なく転がった。それはまるで、狂気の終焉を告げる鐘の音のように——。

 ファツィオは、力の抜けた腕でミケーラの肩に手を置いた。何も言わなかった。けれど、彼の瞳の奥に、初めて安らぎの影が揺れた。

 

 カルロッタは、その光景を黙って見ていた。かつて自分が切り捨てたもの、忘れ去ったはずのものが、こうして誰かの心の中で真実として息づいていたことを、ようやく知ったように。

 そして静かに踵を返し、祭りの灯の中へと歩き出した。誰に名を呼ばれるでもなく、降りてゆく舞台の幕に身を沈めていった。

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